第1話 婚約破棄されたようです
王宮の大広間には、春の花と焼き菓子の匂いが満ちていた。
高い天井から下がる魔石灯が、磨き上げられた床を照らしている。壁際の卓には銀の大皿が並び、薄く切った肉や、花の形に飾られた果物が隙間なく盛られていた。楽団の奏でる弦の音に、衣擦れと控えめな笑い声が重なる。
アシュフォード公爵令嬢リディアは、伯爵夫人の話に耳を傾けながら、その肩越しに菓子の皿を見ていた。
小さな焼き菓子に、苺が載っている。
先月は桃だった。あれもおいしかったけれど、苺ならぜひ一ついただきたい。
もっとも、王太子の婚約者が挨拶を途中で切り上げ、菓子へ向かうわけにはいかない。リディアは夫人の甥の結婚を祝い、花嫁の衣装について適切な感想を述べた。
その間に、苺の菓子が二つ減った。
顔には出さなかった。
こういうときのために学んだわけではないが、十数年にわたる教育は十分に役立っていた。
王太子エドワードとの婚約が正式に決まったのは、リディアが三歳のときである。
その日のことは、ほとんど覚えていない。白い靴がきつく、帰宅する頃には機嫌が悪くなっていたと母から聞いた。王子と並んだ肖像画の中では、二人とも立派な顔をしている。
おそらく画家が、相当に気を遣ったのだろう。
それ以来、リディアの暮らしには、いつも次の予定があった。
礼法、語学、歴史、舞踏。成長すると法律と外交儀礼が加わり、最近では王妃が主催する行事の準備にも立ち会っている。
今日も午前中は講義だった。午後は来月の式典に用いる席次の確認。その後に着替え、髪を整え、こうして夜会に出席している。
明日の予定も、その次の日の予定も、すでに決まっていた。
だから、今夜もいつもどおりに進むと思っていた。
最初に違和感を覚えたのは、王太子付きの侍従が近づいてこないことだった。
普段なら開会の挨拶が終わる頃には、エドワードが誰と話しているか、いつ合流するかを知らせてくれる。それが今夜は、広間の向こうで書類を抱えたまま動かない。
目が合いそうになると、侍従は別の客へ顔を向けた。
その客が立ち去っても、しばらく同じ方向を見ていた。
何か急な用事でもできたのだろうか。
リディアは伯爵夫人と別れ、エドワードのいる広間の奥へ目を向けた。
途中に立っていた側近の子爵と、視線がぶつかった。
いつもなら、彼の挨拶は少々長い。領地の天候から始まり、王太子の仕事ぶりに移り、最後にリディアの衣装を褒める。
しかし今夜は、軽く頭を下げただけで壁の絵を見上げた。
先月も掛かっていた絵である。
そのときは、額縁の陰に蜘蛛がいることにしか興味を示していなかった。
リディアが歩みを進めると、今度は二人の侍従が卓の向こうへ回った。一人はもう一人の背後に隠れようとしたが、背の高いほうが隠れる側だったため、あまり意味がなかった。
壁際では、令嬢たちが扇の陰で何か話している。
こちらを見る。隣の令嬢の袖を引く。また見る。
リディアが会釈すると、三人とも急に扇を動かし始めた。
広間は、暑くない。
私、何か忘れていましたかしら。
手袋の指先をそろえながら、今日の用事を思い返した。
王妃への返礼状は出した。慈善会の名簿も確認した。衣装に付けた紋章も、今夜の指定に合っている。
髪飾りが傾いているのなら、誰か教えてほしい。
リディアは窓硝子に映る自分を確かめた。淡い青のドレスも、真珠を留めた髪も、出かける前と変わらないようだった。
その向こうに、エドワードの姿が映った。
濃紺の礼装を着た彼は、側近から書類を受け取っていた。眉間に浅い皺がある。頁をめくり、一か所を指で示し、相手の返答を待っている。
公務で慎重な確認をするときの仕草だった。
少なくとも、菓子のことで機嫌を損ねているわけではなさそうだ。
リディアが近づこうとしたとき、楽団の音が途切れた。
曲の終わりではなかった。
弓を止めた奏者が指揮者を見ている。その指揮者は、王太子付きの侍従を見ていた。
広間の中央から、人が退いていく。
