渡す
「倒した後のことを、今から考えろ」
レンが言ったのは、夕方だった。
イノが「え」という顔で振り返った。広場の端、誰もいない場所で、レンはイノの後ろに立っていた。
「俺はお前と同じだった」とレンは言った。「悪者を倒せば終わると思っていた」
イノが黙って聞いていた。いつもなら何か言う。この時は言わなかった。
「構造の中に入って、気づいたら自分が悪者になっていた。自覚もなかった。誰かが壊れかけて、初めて気づいた」
レンが一度だけ止まった。夕風が吹いた。
「だからお前に言えることは一つだけだ。倒した後のことを、今から考えろ。倒す前から考えろ。倒さなくて済む方法まで、考えろ」
イノが少し間を置いた。「……お前も、倒そうとしたのか。昔」
「した」
「倒せたか」
「倒した。その後、俺が悪者になった」
しばらく、夕方の空気の中に二人がいた。
「難しいな」とイノが言った。馬鹿にした言い方ではなかった。本当に難しいと思った声だった。
「難しい」とレンが言った。「だから言っておく。簡単にはならない。でも、考えていない奴と、考えている奴では、違う」
「考えていれば、悪者にならないか」
「ならないとは言わない」
「じゃあ何が違う」
「気づく速さが違う」
レンが踵を返した。それだけだった。説教にならなかった。一度だけ言って、終わった。
イノが広場の真ん中に残った。しばらく、そこに立っていた。
*
キコが設計を渡したのは、その翌朝だった。
集会所にタヌキと、七人の若者たちが集まっていた。キコが紙を広げた。
「読んでくれ」
若者の一人が読んだ。声に出して読んだ。他の者が聞いた。
「たった一つのルール。村の問題は、みんなの問題として、せめて知る」
「それだけか」と誰かが言った。
「それだけだ」とキコは言った。「これを守るための、具体的な手順が後ろにある。誰が何をするか。いつやるか。どうやって記録するか。設計として書いた。変えてもいい。変えた時は、理由を記録する。なぜ変えたかが分かれば、次の世代が同じ間違いをしないかもしれない」
「先生みたいなことを言うな」とタヌキが言った。
「先生ではない」
「じゃあ何だ」
キコは算盤を一度だけ弾いた。「通りがかりだ」
タヌキが少し笑った。
若者たちが紙を回した。読んだ。また読んだ。意見を言い始めた。今度は、意見の重なり方が違った。全員が意見を言う前に、まず読んだ。読んでから言った。順番があった。
キコは端の方で算盤を閉じた。
設計は渡した。使い方は、向こうが決める。
それでいい。
帝都へ戻る前の夜、ルルがキコに聞いた。
「また来るの、ここに」
「分からない」
「また来たい?」
キコは少し考えた。「数値が出ればな」
「数値が出なくても来れば?」
「数値が出ないのに来る理由がない」
「理由がなくても来る人がいる」
「そういう人間ではない」
「そうかな」とルルが言った。「今回来た時、数値があったから来たわけじゃないでしょ」
キコは答えなかった。
ルルが腕輪を見た。橙の光が、安定していた。この農村に来てから、一度も白くなっていない。熱も持っていない。大木の跡の土が、まだそこにある。村長の寝息が、また縁側で続いていた。
「腕輪、落ち着いてる」とルルが言った。
「ああ」
「嫌いじゃないんだと思う、ここが」
キコは算盤を一度だけ握った。「そうかもしれない」
珍しく、答えた。




