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熱量の値段

ルルが禁書庫に居座り始めて、三日が過ぎた。


禁書庫と呼ばれているが、誰かに管理されている気配はない。看板は半分剥がれ、扉の蝶番は錆びていて、冬になると隙間風が吹き込む。帝都の地図にも載っていない。行政も民衆も、ここに何があるかを覚えていない。だからキコは居られた。


朝になると窓から光が差し込んで、壊れた大時計の文字盤に反射する。埃が光の帯の中をゆっくり漂う。積み上がった古本の背表紙が、オレンジ色に染まる。誰も来ない。静かだ。算盤の音だけが鳴る。


名前はルル。本人が言った。それ以上のことは何も言わなかった。どこから来たのか、家族はいるのか、なぜあの夜あの路地にいたのか。一切説明しない。キコが聞いても「忘れた」と言う。本当に忘れているのか、話したくないのか、区別がつかない。


ただ、腹が減るとはっきり言う。眠くなるとそのまま本棚の隅で丸まる。雨が降れば「濡れるから」と居残り、晴れれば「昨日の理由は嘘だった」と言って居残る。


理屈になっていない。だが、なぜかキコは本気で叩き出せなかった。


「ねえ、この本なんで鎖がついてるの?」


「触るな」


「触ってないよ、見てるだけ」


「目で触るな」


「できないって」


そういうことを言いながら、ルルはよく食べ、よく眠り、よく喋った。


四日目の朝。扉を蹴る音で、キコは顔を上げた。


「開けろ、飯持ってきた」


ジグだった。扉を引くと、革袋を両手に抱えたイタチの少年が立っている。昨夜どこかに忍び込んできたばかりらしく、外套の肩に夜気がまだ残っていた。継ぎ接ぎだらけの外套の内側には、本人しか知らない隠しポケットがいくつもある。今日もそこから何かが膨らんでいた。


「錆び鉄堂のアナグマが渡してきた。お前に、だと」


袋の中身は黒パンと干し肉、それから小さな紙片。キコが広げると、アナグマの太い字で一行だけ書いてある。


『明日の干し肉、当たった。また来い』


「何これ」とルルが梯子の上から覗き込む。


「取引の結果だ」とキコは言って、紙を折りたたんだ。


ジグが机の端に腰を下ろしながら、ルルをちらりと見た。一瞬だけ。すぐ視線を戻す。「そっちが噂のウサギか」


「噂?」とルルが耳をぴんと立てる。


「モグラ爺が言ってた。腕輪ゼロで走り込んできた馬鹿がいるって」


「馬鹿じゃないよ」


「どう見ても馬鹿だろ」


「パンを届けたの」


「だから馬鹿だって言ってんだよ」


ジグの声は切り捨てるようだったが、目は少しだけ別のことを言っていた。キコはそれに気づいて、気づいていないふりをした。


「お前も食え」とジグが黒パンをキコに押しつける。「顔が死んでる。アナグマに言われた」


「余計なお世話だ」


「みんな言ってるんだよ、お前に」


その日の昼。ジグが「用がある」と言ってキコを外に引っ張り出した。


用というのは口実で、本当は腕輪の残量を心配していることをキコは知っていた。知っていたが、黙ってついていった。禁書庫にこもりすぎると、感覚が狂う。数字だけが世界になる。それを、長い付き合いでジグも知っていた。


「ルルはどうする」とキコが言うと、


「来るだろ、どうせ」とジグが言った。


案の定、ルルは「わたしも」と言って後ろからついてきた。止める前に扉を出ていた。


三人で下層の路地を歩いた。


通りに出ると、空気が変わる。


石炭と脂の匂い。昨日の売れ残りをうまくごまかそうとする匂い。屋台の鉄板が鳴っている。表通りを歩く者たちは、みんな少しだけ目が虚ろだった。昨夜の配信のあと、いつもこうなる。笑っている顔もある。でも目が笑っていない。みんな少し、焦点が遠い。


