白い腕輪
その夜、広場へ観測に出たのはキコだけだった。
ジグは「別の用がある」と言って姿を消した。ルルは禁書庫で古い薬草図鑑を読んでいた。「晴れてるから出たい」と言っていたくせに、本を開いたら動かなくなった。そういうやつだ。
一人で広場の端に立って、腕輪の数値を記録した。今夜の配信は昨夜より長い。出力が少し高い。珠を弾いて補正値を書き留める。風が出てきて、紙の端がめくれた。
広場の人波が金色に輝いている。誰もがどこかへ溶けていくような顔をしている。キコだけが、その外側に立っていた。腕輪の妨害回路が静かに働いていて、波動は届かない。届かないから、周りがよく見える。幸福そうな顔の中に、何かを諦めた目がある。笑いながら泣いている目がある。配信に溺れながら、それでも何かを探している目がある。
帰り道、路地の角を曲がったところで、足が止まった。
禁書庫の扉の前に、人影があった。
一瞬だった。影はすぐに路地の暗がりへ消えた。背が高い。外套にフードを被っている。それだけしか見えなかった。
キコはしばらく動かなかった。
鍵穴を確認した。三本、細く鋭い引っかき傷がある。今日のものだ。
スパナを握って、慎重に扉を開ける。静かだった。本棚も机も変わらない。ルルが隅で眠っていた。禁書も隠したままだ。
蝋燭に火をつける。光が揺れる。いつもと同じ禁書庫。いつもと同じ埃と紙の匂い。なのに何かが違う。空気が違う。誰かがここにいた痕跡が、匂いのように残っている。
だが——
床の埃に、足跡があった。
誰かが入った。重い鉄靴ではない。軽い、音を消すことに慣れた足跡。歩幅を測る。体重を推算する。侵入経路を辿る。算盤に数値を打ち込む。
どこにも一致しない。帝都の警備記録にも。巡回経路にも。
知られている。
この禁書庫で、誰かが何かを探していた。算盤ではなく、本能がそう告げていた。キコは禁書を棚の奥へ押し込んだ。偽装用の古書を並べる。さらに隠す。さらに覆う。それでも足りない気がした。
指が震えた。珠が打てない。そんなことは初めてだった。
翌朝。扉を叩く音で顔を上げると、そこにルルが立っていた。
雲ひとつない快晴。光の中で、ルルは長い耳をぴんと立てて、いつものように笑っていた。手に布の包みを持っている。
「晴れなのに来たのか」
「嘘つきだからね」
ルルは当然のように入り込み、包みをキコの机に置いた。温かい芋の蒸かしたものが入っていた。
「朝ごはん。アナグマのおじさんとこ通ったら、見習いの人が持たせてくれた。顔が死んでるって言ってた」
「アナグマが言ったのか」
「ううん」ルルは少し考えた。「ジグが言ってた。昨日すれ違った時に、あたしに。キコに渡してきてくれって」
「余計なお世話だ」
「食べてないんでしょ」
「……食べる」
ルルは満足そうに梯子を引き出して本棚へ登った。キコは芋を一口かじりながら、昨夜の足跡を思い返した。あの引っかき傷。消えた人影。指の震え。
「ねえ、キコ」
上から声が降りてくる。ルルが薬草図鑑を抱えたまま、こちらを見ていた。
「昨日の夕方、ここにいた?」
「いや。観測に出ていた」
「やっぱり」
ルルは少しだけ表情を曇らせた。「昨日ね。誰かいたよ」
キコは芋を置いた。「誰だ」
「背がすごく高い人。フードを被ってた。あたし、角を曲がったところで見かけて……ここから出てきたから、キコが戻ったのかと思ったんだけど」
「他には」
「腕輪。すごく明るかった。白に近い光。あんなの初めて見た」
白。
下層民ではありえない。上層の中でも、ごく限られた者だけが持つ光。機関の中枢に近い者だけが。
昨夜の足跡と結びつく。
「ルル」
キコは立ち上がった。「帰れ」
「え?」
「今すぐだ。ここは危険だ」
資料をまとめ、算盤を閉じる。
「じゃあ一緒に逃げようか」
あまりにも簡単に言う。まるで散歩に誘うみたいに。
「分かってないだろ」
禁書庫に声が響いた。ルルが驚いたように目を丸くする。キコは息を詰まらせた。怒鳴ったのか、怖かったのか、自分でも分からなかった。
「……帰れ」
