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骨の街を歩く

その日の夕方、ジグが「広場に行くぞ」と言った。


「なんで」とキコが言う。


「ヴォルンが出る。直接見ておいた方がいいだろ、お前の計算に」


それは口実だとキコには分かった。ジグは配信の仕組みに興味などない。ただキコを外に引っ張り出したいだけだ。だが「計算に必要」と言われると、断りにくい。長い付き合いで、ジグはそれを知っている。


「わたしも行く」とルルが言った。


「じゃあ行くか」とジグが言った。


キコは算盤を閉じた。


下層の端を流れる川沿いに、三人で歩いた。


夕暮れ時の川は、昼間より少しだけ穏やかに見える。石炭の煤を含んだ水が、それでも夕陽を受けてかすかに光っていた。川の向こう岸には工場が並んでいて、煙突から白い煙が上がっている。風が出ると煤の匂いがした。それでも夕方の川べりは、帝都の中では珍しく、少しだけ息ができる場所だった。


川べりに屋台が一軒だけ出ていて、イチゴを潰した水を売っていた。


「おごる」とジグが言って、三つ買った。


「どこにあったお金かとかは聞くなよ」


「聞かない」とルルが言う。


「聞く気もない」とキコが言う。


「お前らは気が合うな」


三人で川べりの石段に腰を下ろした。イチゴ水は薄かったが、冷たかった。ルルが「おいしい」と言った。ジグが「そうか?」と言いながら自分のも飲み干した。キコは無言で飲んだ。


ふと、ルルの腕輪の数値が動いた。


何もしていない。ただ石段に座って、川を見ているだけだ。なのに熱量が——増えている。わずかに、だが、確かに。


キコは算盤を触るより先に、指を止めた。


外から入ってくるはずがない。この街の構造上、あり得ない。だが数字は嘘をつかない。


「どうした」とジグが言う。


「……何でもない」


まだ計算が合わない。だから今は、見ていない。


川の向こうに、帝都の電波塔が見えた。夕暮れの空を背に、黒いシルエットで立っている。


「でかいな、毎回思うけど」とジグが言う。


「高さ百八十メートルだ」とキコが言う。


「知りたくなかった情報だ」


ルルが空を見上げた。「夕焼け、紫になってきた」


確かに、西の空の端が、橙から紫へと滲み始めていた。帝都の空によく出る色だ。煤と蒸気が混じると、夕暮れがこういう色になる。


「きれい……なんだけどね」


ルルがぽつりと言った。


誰も答えなかった。答えなくても、分かったから。


ジグが外套のポケットをごそごそと探り始めた。しばらくして、銀色の包み紙に包まれた飴を二つ取り出した。


「ほれ」とルルに一つ渡す。


「わあ」とルルが目を丸くする。「銀色だ」


「上層の菓子屋のやつ。珍しいだろ」


「どこで手に入れたの」


「聞くなって言ったろ」


「飴は言ってない、お金だけ言った」


「……屋根から落ちてきた」


「嘘だ」


「まあそうだ」


ジグはもう一つをキコに差し出した。キコは一瞬だけ見て、受け取った。口に入れると、甘さの中に薄いミントが混じっていた。上層の味がした。下層では売っていない種類の甘さだった。


「うまいか」とジグが聞く。


「……普通だ」


「顔が普通じゃない」


「うるさい」


ルルがくすくす笑った。ジグも笑った。キコは飴を転がしながら、川面を見た。


こういう時間が、あることを、キコはうまく言葉にできない。計算には載らない。数値にもならない。ただ、川べりの石段が少しだけ温かかった。


広場に着いたのは、空が完全に暗くなる少し前だった。


人の密度が、路地とは全然違う。ネコもイヌもキツネも、みんな同じ方向を向いて立っている。腕輪が一斉に、柔らかく光り始めていた。配信の前触れだ。それだけで、広場中の肩から力が抜けていく。


腕輪の光が、少しずつ揃っていく。色が。強さが。点滅のリズムが。七万人が、同じタイミングで同じ光を放ち始める。綺麗だ、とキコは思った。次の瞬間、おかしい、と思った。これだけの数の人間が、同じ瞬間に同じ感情を持っている。


