レンが話す夜
二人になったのは偶然だった。
ジグが出ていって、ルルが眠って、残ったのがキコとレンだった。
レンは入口に近い場所に座っていた。いつもそこにいる。どちらへも逃げられる場所に。
キコは算盤を開いていた。数値を追っていた。しばらく、何も言わなかった。
「聞いていいか」とキコが言った。
「何を」
「お前が、構造の中で動くことを選んだ理由」
レンは少し間を置いた。「今更か」
「今更だ」
また間があった。川の音が続いた。
「組織にいた」とレンが言った。「大きな組織だ。善意で入った。貢献するつもりだった」
キコは算盤から手を離さなかった。聞いていた。
「同僚が壊れていった。一人が病気になった。一人が辞めて、貧乏になった。一人が——」
レンが止まった。
「一人が、飛び降りた」
キコは珠を止めた。
「俺は残った。残り続けた。構造の中に居続けた。そのうちに」レンの声が、少しだけ変わった。「俺の下に、人が来た」
「部下か」
「そう呼ぶなら。俺は同じことをした。気づかないまま。自覚がなかった。その人間が壊れかけた時に、初めて気づいた」
キコは算盤を見た。数値は出ない。
「それで、出たのか」
「出た。でも遅かった」
沈黙があった。
「お前に言う必要はなかったが」とレンが言った。「お前は感情で受け取らないから、話せた」
「そうか」
「ジグには言えない。ジグは俺を許さないだろう。それが正しい」
キコは少し考えた。「ジグは許さないかもしれない。でも、切り捨てなかった」
レンが、少しだけ動いた。
「……そうだな」
また川の音が続いた。
「なぜ、まだやっている」とキコが言った。
レンが少し間を置いた。
「分からない」
「分からないのにやっているのか」
「そうだ」
沈黙があった。
「まだ分からない」とレンは言った。「分からないが、やっている」
キコは算盤を一度だけ握った。
「それは」とキコは言った。「ルルと同じだ」
レンが、少しだけ笑った。初めて見る顔だった。
朝、農村の集会所でキコは設計の続きを書いていた。
算盤の数値を紙に移す。数値だけでは伝わらない。言葉と組み合わせる。言葉が多くなると、読まれなくなる。削る。削って、残ったものだけ書く。
ルルが横に来た。「何を書いてるの」
「村のルールを、どうやって次の世代に渡すか」
「難しいね」
「難しい。書いた本人が死んでも、残るものにしなければいけない」
ルルがしばらく覗き込んでいた。
「大木みたいな話だね」
キコは珠を止めた。
「そうだ」
「大木は、最初は誰かが良いと思って作ったんだよね。でも次の人が歪めた」
「ああ」
「じゃあ、歪めにくい設計を作る、ってこと?」
「歪めにくい設計はない」とキコは言った。「人間がいる限り。でも——歪んだことに気づきやすくする仕組みは、作れる」
ルルが少し考えた。「たった一つのルールが、それ?」
「それが一番最初だ」
ルルが腕輪を見た。「私の腕輪と、大木が同じ色をしてるって、村長が言ってた」
「ああ」
「関係があるのかな」
キコは算盤を一度だけ弾いた。数値は出なかった。「分からない。まだ」
「まだ、か」
「ルルのことは、算盤では出ない。最初から」
ルルが少しだけ得意そうな顔をした。「そっか」
しばらく黙った。それから、腕輪ではなく算盤を見た。
「ねえ」
「何だ」
「その算盤、最初からそういうものだったの」
キコは手を止めた。「どういう意味だ」
「なんか……禁書庫の奥の本と、同じ匂いがする」
「匂い」
「匂いっていうか。雰囲気。古くて、でも生きてる感じ」
キコは算盤を見た。壊れている。珠が二つ欠けている。枠の端が割れている。それでも動く。
「分からない」とキコは言った。「算盤については、まだ分からないことがある」
「珍しい」とルルが言った。
「ああ」
「でも」とルルが続けた。「キコが分からないって言うものは、たいてい大事なものだよ」
キコは答えなかった。
珠に触れた。冷たかった。いつもと同じ温度だった。でも——触れるたびに、少しだけ何かが返ってくる気がした。気がする、だけだ。数値にならない。でも確かにある。
カチ。カチ、カチ。算盤の音が、朝の集会所に響いた。




