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逆位相

その夜、帝都が息を止める少し前に、キコは禁書庫へ戻った。


ジグは「今夜は外を張る」と言って消えた。白い腕輪の人物がまた現れた時のために、路地の角から目を光らせておくと言った。止めても聞かないのは分かっていたから、止めなかった。


ルルは禁書庫にいた。


梯子の上で古い星図を広げていた。キコが入ってきても顔を上げなかった。「おかえり」とだけ言った。


「なんでいる」


「星図、途中だから」


「昨日も一昨日も途中だった」


「毎日途中が増えるんだもん」


キコは何も言わなかった。机に算盤を置いて、準備を始めた。


蝋燭に火をつける。光が揺れる。壁を這う銅線が、炎の色を受けてかすかに光っている。増幅回路の接続を一つずつ確かめる。


算盤を手に取った。


珠を一つだけ、いつもと違う列に置いた。禁書庫の奥の棚で見た図——一番端の列だけ他と違う線が引いてあった。その線が何を意味するのかは読めなかった。でも今夜だけ、試してみる。


駄目なら元に戻す。それだけだ。


算盤の端子。妨害回路のスイッチ。主レバー。全部、ここに繋がっている。何年もかけて、少しずつ、この机の上に積み上げてきたものが。


机の上には、これまで積み上げてきた全てがある。


観測記録。設計図の写し。誤差の数列。三週間かけて組み上げた増幅回路。算盤の端子から伸びる銅線が、禁書庫の壁を這って、外の電波へ繋がっている。


何年かかったか。正確には覚えていない。腕輪の光が消えた者を見た日から、ずっとこれをやっていた。数字で追いかけていた。


ルルが来てから、それが変わった。


八歳の子どもが昼から働いていると知った。老婆が泣きながら笑っていると見た。川べりで紫の夕焼けを見た。ジグが「数字にするな、今は」と言った。銀の飴を得意げに配るやつがいた。


数式の外側に、ずっとそれがあった。


分かっていた。分かっていたのに、見ていなかった。


珠を弾く。カチ。カチ、カチ。


指が震えている。怖いのではない——と思いたかった。でもジグに言われたことを思い出す。怖くないやつが、指を震わせながら珠を打つか。


怖い。怖いが、止まれない。


電波塔が光り始めた。


金色の波動が、夜空へ立ち上る。帝都中の腕輪が反応し始める。路地を急いでいた人々が足を止める。肩の力が抜ける。空を見上げる。今夜もいつもの、甘くて柔らかい時間が始まる。


キコは主レバーを握った。


広場の老婆が浮かんだ。泣きながら笑っていた顔。


子どもたちの薄い腕輪。八歳で昼から消える背中。


アナグマが黙って前払いの黒パンをよこした手。


ジグが「頼む」と言った声。


ルルが「壊したほうがいいね」と言った、あっさりした顔。


(お前たちは何も悪くない)


(ただ、知らなかっただけだ)


「——終わりだ」


レバーを引き切った。


増幅回路が唸る。算盤の珠が一斉に動く。禁書庫の銅線が熱を持ち、小さな火花が飛ぶ。


放たれたのは、金色の波動と完全に反転した周波数。


逆位相。


見えない衝撃が帝都全域を駆け抜けた。


一瞬、世界から音が消えた。


次の瞬間、金色の光が歪む。電波塔を包んでいた輝きが、どす黒い紫へと反転した。広場中の腕輪が激しく明滅する。路地で足を止めていた人々がよろめいた。甘い感覚が引いていく。夢から醒めるみたいに、少しずつ、目の焦点が戻ってくる。


泣いていた老婆が、きょとんとした顔で周りを見た。涙の跡がそのまま頬に残っている。さっきまでの恍惚はない。疲れた、普通の顔。でも、自分の顔だ。膝をついて祈っていた男が、ゆっくり立ち上がった。目が合った。その目に、焦点がある。


「やった……」


キコは震える指で算盤を抱き寄せた。胸元で、盤面がかすかに温かかった。


「止めたぞ……」


その時だった。


背後で、静かな拍手が鳴った。


パチ。パチ。パチ。


空気が変わった。


振り返る。


禁書庫の鉄扉が歪んでいた。開いたのではない。押し潰されていた。その向こうに立っていたのは、黒いフードを深く被った長身の獣だった。外套の裾から長く鋭い爪が覗いている。左手首——純白の腕輪。目を焼くような光。


