表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
28/33

間章 書く夜

集会所に残ったのは、キコだけだった。


ジグはどこかへ消えた。ルルはイノと水田の方へ出ていった。レンは入口に近い場所で目を閉じている。眠っているかどうか分からない。ガルとボッグはもういない。


キコは灯りの前に座った。算盤を開いた。紙を置いた。


設計を書く。


最初の一行は、すぐ出た。珠を弾く。カチ、カチ、カチ。条件が出る。数値が出る。ルールが続くための構造、誰かが管理者にならなくていい条件、問題が埋もれないための通知の仕組み。三日かけて若者たちと話して積み上げたものが、全部算盤の中にある。出てくる。止まらない。


一時間で、一枚目が埋まった。


二枚目も埋まった。


三枚目の途中で、キコは手を止めた。


止めたつもりはなかった。珠に触れたまま、止まっていた。


書いたものを読んだ。最初から、一行ずつ。条件が正確だった。数値が正確だった。例外処理が正確だった。欠けているものは何もなかった。


これは渡せない。


思った瞬間、また珠を弾いた。止まれない。弾いている。動いている。でも何かが引っかかっている。弾き続けながら、引っかかりの正体を探す。


算盤がなければ読めない。


それだ。


キコは算盤を持っている。算盤の読み方を知っている。珠の配置が数値に見える。数値が構造に見える。構造が動きに見える。でも——若者たちの誰も、算盤を持っていない。タヌキも、最初に言葉の端を拾い始めたあの子も、一番反発していた子も、誰も持っていない。


算盤なしで読める設計を、キコは書いたことがない。


書く必要がなかったからだ。


最初から今まで、ずっと、キコが設計してきたものは全部、キコが手を離さなかった。逆位相も、ハッキングも、経路の付け替えも、配信の遮断も——全部キコが握ったまま動かした。渡さなかった。渡すという発想が、なかった。


算盤を机に置いた。


置いてから、また手を伸ばした。触れた。弾かなかった。ただ触れた。


一枚目から書き直した。


条件を削った。削ると、穴が開いた。穴の場所が分かった。この穴から、誰かが入れる。悪意がなくても入れる。善意でも入れる。善意の方が、静かに入る。


埋めようとした。数値を足した。足したら、また算盤でしか読めなくなった。


削った。また穴が開いた。


削って、書いて、また削った。


三回目に手が止まった時、灯りの芯が細くなっていた。夜が深くなっていた。外で何かの虫が鳴いていた。農村の夜は、帝都と音が違う。帝都には虫の声がない。機械の音だけがある。


大木のことを、考えた。


大木は最初、完全だったはずだ。誰かが善意で設計した。何かのために作った。作った人間は、自分が使う前提で設計したのかもしれない。あるいは、誰かに渡す時に、渡し方を考えなかったのかもしれない。穴がどこにあるかを書き残さなかった。だから壊れた時に、誰も気づかなかった。壊れているのに、壊れていないものとして動き続けた。


キコには、その連鎖の計算がまだ出ない。ルルの腕輪については、算盤を弾くたびに数値が出ない。最初から。でも大木が最初に渡し方を間違えたということは——渡し方が正しければ、別の形になれた、ということだ。


別の形が何かは分からない。でも、間違えた、ということは分かる。


キコが避けようとしているのは、その繰り返しだ。


紙を一枚、白紙にした。


また書き始めた。


今度は、数値より先に穴を書いた。ここが壊れやすい。こういう条件の時に崩れる。こういう使い方をすると形が歪む。穴の場所を先に書いてから、その穴を知っている前提でのルールを書いた。


完全ではない。粗い。情報量が少ない。最初に書いたものの三分の一もない。


読んだ。


算盤がなくても、読める。


珠を弾いた。


数値が出た。最初の設計より小さい数値だった。精度が低い。でも——読める人間の数が、違う。この設計は、算盤なしでも動かせる。動かせるから、壊れた時に気づける人間が増える。気づける人間が増えれば、直せる人間も増える。


キコには直せない場所が、この設計の中にある。でも他の誰かなら直せるかもしれない。


そういう設計だ。


初めて書いた、そういう設計だった。


音がした。


扉ではない。窓でもない。集会所の空気が、ほんの少し動いた。キコは顔を上げなかった。算盤に触れたまま、気配だけを読んだ。


レンだ、と分かった。足音の消し方で分かる。


灯りの前に、影が差した。小さな陶器の音がした。オイルを注ぐ、細い音だった。芯が伸びた。光が、少しだけ戻った。


それだけだった。


レンは何も言わなかった。キコも何も言わなかった。言う必要がなかった。レンがいつからそこにいたのかは分からない。目を閉じているのか、起きているのか、最初から分からなかった。ただ、灯りが細くなる前に、誰かが気づいていた。


気配が遠ざかった。元の場所へ戻ったのだろう。入口に近い、どちらへも逃げられる場所へ。


キコは算盤を見た。


設計は、折りたたむ前にもう一度だけ読んだ。変わっていなかった。完全ではない。粗い。でも読める。


灯りの中で、紙を折りたたんだ。


灯りの芯がまた細くなった。


外の虫の声が、少し変わった。夜の深さが変わると、声の種類が変わる。農村でそれを知ったのは、三日前だった。帝都では知らなかった。知る機会がなかった。


設計を折りたたんだ。


答えは出ていない。この設計が正しいかどうか、分からない。渡して、壊れるかもしれない。渡して、誰かがまた歪めるかもしれない。キコがいなくなった後に、穴のどれかから崩れるかもしれない。


でも穴がどこにあるかは、書いた。


壊れた時に、壊れたと分かる。それだけを、書いた。


算盤を閉じた。閉じてから、また開いた。珠を一つだけ弾いた。


カチ、と鳴った。


数値は出なかった。でも鳴った。


外で、夜が続いていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