王瑠冠の形
ルルが禁書庫に居座り始めて、二週間が過ぎた。
朝来る。本棚に登る。子どもたちと騒ぐ。昼になると子どもたちが消えて、ルルだけ残る。夕方になるとジグが来る。三人でひとしきり言い合って、夜になるとルルだけ寝る。ジグは消える。キコは計算する。
そういう日が続いた。
夜の禁書庫は、昼間とまた違う顔をしていた。蝋燭の光が届かない棚の奥が、ぐっと暗くなる。古い紙と木の匂いが濃くなる。時々、どこかで虫が鳴く。壊れた大時計は当然動かないが、夜になるとなぜかその存在感が増す。止まったままで、ずっとここにいる、という感じがする。
「ねえ、この星なんていう名前?」
ある夜、ルルが古い星図を抱えたまま梯子の上から聞いてきた。
「知らない」
「キコが知らないことってあるんだ」
「ある。名前のない星。算盤に載らない色。それから――」
言葉が止まった。浮かばない。計算ならできる。数式なら組める。だが今言おうとした言葉だけが、霧のように消えていた。
「それから?」とルルが首を傾げる。
「……忘れた」
「忘れることもあるんだ」
ルルは笑って、また星図に目を落とした。指先で星と星を結び、自分だけの歪な星座を描いている。
キコも算盤へ向き直る。やるべきことは山ほどある。それなのに、指が動かない。隣でページをめくる音だけが、妙に大きく響く。かさり。かさり。
その夜、キコは初めて一時間のあいだ算盤を開かなかった。
翌朝。子どもたちが禁書庫の前に集まってきた。
ルルが出ていって、迷路の絵を描いてやっている。子どもたちがわあわあ言いながら指でなぞる。キコは窓から眺めながら、腕輪の数値を確認していた。
子どもたちの腕輪が、薄い。
下層でも薄い方だった。光の色が、大人のそれより早く褪せている。
昼になると子どもたちが消えた。ルルが戻ってきた。
「昼から何してるんだ、あいつら」
「働いてるよ」とルルがさらりと言う。
「何歳だ」
「八つとか、九つとか」
キコは算盤の珠を一つ動かし、また戻した。
「腕輪の残量が少ない家は、子どもも出るんだって」
ルルは言いながら、迷路の続きを紙に描き始めた。そこに特別な感情はなかった。淡々と事実を言っている顔だった。それが当然の話として、ずっとそこにあった顔だった。
キコは計算する気になれなかった。
その夜遅く、ジグが来た。
扉ではなく、換気口から入ってきた。いつものことだ。外套の肩に夜気をまとって、机の端に腰を下ろす。
「何か掴めたか」
「ある」とキコは言った。「でもまだ確信が持てない」
「そうか」ジグは少し黙った。「俺も一つある」
「なに」
「最近この辺に妙なのが来てる。三日くらい前の夜——お前が逆位相の試算してた頃だ。路地でただ立ってた。こっちを見てた」
キコは珠を弾く手を止めた。「どんな格好だ」
「フード深め。背が高い。下層には場違いな感じ」
「腕輪は」
ジグが少しだけ間を置いた。「白かった」
キコは算盤を閉じた。広場で見た、あの一瞬の光が頭をよぎる。見間違いではなかった。
「また来ると思うか」
「さあ。でもこっちを見てたのは確かだ」ジグは鼻を鳴らした。「お前のこと、誰かが追ってる」
「……分かった」
「それだけか」
「今は動かない。まだ手が足りない」
ジグが目を細める。「それより、設計図の話だ。禁書庫の奥に、か」
「三週間、観察した南京錠がある。今夜開けられる」
「俺も行く」
「いらない」
「一人でうろうろするな。見つかった時に逃げられないだろ」
キコは少し黙った。否定できなかった。逃げることに関しては、ジグの方が確実に上だ。
「……ついてくるだけでいい」
「分かった」
二人で禁書庫の奥へ向かった。ルルは本棚の隅で丸まって眠っていた。
奥へ進むほど、埃が深くなる。誰かが何十年も前に積み上げたまま放置した本が、棚からはみ出している。ジグが懐中電灯で照らすと、背表紙に読めない文字が並んでいた。
ジグが懐中電灯で照らした棚の端に、一冊だけ横倒しになっている本があった。
他の本は全部、背表紙を外に向けて並んでいる。その一冊だけが、誰かに引き抜かれて、戻された時に向きが変わっていた。
キコは立ち止まった。
引き抜いた者の手の高さを見た。棚の三段目。ルルの背丈なら、ちょうど届く高さだった。
本を取り出した。表紙に文字はない。頁を開く。珠そのものの断面図だった。珠の内側に、細い線が走っている。熱の経路を示しているのか、振動の向きを示しているのか、一見しただけでは分からない。でも、どこかで見た形だった。