その時、群衆の中に一つだけ違う光があった。


白い。目を焼くような白さ。橙色に揃った腕輪の海の中で、それだけが別の色をしていた。


気づいた瞬間には、もう人波に消えていた。


キコは算盤を開いた。見間違いかもしれない。でも数字は——


「すごい人だ」とルルが言う。


「ヴォルンが出る日はいつもこうだ」とキコが言う。


ジグは何も言わなかった。人波の端で、腕を組んで立っている。


泣いている老婆がいた。泣きながら笑っていた。頬を伝う涙を拭こうともしない。隣の若い男が肩を貸している。その男も目が潤んでいる。


ルルがその老婆をじっと見た。


「借金があるのかな」と小さく言う。「それとも、誰かが死んだのかな」


「分からない」とキコが言う。「でも何かが限界だったのは分かる」


「その限界が、今溶けてる」


「溶けてるんじゃない。見えなくなってるだけだ」


ルルは少し黙った。「それって、同じじゃないの」


キコは答えなかった。


電波塔の頂に、黒いシルエットが現れた。


「ヴォルン様だ――!」


歓声が波のように広がる。金色の波動が広場を包んだ。


人々の表情が変わる。涙を流す者。笑い崩れる者。膝をつき、目を閉じて、何かを祈り始める者。腕輪が一斉に呼応して、広場全体が柔らかく輝く。


美しかった。


人が最も求めるものを、この広場は今、全部与えている。帰属。赦し。救い。ひとときだけ、腕輪の残量も、明日の食事も、消えない借金も、全部どこかへ行く。


ルルが隣で息を飲んだ。


「すごい……」


「ああ」とジグが低く言う。「すごいよ。よくできてる」


皮肉だった。でも声には本物の感嘆が混じっていた。これだけの人間を、これだけ簡単に、同じ顔にしてしまえる。それへの、怒りとも感嘆ともつかない声。


キコは算盤を開いた。


波動を受けながら、広場中から何かが流れ出している。静かに、でも確実に。幸福の代償。ただし誰も、その値段を知らない。


「ジグ」


「なに」


「この広場で今夜、どれだけ持っていかれるか分かるか」


「……分かりたくない」


「一人あたり、月の残量の約七パーセントだ。帝都全域で均すと――」


「やめろ」


ジグの声が、珍しく低くなった。「数字にするな。今は」


キコは算盤を閉じた。


しばらく三人で、黙って広場を見ていた。老婆がまだ泣きながら笑っている。子どもが父親の腕にしがみついて、きらきらした目で塔を見上げている。その腕輪が、静かに、少しずつ、薄くなっていく。


「ねえ」とルルが言う。


「なに」


「あの子、明日も笑えるかな」


塔を見上げている子どもを、目で指していた。


キコは何も言わなかった。


しばらく、三人とも黙っていた。


ジグが先に動いた。「行くぞ」とだけ言って、人波を割って歩き始めた。声はいつもの軽さに戻っていた。でも、歩く速さだけが少し速かった。


帰り道は、来た道を戻った。


錆び鉄堂を出てすぐ、ルルが声を上げた。


「あ、さっきのヒツジのひと」


転んでいたあの男が、路地の角で誰かと話していた。


ルルが駆け寄ろうとする前に、キコは腕を掴んだ。


「行くな」


「なんで」


「あの男。三回、こちらに近づいてきている。ここ二週間で」


ルルがキコを見た。「それって……」


「分からない。でも偶然ではない可能性がある」


ジグが男の方をちらりと見た。何も言わなかった。


ルルは少しだけ黙った。それから小さく「でもあの人、本当に困ってたよ」と言った。


「それも、分からない」


初めてルルが、キコをまっすぐ見た。怒りでも悲しみでもない。ただ、何かを確かめるような目で。


「キコって、人のこと信じないの?」


キコは答えなかった。


答えが、なかった。


三人は黙って歩き始めた。男のことは、誰も続きを言わなかった。


川沿いの屋台はもう店じまいをしていた。石段に座っていた場所を三人で通り過ぎる。イチゴ水の染みが、石畳にまだ残っていた。ガス灯が灯り始めて、路地がぼんやりオレンジ色に染まっている。遠くで犬が吠えた。配信が終わると、街はいつもこういう音になる。祭りの後みたいに静かで、どこか空っぽな音。


「なあ」とジグが歩きながら言う。


「なに」


「お前がやろうとしてること、本当にできるのか」


「できる」


「根拠は」


「誤差が見えてる。尻尾が見えてる。あとは引っ張るだけだ」


ジグはしばらく黙った。「……一人でやる気か」


「お前には関係ない」


「関係ないとは言っていない」


キコは少しだけジグを見た。ジグは前を向いたまま歩いている。外套の襟を立てて、いつもの軽い顔をしている。でも声だけが、いつもと違った。


「関係ないとは、言ってない」


それだけだった。


ルルが二人の間を歩きながら、空を見上げた。さっき紫だった夕焼けは、もうすっかり夜になっていた。


「星、見える」とルルが言う。


「帝都じゃほとんど見えない」とキコが言う。


「ちゃんと見れば見えるよ」


「……目がいいな」


「ジグもそう言ってた」


ジグが「言ってない」と言う。


「言ったよ、川べりで」


「気のせいだ」


ルルがくすりと笑う。


三人で夜の路地を歩いた。禁書庫まで、まだ少しある。


キコは算盤を胸元で握りながら、さっきの広場を思い返した。老婆の笑顔。子どもの腕輪。七パーセント。帝都全域。


終わりにしてやる。


今度は声に出さなかった。出さなくてよかった。


隣でジグが歩いていたから。


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