濁流と算盤
雨は三日、降り続けた。
川の水位が上がっている。石畳が消えて、路地の端まで水が来ている。下層の人間はそれに慣れていた。慣れているから、誰も避難しない。ただ少しだけ、いつもより高いところを歩く。
三人は川辺の廃屋に転がり込んでいた。
屋根の三分の一が抜けている。壁の隙間から風が入る。床は石だが、端の方は苔が生えている。誰かが昔ここで暮らしていた形跡が、あちこちに残っている。錆びた鍋。破れた暦。誰かの名前が刻まれたままの木の柱。
「ここでいい」
ジグが言った。
理由は言わなかった。キコも聞かなかった。ルルだけが屋根の穴を見上げて「雨、入ってくるけど」と言った。
「入ってくる」とジグが言った。「だからここでいい」
「意味が分からない」
「雨が入ってくる場所には、人が来ない」
ルルが少し考えた。「……賢い」
「当たり前だ」
キコはその会話を聞きながら、壁の一番乾いている場所を探していた。見つけた。荷物を下ろした。算盤を取り出した。
壊れている。逃げる時に、キコ自身が躓いて壁に叩きつけた。珠が二つ、欠けている。枠の端が割れている。
それでも、動く。
カチ。
音を確かめるように、一度だけ珠を弾いた。
鳴った。
「……まだ使える」
「当然でしょ」とルルが言った。根拠のない発言だった。でもキコは否定しなかった。
荷物の中に、文献がある。
禁書庫から持ち出したものだ。燃える前に、キコが手を伸ばした。三冊。
一冊は熱量の流れに関する設計記録。二冊目は腕輪の構造、干渉と応用の記録。三冊目は、まだ全部読めていない。文字が古すぎる。でも図がある。算盤の珠の配置に似た図が、何頁にも渡って繰り返されている。
「ねえ」ルルが覗き込んだ。「それ、また持ち出してたの」
「拾った」
「燃える建物から?」
「拾った」
ルルが少し笑った。ジグが外から声をかけた。「飯の材料、調達してくる」
「どこから」と壁越しにキコが言う。
「廃棄場」
「……そうか」
足音が遠ざかった。雨音だけが残った。
キコは文献を開いた。算盤を手元に置いた。壊れているが、動く。
窓の外で、川が鳴っている。
帝都の機構は、今夜も動いている。誰かの腕輪から熱量を吸い上げて、上層へ流している。配信が来る。街の人間が笑う。翌朝、また同じ一日が始まる。
逆位相を打った夜から、三日が経った。
何かが変わったか。
キコには分からなかった。数値がない。観測できていない。壊れた算盤と三冊の文献と、屋根の穴から入ってくる雨だけがある。
三冊目の文献を開いた。
古い。紙の端が茶色くなっている。文字は読めない部分が多い。でも図がある。珠の配置に似た図が、何頁にも渡って繰り返されている。
一頁目の図を見た。珠が七列。列ごとに数が違う。列と列の間に、細い線が引かれている。熱の経路を示しているのか、信号の向きを示しているのか、まだ読めない。でも配置に法則がある。ランダムではない。誰かが意図して置いた図だ。
珠を弾いた。カチ、カチ。図の配置を数値に変換しようとした。できなかった。変換する前提となる単位が分からない。文字が読めないから、単位の定義が分からない。
算盤を置いた。
図をもう一度見た。
一頁目の図。珠が七列。列と列の間の細い線。
逆位相を打った夜、キコは一番端の列に珠を一つだけ置いた。いつもの配置ではなかった。この図の、一番端の列だけ他と違う線が引いてあったから、試した。それだけだった。
あの夜、逆位相が届いた。帝都全域に、届いた。今まで届かなかった範囲まで、届いた。
あの一つの珠が関係していたのか、別の要因があったのか、今も分からない。確かめる方法がない。でも——あの夜だけ、算盤の盤面がかすかに温かかった。胸元で抱いた時。温度は数値にならない。でも確かにあった。
禁書庫にいた時、この文献は棚の一番奥にあった。錆びた鍋の後ろ。誰かがそこに隠していた。隠したのか、忘れたのかは分からない。キコが見つけたのは半年前だった。読めないまま、でも捨てなかった。図が気になったからだ。
気になる、という感覚は計算ではない。でも計算の手がかりになることがある。
今もそうかどうか、まだ分からない。
雨音が変わった。強くなっている。屋根の穴から、細い糸のような雨が入ってきた。文献に当たらない場所へ、ずらした。
ジグはまだ戻っていない。ルルは壁際で膝を抱えていた。眠っているのか起きているのか分からない。キコはどちらも確認しなかった。確認しなくていい。ここにいる。それだけ分かっていれば十分だ。
禁書庫のことを、考えないようにしていた。
考えても、戻らない。あそこにあったものの大部分は、もうない。古本の背表紙。錆びた鍋。壊れた大時計の文字盤。誰かの名前が刻まれた木の柱。全部、あの煙の中にある。
三冊だけ、手元にある。
それだけあれば続けられる。
計算の根拠が、数値だけとは限らない。ジグとルルと、三冊の文献と、壊れた算盤がある。禁書庫を失った夜、キコが手を伸ばして掴んだものは、計算ではなく——何か別のものだったかもしれない。
名前がない。でも、確かにある。
算盤に触れた。冷たかった。雨の夜の廃屋は、帝都の下層でも特別に冷える。それでも珠に触れた手は、動かせた。
カチ、と珠を弾いた。
計算が、まだ終わっていない。
だから続ける。それだけだ。