「リディア・アシュフォード。こちらへ」
エドワードの声が、急に静かになった広間へ響いた。
いつもの呼び方ではなかった。
リディアは一度瞬きをしてから、彼の前へ進んだ。左右に分かれた人々の間を歩く靴音が、妙にはっきり聞こえた。
王太子の脇には侍従と側近、その後ろには書類を持った文官がいた。
自分の立つ場所だけが、広く空いている。
礼をして顔を上げると、エドワードはわずかに唇を引き結んだ。
「先日の茶会で、セシル・ベルネット嬢が毒を盛られた件について、君に申し開きを求める」
リディアは、扇を持つ指に力を入れた。
ベルネット子爵令嬢が茶会の後に体調を崩したことは聞いている。数日の療養が必要だというので、花と見舞いの手紙を送った。
毒という言葉は、初めて聞いた。
文官が書類を開いた。
セシルは医師の処置によって一命を取り留めたこと。飲んだ茶から毒が確認されたこと。そして、リディアが王宮で使う私室から、同種の毒が入った小瓶が発見されたこと。
読み上げる声は平坦だった。
侍従が銀の盆を差し出す。封印を施された細い瓶が載っていた。
底に残った液体は、薄い琥珀色をしている。
リディアは瓶を見つめた。
知らない。
化粧台に置いてある香油とも、頭痛のときに使う薬とも違う。
見覚えがないものを、自分の持ち物だと言われていた。
文官が証言者を呼んだ。
一人目は、茶会の配膳を手伝った使用人だった。リディアが準備室の近くにいたという。
二人目は、私室へ荷物を運んだ侍従。同じ形の瓶を化粧台で見たという。
三人目に進み出たのは、先ほど絵を眺めていた子爵だった。リディアがセシルの振る舞いを快く思っていなかったと述べた。
四人目は、王宮へ品物を納める商人。公爵家の名を出した者から、その薬品について問い合わせを受けたという。
一人が下がると、次の一人が前に出た。
文官はちょうどよいところで頁をめくり、盆を持つ侍従は必要なときだけ半歩進んだ。誰も呼ばれる前に動かず、誰も順番を間違えない。
皆様、随分と息が合っていますこと。
先月の献花式では、三人の立ち位置を決めるだけで半日かかった。
あのときも、このくらい滑らかなら助かったのに。
そこまで考えて、リディアは自分に呆れた。
感心している場合ではなかった。
「私は毒を用意しておりません。セシル様のお茶にも触れておりません」
声は震えなかった。
ただ、閉じた扇の端が掌に食い込んでいる。少し痛かったので、握り直した。
エドワードの視線が、その手元へ落ちた。
「君の私室で発見され、鑑定も受けている。目撃の報告だけで判断しているわけではない」
彼は書類に挟まれた別の紙を示した。
異なる印章がいくつも押されていた。
何枚も読み、何人にも確かめたのだろう。その末に、こちらへ向ける目から親しみを取り除いたのだ。
リディアの胸の奥が、遅れて冷えた。
「茶会で彼女に注意をしたとも聞いている」
「裾が燭台に近づいていましたので」
セシルの飾り紐が火に触れそうになり、慌てて声をかけた。それは覚えている。
少し強い口調だったかもしれない。
しかし、それが毒を盛るほどの嫌悪になるのなら、礼法の教師は毎日生徒を憎んでいることになる。
子爵がエドワードの耳元へ何か告げた。
エドワードは小さく頷いた。
リディアの説明は、書類のどこにも書き足されなかった。
広間の端で、令嬢がハンカチを取り出した。隣の夫人はリディアの顔と指輪を交互に見ている。
ある貴族は、人の肩越しでは見えにくかったらしく、半歩横へ動いた。
別の男は娘の背をそっと押し、王太子に近い位置へ移らせていた。
皆、何かを待っていた。
泣くこと。縋ること。取り乱すこと。
リディア自身は、まず説明を待ちたかった。
知らない瓶があり、覚えのない行動があり、その理由まで他人が用意している。
驚いている。腹も立っている。
けれど、どちらを先に顔へ出せばよいのか分からなかった。
「公爵家にも、この件を正式にお知らせください。私は身に覚えがありません。改めてお調べいただきたく存じます」