ルルはしばらく黙っていた。やがて小さく頷く。「分かった」
抵抗しない。扉へ向かう。だが出ていく直前、ふと振り返った。
「ねえ。最近、腕輪が少し明るいんだよね」
ルルは長い耳をぱたりと倒した。「気のせいかな」
キコは答えられなかった。
ルルが去ったあと、キコはすぐに算盤を起動した。
ルルの腕輪の記録を呼び出す。熱量の推移。過去二週間分。
固まった。
増えている。
ほんのわずか。だが確実に。帝都の機関が民衆から吸い上げる流れの中で、ルルの腕輪だけが微細に増えている。
ありえない。
記録を追った。市場。路地。広場。ルルの行動の痕跡。花をもらう。荷物を運ぶ。迷子に道を教える。行き倒れへ水を渡す。朝来る子どもたちと迷路を描く。
どれも取るに足らない行動だった。だが、そのたびに微細な熱量の動きが発生している。人から人へ。小さな経路で。
小さすぎる。帝都の巨大機関が認識できないほどに。
ルルは何も知らない。搾取の構造も。機関の仕組みも。ただ生きているだけだ。それなのに、キコが何年も探していた死角を、無意識のまま踏み抜いている。
「……なんなんだ、お前は」
食べかけの芋を、もう一口かじった。冷めていた。それでも温かかった。
夕方、ジグが来た。扉からではなく、裏の換気口から。いつもと同じ入り方だったが、顔が違った。
「昨夜、誰か来たか」
開口一番だった。キコは少し驚いた。「なぜ知っている」
「路地に気配が残ってた。朝通ったら分かった」ジグは机の端に腰を下ろさなかった。珍しく、立ったままだった。「誰だ」
「分からない。白い腕輪だったとルルが言っていた」
ジグの顔が変わった。「白?」
「ああ」
「……機関の人間か」
「そうだと思う」
しばらく沈黙があった。ジグがゆっくりと息を吐く。
「キコ」
「なに」
「一度、ここを離れろ」
キコは算盤から顔を上げた。ジグがこういう声を出すのは、珍しかった。軽口でも皮肉でもない。本気の声だった。
「嫌だ」
「嫌じゃない。今夜だけでいい。場所を変えて頭を冷やせ」
「冷えている」
「冷えてない。お前は今、怖いだろ」
キコは答えなかった。
「怖くないやつが、指を震わせながら珠を打つか」
見ていたのか。キコは視線を落とした。算盤の盤面を見つめた。
「……怖くても、止まれない」
「知ってる」ジグは低く言う。「止まれないのは知ってる。でも今夜だけは場所を変えろ。頼む」
頼む、という言葉が、ジグの口から出たのを初めて聞いた。
キコはしばらく算盤を見ていた。それから、静かに立ち上がった。
「……一晩だけだ」
「それでいい」
ジグが先に扉へ向かった。キコは算盤を胸元に抱えて、後に続く。
扉を出る前に、一度だけ振り返った。
窓から夕陽が差し込んでいた。壊れた大時計の文字盤に反射して、机の上がオレンジ色に染まっていた。埃が光の中を漂っている。積み上がった古本の背表紙が、静かに並んでいる。
誰かがここにいた。この場所で何かを探した。
キコはもう一度、算盤を握り直した。
まだ終わっていない。
夜道を二人で歩きながら、ジグが言った。
「ルルには言うな」
「なぜ」
「心配する。で、また禁書庫に来る」
「……それは困る」
「だろ」
しばらく黙って歩いた。路地の先で、遠く電波塔の光が見えた。今夜も配信が始まっている。街の腕輪が一斉に応える。路地を歩く人々が足を止めて、空を見上げている。みんな同じ方向を向いて、同じ光を受けている。
キコとジグだけが、その流れに逆らって歩いていた。
「なあ、キコ」
「なに」
「ルルの腕輪、本当に増えてるのか」
「ああ」
「なんで」
「分からない。まだ」
ジグは少し黙った。「……そうか」
また歩く。
「あいつ」とジグが言う。「何も知らないくせに、妙に核心を突くんだよな」
「知ってる」
「怖くないか、あれ」
キコは少し考えた。「怖くない。ただ、計算できない」
「計算できないのが怖いんだろ、お前にとって」
キコは答えなかった。
答えなかったが、それが答えだった。
ジグは何も言わなかった。ただ少しだけ、歩く速度を落とした。キコの隣に、並んで歩くために。