算盤の珠を、ジグに気づかれないように一つだけ取り出した。図と並べた。
形が、一致していた。
珠の内側の構造と、図の中心部分が、同じ形をしていた。
キコは頁を閉じた。棚に戻した。向きは、もとの横倒しのままにした。
「なんだこれ」ジグが一冊を引き抜く。頁をめくると、図が描いてある。星のような光が走っている絵。「花火の研究か?」
「違う」キコはちらりと見た。「電気だ。かなり古い研究書だ」
「電気って……それ、結構すごくないか」
「すごい。でも今じゃない」
ジグは本を棚へ戻した。「お前、いつかこれ全部読む気か」
「読む」
「一生かかるぞ」
「かまわない」
ジグが呆れたように鼻を鳴らした。二人は奥へ進んだ。
南京錠の前に立った。
算盤の端子を差し込む。内部構造を探る。数秒後、錆びた鎖が床へ落ちた。
「早いな」とジグが言う。
「三週間かけた」
「かけた意味があったな」
扉の奥にあったのは、一冊の本だった。表紙に題名はない。
キコは頁を開いた。最初の一行だけが記されていた。
『世界の熱量は常に保存される。ただし、その分配は――』
文章はそこで途切れていた。
蝋燭を近づける。白紙だった頁に、熱で文字が浮かび上がる。ジグが後ろから覗き込んで、低く口笛を吹いた。
帝都の設計図だった。
民衆から集められた熱量の流れ。電波塔を経由して、帝都全体へ還元されるはずの経路。ただし——図の中央に、別の線が引かれていた。細い。見落としそうなほど細い。だが確実にそこにある。民衆から吸い上げられた分の相当な割合が、還元される前に、ある場所へ流れていた。一握りの場所へ。
キコはそのページを三回、読み直した。
「……なるほど」
笑った。恐怖からではない。
あの配信が毎夜流れる理由。翌朝みんなが同じ顔になる理由。パン屋の前で人が寝ている理由。八歳の子どもが昼から働く理由。残量が低い者が食事を値切られる理由。
広場で見た老婆の涙。子どもの薄い腕輪。ジグが「数字にするな」と言った声。
全部、この線の上にある。
「キコ」
ジグの声が、いつもと違った。
「これ、どこまで広がってる」
「帝都全域だ。機関の中枢まで繋がってる」
「……そうか」
ジグは設計図を見たまま、動かなかった。
「なあ」しばらくして、ぽつりと言った。「これ全部、俺たちの分も入ってるんだろ」
「ああ」
「……まじか」
それだけだった。それ以上何も言わなかった。でも、次に口を開いた時の声が、少しだけ違った。
「一人でやる気か」
「お前には関係――」
「関係ないとは言ってない」
また、その言葉だった。川べりで言ったのと同じ言葉。キコは算盤を握った。
「まだ方法が固まっていない」
「固まったら教えろ」
「なぜ」
「なぜって」ジグは鼻で笑った。「俺が盗めるのは飴と小銭だけだ。でもお前が動く時に逃げ道を作るくらいはできる」
キコは何も言えなかった。
最後の頁に、別の筆跡が残されていた。
『この書を読んだ者へ。逃げろ』
「逃げろ、だと」ジグが読んで、眉を上げる。
「まさか」とキコは言う。
「……だよな」ジグが小さく笑う。「お前が逃げるわけがない」
禁書庫の本棚へ戻ると、ルルが起きていた。星図を膝に乗せて、暗い天井を見上げている。蝋燭の光が届かない高いところに、細い窓がある。そこから夜空が少しだけ見えた。ルルはその窓を見ていた。
「何か見つかった?」
「ある」とキコは言った。
「そう」
ルルは少し考えた。それから、植物図鑑で見つけた話でもするような気軽さで言った。
「ねえ。きれいな花って毒があるんだって」
「知ってる」
「見た目がきれいで完璧なものほど、危ないんだって」
静かな沈黙。
「キコが壊そうとしてるやつも、そうなのかな」
指が止まった。算盤の上で。
ルルはキコが何を壊そうとしているのか、詳しくは知らない。それでも、こういうことを言う。計算でも論理でもない。なのに当たっている。
「……毒だからだ」
しばらくしてキコは口を開いた。「放っておけば、みんな死ぬ」
「じゃあ」とルルが言う。
あっさりと。議論ではなく、ただ結論を言う顔で。
「壊したほうがいいね」
ジグが壁に背を預けたまま、天井を見上げた。何も言わなかった。
キコも再び算盤を開いた。
かさり、とルルが星図をめくる音がした。
珠の音が、以前と少し違った。冷たい数式ではない。もっと重い。もっと人間臭い音だった。