白い腕輪だ。


「実に見事だ」


穏やかな声。その静けさが恐怖を増幅させる。


「君がキコか。探していた。ずいぶん手間をかけてくれた」


獣は外套の内側から細身の銃を抜いた。白い熱が銃口に集まる。


勝てない。計算するまでもない。


「君の演算能力は興味深い。上層で役立てよう」


銃口がキコを指す。生存確率。回避確率。脱出確率。


全部、ゼロだ。


終わった——そう思った瞬間。


「——キコ!!」


轟音。


分厚い本が、獣の顔面へ直撃した。照準が逸れ、白い閃光が本棚を吹き飛ばす。木片と紙片が宙を舞う。


「ルル!?」


梯子の上。ルルが震えながら立っていた。顔は真っ青。長い耳もぺたりと倒れている。足が細かく震えている。それでも次の本を両手で抱えている。


「来るなと言っただろ!」


「だって……!」


ルルが叫ぶ。


「キコが死んじゃったら……誰が続きを書くの!」


胸の奥が、焼けた。


数式じゃない。計算じゃない。ただ、焼けた。


ルルは今夜の作戦を知らない。逆位相も、増幅回路も、何一つ知らない。ただここへ来た。星図が途中だから、という顔で来た。そしてキコが死にそうだから、本を投げた。


それだけだ。


獣の銃口がルルへ向く。


その瞬間——キコの中で何かが切れた。


計算。効率。勝率。全部どうでもよかった。


気づけば走っていた。机を蹴り、飛び、スパナを振り抜く。金属が激突し、火花が散る。獣の腕輪に一本の亀裂が走った。


「ルル!! 走れ!」


ルルの手を掴み、崩れた本棚の間を駆け抜ける。背後で白い炎が暴走し、禁書庫が揺れる。


扉を抜け、夜へ飛び出す。


路地の角を曲がった瞬間、誰かにぶつかった。


「っ——何やってんだよ!」


ジグだった。


息が上がっていた。外套の前が開いている。走ってきた体のまま、禁書庫の方角を見ていた。煙が上がり始めていた。路地の端から光が見えた。燃えている。


「見てたのか」とキコが言う。


「煙が上がったから来た」ジグはルルを一瞥して、キコを見た。「二人とも怪我は」


「ない」


「追ってくるか」


「来る」


「じゃあ走れ」


それだけだった。説明も、責めも、何もなかった。ジグは二人の前に出て、路地の奥へ向かった。


雨が降っていた。


ガス灯は消え、街は闇に沈んでいる。ジグが先を走る。キコがルルの手を引く。三人で夜の路地を駆けた。


路地の端に、さっきまで配信を待っていたはずの人々が、茫然と空を見上げていた。光が消えた夜空を。何が起きたか分からない顔で。


でも、目の焦点が、ある。さっきまでと違う顔をしている。


背後で轟音。禁書庫が燃えていた。


何年もかけて集めた資料。禁書。設計図の写し。壊れた大時計。窓から差し込んでいたオレンジの光。自分の居場所だった場所。それが炎の中で崩れていく。


だが立ち止まれない。


「どこへ行くの!」とルルが叫ぶ。


「知らない!」とジグが叫ぶ。


「決まってない!」とキコが叫ぶ。


三人同時だった。


ルルが笑い出した。走りながら、息を切らしながら、笑い出した。ジグが「笑ってる場合か」と言いながら、口の端が上がった。


キコも笑った。


初めてだった。こんなふうに笑ったのは。


「でも生きる! 計算は後だ!」


壊れた算盤を抱えたまま。追われながら。雨の中で。


路地を抜けるとき、茫然と空を見上げていたテンの男が、ふと三人を見た。目が合った。キコは止まらなかった。でも、見た。


男の腕輪が、さっきより少しだけ、自分の色をしていた。


川沿いの路地まで来て、ジグがようやく足を止めた。


追ってくる気配がない。雨が足跡を消してくれていた。


三人で壁に背を預けて、息を整えた。ルルが膝に手をついてはあはあ言っている。ジグが濡れた前髪をかき上げる。キコは算盤を胸に抱いたまま、夜空を見上げた。


雨が顔に当たる。冷たかった。


「なあ」とジグが言う。


「なに」


「終わったのか」


「終わってない」とキコは言った。「始まりだ」


ジグは少し黙った。それから、鼻で笑った。「だよな」


ルルが顔を上げた。濡れた長い耳が、ぺたりと頬に張りついている。それでも、目だけが笑っていた。


「ねえ」


「なに」


「星、見える?」


雨の夜だった。雲が厚い。光が届かない。


それでもキコは少しだけ空を見た。


「……見えない」


「ちゃんと見れば見えるよ」


「雨だぞ」


「それでも」


ジグが「目がいいな」と言った。


ルルが「でしょ」と言った。


キコは答えなかった。


答えなかったが、もう少しだけ空を見ていた。


雨の向こうに、光があるかどうか。算盤では測れない。計算では出ない。


でも。


壊れた算盤を、少しだけ強く抱き直した。


三人で夜の中に立っていた。家を失った。資料を失った。世界を敵に回した。


それでも。


隣でルルが耳を震わせて雨粒を払っていた。反対側でジグが外套を脱いで二人に広げようとしていた。


(計算できない)


(でも、ここにある)


三人で、夜の川沿いを歩き始めた。


どこへ行くかは、まだ決まっていない。


それでよかった。


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