算盤と、その後
電波塔の根元が見えた時、ガルが三人に合図した。
ボッグが動いた。イノが続いた。ガルが走り出す直前、キコを一瞬だけ見た。何も言わなかった。でも目が言っていた。
キコも何も言わなかった。
「レン」
「ああ」
「末端との接触、頼む」
「分かった」
レンが路地の角へ消えた。ジグがキコとルルの前に出た。外套の内側に手が入っている。
「どっちへ行っても追ってこられるように立つ」とジグが言った。「好きな方へ逃げろ」
「逃げない」
「逃げる時の話だ」
「そうか」
算盤を開いた。接続点を探す。カチ、カチ。帝都の電波が流れている。あの夜、入った経路を辿る。プロテクトの下の、元の骨格。善意で作られた最初の設計。まだそこにある。
入った。
中枢の幹に、繋がった。
遠くで爆発音がした。
一つ。間を置いて、二つ。さらに間を置いて、三つ。
ガルが言った通りの順番だった。計算はしていないが、考えてあった。その通りに、三点が同時に落ちた。
帝都の電波が揺れた。中継基地からの信号が、一斉に乱れた。腐敗階層が動く気配があった。算盤がそれを読んだ。
「来る」とキコは言った。
「何人だ」とジグが言った。
「六。二手に分かれている」
「一手はレンの方か」
「ああ」
ジグが鼻から息を吐いた。「そうか」
それだけだった。ジグは路地の奥を見た。動かなかった。キコが判断するまで、動かないつもりらしかった。
キコは算盤を叩き続けた。
幹の中に、配信の経路がある。真実を流した経路だ。今度はそこを遮断する。民衆への信号を、切る。設計の動きを、止める。蜂起が起きる前に。
でも遮断だけでは足りない。
切れば終わりではない。切った後に、何かを残さなければ、また誰かが同じものを作る。歪めた設計を元に戻した時のように、今度は——
カチ、カチ、カチ。
珠を弾いた。弾き続けた。
中枢の幹の奥に、あの夜には見えなかったものがある。設計が動き続けた三週間で、元の骨格がさらに深くまで根を張っていた。どこまで伸びているか、全部は見えない。でも方向は分かる。根の先が向かっているのは——
「キコ」
ルルの声がした。
「腕輪が、熱い」
顔を上げた。
ルルが腕輪を押さえていた。光が、白かった。三週間で一番白い。
「分かった」とキコは言った。
算盤に戻った。根の先が向かっている方向に、キコは式を一つ置いた。遮断ではなく、経路の付け替えだ。蜂起へ向かっていた流れを、別の場所へ通す。民衆の怒りを消すのではなく、方向を変える。どこへ向けるか——
腐敗階層のいる場所へ。
証拠と、数値と、設計図の全体を、そこへ流す。
カチ。カチ、カチ、カチ。
算盤が鳴り続けた。
路地の向こうで、何かが変わった。
追手の動きが、鈍くなった。ジグが「何だ」と小さく言った。
算盤が教えていた。腐敗階層の通信が、乱れていた。内部から、何かが崩れていた。設計図の全体が、彼らの端末に流れ込んでいた。誰が何をしているか。どこに何があるか。帝都の民が知らなかったものを、今度は腐敗階層の内部へ流した。
隠せなくなった。
対抗組織が動いている気配があった。レンが接触していた末端が、上の動きを止めていた。どこかで民衆が集まり始めていた。蜂起ではない。でも、集まっていた。
追手の六人が、退いた。退く理由を、彼らは受け取ったのだ。上からの命令ではなく、算盤から流れた数値として。路地の奥で、足音がした。追う者の足音ではなかった。
「終わったか」とジグが言った。
「終わっていない」とキコは言った。「でも——一区切りだ」
算盤から手を離した。初めて、手を離した。指が震えていた。怖いのではない。ただ、長く弾き続けていた。
ルルが隣に来た。腕輪の光が、少しずつ、橙に戻っていた。
「熱、引いてきた」とルルが言った。
「そうか」
「なんだったんだろうね」
「まだ分からない」とキコは言った。「まだ」
ガルたちが戻ってきたのは、それから少しして、だった。
三人とも、怪我はなかった。ボッグの外套の裾が焦げていた。イノが何かを言いたそうにしていた。ガルは黙って周囲を確認して、キコを見た。
「終わったか」
「終わった」
「怪我は」
「ない」
ガルがボッグを見た。ボッグが頷いた。イノが「聞かせろよ、どうなったか」と言って、ボッグに頭を叩かれた。
レンが戻ってきたのは最後だった。
外套が乱れていた。走ってきた体のまま、六人を確認した。誰も言わなかった。レンも言わなかった。それだけで十分だった。
「末端は」とキコが言った。
「引いた」とレンが言った。「上からの指示が止まった。混乱している」
「腐敗階層は」
「対抗組織が動いている。民衆も動いている。今夜、逮捕される者が出る」
「何人だ」
「上の方の連中だ。七人ではない」
キコは算盤を見た。数値は出ていない。でも、そうだろうと思っていた。
「そうか」
七人で、路地を歩いた。
走らなかった。追ってくる気配がなかった。帝都の夜は続いていた。腕輪の光がバラバラに瞬いていた。
「どこへ行く」とイノが言った。
誰も答えなかった。
「どこへ行くか、決まってないのか」
「決まっていない」とジグが言った。
「それで平気なのか」
「平気だ」
イノが「なんで」と言いかけて、ボッグに頭を押さえられた。
ルルが空を見た。「星、見える?」
雲があった。光が届かない。
でもルルは見続けていた。
キコは算盤を抱き直した。壊れている。珠が二つ欠けている。枠の端が割れている。それでも動く。
帝都の夜が、続いていた。
腸詰めの値段が、少し下がった四辻に、今夜も誰かがいるだろうと思った。自分の色をした腕輪を持って、立ち話をしているだろうと思った。七人はその場にいない。誰もそれを七人のせいだとは知らない。
それでいい。
「ねえ」とルルが言った。
「何だ」
「続きは、どうなると思う」
キコは答えなかった。しばらく歩いた。
「分からない」
「そうじゃなくて」とルルが言った。「キコはどうしたいか、聞いてるんだけど」
キコは足を止めなかった。歩きながら、算盤を一度だけ強く握った。
「見続ける」
「何を」
「ここを。この帝都を。数値が、まだある」
「一人で?」
キコは少しだけ、隣を見た。ルルがいた。反対側にジグがいた。その後ろにガル、ボッグ、イノ、レンがいた。
「……違う」
「そうでしょ」とルルが言った。得意そうな声だった。
ジグが鼻で笑った。ガルが何も言わなかった。ボッグが何も言わなかった。イノが「どこ行くか早く決めろよ腹減った」と言って、ボッグに頭を叩かれた。
七人で、夜の路地を歩き続けた。
どこへ行くかは、まだ決まっていない。
算盤は、キコが弾かない限り、鳴らない。
それでいい。




