誤差の夜
「まぁ〜たそんなことやってるのかよ」
声は天井から降ってきた。
キコが顔をしかめると、禁書庫の梁に細い足を引っかけたイタチの少年が、勝手知ったる様子でぶら下がっている。片手には艶のいい赤リンゴ。もう片方の手には、いつの間に抜いたのか、キコの工具袋。
「返せ」
「やだ。お前、これがないと喋るより先に倒れるじゃん」
「今すぐそこから落ちろ」
「そんな挨拶ある? せっかく灯り代の足し持ってきてやったのに」
ジグはリンゴをひとかじりしながら、するりと梁から降りてきた。着地音もなく、煙みたいに着地する。禁書庫に忍び込むのに、こいつが扉を使ったことはおそらく一度もない。
窓からの光が机の上をオレンジ色に染めている。壊れた大時計の文字盤に反射して、埃が光の帯の中をゆっくり漂う。積み上がった古本の背表紙。錆びた鍋。誰かの名前が刻まれたままの木の柱。帝都の地図に載っていない、誰も覚えていない場所。だからここは静かだ。算盤の音だけが鳴る。
ジグは腰をかがめてキコの腕輪を覗き込んだ。
「……またその色かよ」
「関係ない」
「大いに関係あるわ。三割切ったら下層じゃ飯も買えないのを知っててやってんの、お前」
「計算が終わればいい」
「終わらないから言ってんだろ」
ジグはため息をついて、持ち込んだ小さな革袋を机の端に置いた。中身が硬貨の音を立てる。キコは一瞬だけそれを見て、また算盤に視線を戻した。
「……ありがとう」
「は? 聞こえない」
「聞こえてる」
「もう一回」
「うるさい」
ジグは満足そうに壁の書架へ背を預けた。それからぐるりと部屋を見渡して、「なあ」と言った。
「何だ」
「この算盤、帝都の配信に繋げてるんだろ」
「繋いでいる」
「ってことはさ」ジグはリンゴをかじった。「配信を止めるだけじゃなくて、中身もいじれるわけだ」
「理論上は」
「じゃあ上層の金庫とかも」
「話が飛びすぎだ」
「でも、できる?」
キコは少しだけ間を置いた。「……できる」
「じゃあ俺たち大金持ちじゃん」
「そういう使い方はしない」
「なんで」とジグは心底不思議そうに言った。「一番合理的じゃないか」
「合理的じゃない」
「え?」
「盗んだ金は、また誰かに盗まれる。根っこが変わらないと、同じことが繰り返される」
ジグはしばらくキコを見た。それから「……お前、本当に変なやつだな」と言って、またリンゴをかじった。「まぁでも、そういうとこは嫌いじゃない」
カチ。カチ、カチ。算盤の珠が鳴る。
「何を追ってるの、今」
「誤差」
「だから、何の」
「熱量の流れだ。配信のたびに、計算が合わない」
「そりゃそうだろ」ジグはリンゴの芯を壁に向けて放った。ゴミ箱に吸い込まれる。「帝都の機構を算盤一個でひっくり返そうとしてんだから」
「できる」
「やれやれ」
「その自信だけは認める」とジグは言った。でも、声が少しだけ笑っていた。
机の上には古文書が積まれている。端の欠けた定規、煤で汚れた紙片、配線をいじるための細い工具。散らかっているように見えて、キコにしか分からない秩序がある。ジグはそれを長い付き合いで知っていた。だから触らない。
「今夜も配信が来るな」
窓の外を見て、ジグが言った。夕焼けが紫に変わりかけていた。その色が出ると、帝都じゅうの腕輪がじわりと光を強める。甘い匂いが夜気に混じり始める時間。
「来る」
「お前はまた遮断するんだろ」
「当然だ」
「で、また無茶して、また倒れそうになる」
「倒れない」
「毎回それを言う」
「あの光さ」
ジグが窓の外を見たまま、ぽつりと言った。
「きれいだよな。俺たちの分も入ってるんだろうけど」
キコは答えなかった。机の下に手を伸ばし、自作の妨害回路のスイッチに触れる。銅線が震え、小さな火花が散った。算盤の端に繋いだ簡易表示板が、細かく明滅を始める。
遠く、中央塔の方角から音楽が流れてきた。
甘く、やわらかく、疲れた頭を撫でるような旋律。街の人々の腕輪が、一斉に応えるように輝く。揃っている。同じ色、同じ強さ、同じタイミングで——七万の腕輪が、一つの拍子で光る。
「キコ」
「うるさい、集中してる」
「そうじゃなくて」
ジグの声が、いつもと少しだけ違った。
キコは顔を上げた。
鉄扉の向こうで、何かが倒れる音がした。
二人が顔を見合わせた瞬間、扉が内側から叩かれた。一回、二回。弱い。
キコが立ち上がるより先に、ジグが動いていた。音もなく扉に近づき、一呼吸おいて——引いた。
転がり込んできたのは、白い毛並みを泥と血で汚した、ウサギの少女だった。
床に倒れた彼女の手首で、鉄の腕輪が沈黙していた。
灯が、消えている。
「……おい」
ジグの声から、いつもの軽さが消えていた。少女の前にしゃがみ込み、顔を覗き込む。指先が白く、唇の色が悪い。
キコは動けなかった。
腕輪の灯が消えた手首を、一度だけ見たことがある。三年前の冬。あの時の冷たさが、今も指先に残っている。
「熱量、ゼロだ」
ジグが低く言う。「こんな状態で走れるはずがない」
なのに少女は、かすれた息の合間に、笑った。
「とど……けた、から」
握っていた拳がほどけ、硬いパンの欠片がひとつ、床へ転がる。
キコはその欠片よりも、少女の腕輪から目を離せなかった。
ゼロの器は動かない。動けない。それが帝都の、世界の、当然の計算だ。
「なんで」
気づけば声に出ていた。
「こんな残量で、何をした」
少女は薄く目を開けた。長い耳が、ぺたりと床に広がっている。
「あの子たち……お腹、すいてたから」
ジグが小さく、息を吐いた。
キコには、その音の意味が分かった。怒りでも、哀れみでもない。ジグはずっとそうやって生きてきた。正面からは奪われるから、爪の先でほんの少し取り返す。自分が食えなくなるくらい誰かに渡すなんて——そういう発想が、そもそもない。
だからこそ目の前の少女が、理解できないのだ。
キコには別の意味で理解できなかった。
「他人に熱量を渡す機構など、この腕輪にはない」
珠を弾くより速く、言葉がこぼれる。
「構造的にありえない。なのに、なぜ」
少女の目の奥に、まだ何かが灯っている。
体温は下がっている。残量はゼロだ。それでもその光だけは、消えていない。
キコはゆっくりと、少女の腕輪に手を伸ばした。
「ジグ」
「言うな」
「まだ何も言っていない」
「顔に出てる」
キコは、ほんの少しだけ視線を上げた。ジグはもう外套を脱いで、少女の肩に掛けていた。背を向けたまま、ぶっきらぼうに言う。
「モグラ爺を呼んでくる。お前はそいつの腕輪を調べろ」
「……うん」
「礼を言うな。寒いのが嫌いなだけだ」
足音も立てず、ジグが走り去った。
キコは少女の腕輪を、そっと両手で包んだ。
冷たい。氷みたいだ。
それでも。
「……ありえない」
ぽつりとこぼれた言葉は、非難でも驚嘆でもなかった。
ただ、静かな、確信だった。
自分が何年も追いかけてきた誤差は、帳簿の中にはいなかった。
——向こうから、歩いて来たのだ。