路地の角に、腕輪の光が消えかけた老人が壁に寄りかかっていた。通り過ぎる者は誰も止まらない。止まれない。自分の残量を守るので精一杯だから。


ルルが屋台の前で足を止めた。


「あの人、転んでる」


石畳の前で、中年のヒツジの男が尻もちをついていた。周りの大人たちは、誰も拾ってやらない。自分たちも足元が怪しいから。


ルルが駆け寄ろうとする。ジグが首根っこを掴んだ。


「ほっとけ」


「でも」


「お前が助けても、明日また転ぶ。昨日も一昨日も転んでた」


ルルは少し黙った。それでもジグの手を振りほどいて、ヒツジの男に肩を貸した。男は「ありがとう」とも言わず、ふらふらと歩き去った。


ジグが鼻で笑う。「だろ」


ルルは笑って「でも今日は転ばなかったよ」と言った。


ジグが何か言いかけて、やめた。それから、独り言みたいに言った。


「……盗みより重いな、それ」


「え?」


「何でもない」


キコは二人を見ながら、腕輪の数値を確認していた。昨夜の配信で、この通りの平均残量がまた下がっている。誤差の範囲ではない。傾向だ。確実に、少しずつ。


「ジグ」


「なに」


「この通りで、この一年で腕輪の光が消えた者が何人出たか知ってるか」


ジグは答えなかった。


「十七人だ」


沈黙。ジグが舌打ちをした。「……知ってるよ」


「知ってて、笑ってるのか」


「笑わないと歩けないんだよ、この街は」


それきり、ジグは何も言わなかった。キコも言わなかった。


ルルだけが、屋台の前に並んでいる子どもたちをじっと見ていた。小さな腕輪が、薄い光を放っている。


「ねえ」とルルが言う。「あの子たち、昼から来なくなるんだよね」


「働いてるからだ」とキコが言う。「八つか九つで」


「そう」


ルルはしばらく子どもたちを見ていた。それから、何かを確かめるように、自分の腕輪を見た。薄橙の光。下層の中では普通の明るさ。


「おかしいね」


怒りでも嘆きでもない。ただ事実を言っている声だった。


「おかしいけど、みんな当然だと思ってる」


「思わないと生きていけないからだ」とジグが言う。「俺みたいに盗むか、お前みたいに鈍感になるか、このネズミみたいに数字で見るか。どれかじゃないと、この街じゃ頭がおかしくなる」


「ジグはおかしくなってないの?」


「とっくになってる」


ジグはそう言って、路地の先を歩き始めた。その背中に、ルルが小さく笑いかけた。


キコは算盤を握った。


十七人。そして今夜もまた配信が来る。明日の朝、この通りの顔は全部同じになる。それが当たり前の景色として続いていく。


(終わりにしてやる)


言葉にはしなかった。ただ、珠を一つ弾いた。


錆び鉄堂に寄ったのは夕方だった。


名前の通り、看板も扉も棚も全部錆びている。乾いた薬草と古い金属の匂いが混じっていて、はじめて来た者は必ず顔をしかめる。ジグは最初から顔をしかめなかった。キコも慣れている。ルルは「なんかいい匂い」と言った。ジグが「お前の鼻はどうなってんだ」と言った。


アナグマがカウンターの奥で新聞を腹に広げていた。キコを見るなり「また来たか」と言い、ジグを見て「今日は何を盗ってきた」と言った。


「盗ってない」とジグが言う。


「昨日は?」


「盗った」


「正直だな」


「聞き方が上手いんだよ」


アナグマが鼻を鳴らした。それからルルを見て、一瞬だけ黙った。


「……その腕輪」


「なに?」とルルが首を傾げる。


「いや」アナグマは新聞に目を戻した。「何でもない」


キコはそのやりとりを見逃さなかった。アナグマの目が、一瞬だけ鋭くなった。驚きではなく、確認するような目だった。


何かを知っている。


「次の取引だ」とキコはカウンターに算盤を置いた。「明後日の午前、水を多めに仕入れてくれ」


「根拠は」


「配信の型が変わる。明後日は熱を奪う型だ。喉が渇く」


アナグマはしばらくキコを見ていた。それからルルを見た。それからジグを見た。


「……三人で来たのか」


「そうだが」


「珍しいな」アナグマは鼻を鳴らした。「お前が誰かと歩いてるのを見たのは初めてだ」


キコは何も言わなかった。


帰り道、ジグが「アナグマのやつ、変な顔してたな」と言った。


「ルルの腕輪を見た」とキコが言う。


「なんで?」


「わからない。まだ」


ジグがルルをちらりと見る。ルルは路地の石畳の上で、何かの模様をなぞりながら歩いていた。自分が見られていることに気づいていない。


「なあ、キコ」


「なに」


「そのウサギ、本当に何も知らないのか」


「知らないと思う」


「思う、か」


ジグは少しだけ黙って、また歩き始めた。「……まあいい」


キコは算盤の珠を指先で触れた。


ルルの腕輪の数値。取るに足らない行動のたびに動く、微細な熱量。アナグマの一瞬の目。


全部、まだ繋がっていない。


でも何かがある。計算の外側に、確かに何かがある。


禁書庫へ戻る路地で、ルルが空を見上げた。「星が出てきた」


「帝都じゃほとんど見えない」とキコが言う。


「見えるよ、ちゃんと見れば」


ジグが「目がいいな」と言う。それだけだった。それだけだったが、声がいつもより少し低かった。


キコはその声の低さに気づいて、また気づいていないふりをした。



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