エドワードの指が、書類の端を押さえた。
彼はしばらくリディアを見ていた。
その表情に、幼い頃から知っている迷いが戻った。難しい課題にぶつかったとき、彼はいつも少しだけ視線を下げる。
今回もそうした。
しかし、次に顔を上げたときには、もう決めていた。
「事件そのものの裁定は、正式な審理に委ねる。だが、これだけの証拠がそろった以上、このまま婚約を継続することはできない。それが王家の判断だ」
リディアは息を止めた。
「リディア・アシュフォードとの婚約を、ここに破棄する」
広間がざわめいた。
ハンカチを持っていた令嬢は、それを口元に当てた。娘を前へ押していた男は、ようやく手を引っ込めた。
リディアは、すぐには動けなかった。
エドワードと結婚する。
その先のことは考えても、それ自体がなくなるとは考えたことがなかった。
予定表にも、教科書にも、衣装の注文にも、彼との未来は組み込まれていた。
急にそれがなくなっても、何を支えに立てばよいのか分からない。
左手へ目を落とした。
青い宝石を留めた婚約指輪が、魔石灯の光を受けている。
成長に合わせて何度か作り直し、今の形になったのは二年前だった。色を選んだエドワードが、よく似合うと言った。
そのとき嬉しかったことを、こんな場で思い出した。
覚えているのが、少し悔しかった。
右手で指輪を引くと、手袋の縫い目に引っかかった。
一度で外れてくれてもよいのに。
布を緩め、もう一度引いた。
掌に載せると、小さな輪はひどく頼りなく見えた。先ほどまで自分の人生の一部だったものが、今はただの金属と宝石になっている。
「こちらは、お返しいたします」
エドワードの手が、わずかに動いた。
受け取ったのは侍従だった。
リディアは無実であることをもう一度伝え、礼をした。膝を折る角度だけは、長年の習慣どおりだった。
王家の典礼官が近づき、公爵家の監督下で帰邸する手続きを整えた。正式な通知は別に届けられるという。
彼の手帳には、今夜の進行表が挟まれていた。
端から見えた文字は、次の舞踏だった。
そこだけは、予定どおりではなかったらしい。
リディアが歩き始めると、人々が道を開けた。
誰も呼び止めなかった。
廊下へ出ても背筋を伸ばし、角を曲がってから、ようやく長く息を吐いた。
苺の菓子を食べ損ねた。
そんなことを思い出した自分に驚いたが、だからといって、ほかに何を考えればよいのかも分からなかった。
玄関では公爵家の馬車が待っていた。
付き添いの侍女は何も尋ねず、リディアの膝へ薄い毛布を掛けた。端を整える指が、いつもよりゆっくりだった。
扉が閉まる。
外の声が遠ざかり、車輪の振動が座席へ伝わってきた。
父は怒るだろう。
母はまず顔色を確かめ、それから温かいものを飲ませようとするだろう。
どこから話せばよいのか。
毒の瓶からか。四人の証言からか。それとも、エドワードが自分の言葉を信じなかったことからか。
考えるだけで疲れて、リディアは背もたれに身を預けた。
明日も朝が早い。
九時から、隣国の王室系譜についての講義がある。小試験もあった。同じ名の王が三人いて、そのうち二人は同じ名の王女と結婚している。
昨夜は、その区別に苦労した。
帰ったら、もう一度確認しておかなければ。
そこまで考えて、リディアは毛布の上の左手を見た。
指輪がない。
もう、王太子妃になる予定もない。
それなら、明日の講義は。
頭の中で予定表を開いた。
九時から十一時までの授業。その後に入っていた女官との打ち合わせ。昼までに提出する課題。
おそらく、どれもなくなる。
「……あら」
侍女が心配そうに顔を上げた。
リディアは小さく首を振り、窓の外へ目を向けた。王宮の灯りが、夜の街の向こうへ遠ざかっていく。
寂しさはあった。
腹立たしさも、なくなってはいない。
けれど、その間に、今まで見たことのないものができていた。
明日の午前中が空いている。
婚約を失った夜の馬車で、リディアは初めて、予定表の大きな空白を見つけた。




