草の根が伸びる夜
書き換えた夜から、七日が経った。
社会は変わっていない。
腕輪は光っている。配信は来る。上層は上層にいる。下層は下層にいる。帝都の機構は今日も動いていて、誰かの熱量を吸い上げて、どこかへ流している。
ただ、算盤の数値が、少しだけ違う。
カチ。カチ、カチ。
キコは珠を弾いた。壊れた算盤。珠が二つ欠けている。でも動く。そして今夜は、いつもと少しだけ違う音がする。珠が同じ場所に落ちているのに、返ってくる数値が、昨日と微妙にずれている。
誤差ではない。
誤差なら、揺れる。でもこのずれは、揺れない。毎回、同じ方向に、同じ幅だけ、ずれている。
設計が動いている。
自分で弾かれた算盤の珠が、キコが止めた後も、微細に動き続けているような——そういう感触だった。言葉にするとおかしくなる。数値で言えば、ただ、ずれている。でも方向がある。意図がある、とは言えない。ただ、向かっている場所がある。
誰にも言わなかった。
言葉にならなかったから、言わなかった。
*
ジグが戻ってきたのは、昼すぎだった。
外套に埃はついていなかった。遠くまで行ってきたわけではない。でも戻ってきた時の目が、少しだけ、違った。
「何があった」とキコが言った。
「別に」
「目が違う」
ジグが少し間を置いた。それから「黒服が、いなかった」と言った。
「どこに」
「いつも四辻に立ってる奴。三日前からいない」
キコは算盤を見た。数値の端に、そのことを書き留めた。
「代わりに何がいた」
「おっさん二人が立ち話してた」ジグは壁に背を預けた。「どこの親父だよって感じの。何でもない話をしてた。飯の話だったと思う」
「飯の話」
「腸詰めが少し安くなったとか、そういう話だ」
キコは算盤の数値を見た。ずれの方向と、腸詰めの値段と、黒服の不在。繋がるかどうか、まだ分からない。でも全部、同じ方向にある気がした。
「ジグ」
「何だ」
「お前はどう思う」
ジグは少し考えた。天井を見た。それから「まだ何とも言えない」と言った。「でも、嫌な感じはしない」
「嫌な感じはしない」
「珍しいだろ。俺が路地を歩いて、嫌な感じがしない日なんか」
キコは算盤に視線を戻した。そうだ、と思った。言わなかった。
ルルが帰ってきたのは、夕方だった。
長い耳が、いつもよりまっすぐ立っていた。何かを見てきた後の顔だった。
「腕輪」とルルが言った。いきなりだった。
「何が」
「光の色が、昨日と違う。三丁目のあたりで数えてたんだけど、昨日は七人だったのが、今日は十二人いた」
「何が十二人だ」
「自分の色をしてる腕輪」
キコは珠を止めた。
「分かるのか」
「なんとなく。色に、力が入ってる感じがするやつと、借り物の光みたいなやつがある。今日は力が入ってる人が、昨日より多かった」
計算では出ない、とキコは思った。ルルの「なんとなく」は何度か、算盤の数値より先に正しかった。
「七から十二」とキコは言った。「一日で」
「多いよね」
「多い」
ルルが少し笑った。それから「腹減った」と言った。
川辺に来たのは、ボッグだった。
理由は言わなかった。言わずに外へ出た。イノがついてきた。止めなかった。
川は昨日と同じ速さで流れていた。帝都の水は暗渠に潜っているが、ここだけは地上に出ている。石を叩く音、淀む音、速くなる音。三部で川を下った時と、音が変わっていなかった。水は同じ場所を流れ続けている。
ボッグは川岸の石の上に座った。
大きな体が、少し縮んで見えた。縮んでいるというより、力を抜いている。いつも何かを構えている体が、今だけ構えていない。
イノはボッグの少し後ろに立ったまま、同じ川を見た。何か言おうとして、やめた。また何か言おうとして、またやめた。
川の音だけが続いた。
「……何も変わってないな」とイノが言った。言ってから、馬鹿なことを言ったかと思った。当たり前だ。川は変わらない。でもボッグは何も言わなかった。否定しなかった。
しばらくして、ボッグが川岸の石を一つ、手に取った。
平たい石だった。ボッグの手の平に収まる大きさ。表面が滑らかだった。水に長くいた石の手触りだ。しばらく手の中で転がして、川へ向けて投げた。
石は水面を一度だけ跳ねて、沈んだ。
「あ」とイノが言った。「水切り」
ボッグが、もう一つ石を拾った。イノも川岸を見た。平たい石を探した。見つけた。拾った。
二人で、石を投げた。
ボッグの石は三回跳ねた。イノの石は一回で沈んだ。
「なんで三回も跳ねるんだ」とイノが言った。
ボッグが答えなかった。また石を拾った。
「角度か。投げ方か」イノが石を構えた。「こうか」
投げた。一回跳ねた。惜しい。
「少し上だ」とボッグが言った。初めて言葉が出た。それだけだった。
イノが「上?」と言って、もう一度石を拾った。角度を変えた。投げた。二回跳ねた。
「おっ」
ボッグが黙って、また石を投げた。四回跳ねた。
「なんで増えてるんだよ」
ボッグが川を見たまま、少しだけ笑った気配がした。音は出なかった。でも笑った。イノにはそれが分かった。分かったから、何も言わなかった。
川の音が続いた。
上が動いている。追手が増えている。帝都の電波に新しい干渉パターンが出ている。明日からまた動かなければならない。そういうことは、今ここでは関係なかった。川は変わらない速さで流れていた。石は投げれば跳ねた。
「なんでここに来たんだ」とイノが聞いた。
ボッグが少し間を置いた。石を一つ手に取った。転がした。「変わらない場所が必要だった」
「俺も来ていいか聞かなかったけど」
「いい」
「なんで」
「お前が来たから」
イノが少し黙った。川を見た。「……そういう答え方をするのか、お前は」
ボッグは答えなかった。石を投げた。五回、跳ねた。
イノが「すごいな」と言った。
川が、同じ速さで流れ続けた。
ルルが少し笑った。それから「腹減った」と言った。
「イノに言え」
「イノはボッグと外にいる。ボッグが、川辺の、何も変わってない場所にいるんだって、イノが言ってた」
「何も変わってない場所」
「変わった場所ばかり見てると疲れるんじゃないか、ってイノが言ってた」
「イノが、ボッグの行き先を説明してたのか」
「うん。ついてってた」
「ボッグに?」
「ボッグに」
キコは少しだけ、それを想像した。無口な熊と、一番若い猪が、川辺の何も変わらない場所を並んで見ている。何も言わずに。
キコはその言葉を、頭の中でしばらく置いた。ボッグが何も変わっていない場所にいる。それをイノが見ている。ルルがキコに伝える。算盤の数値には出ない経路を、情報が流れてきた。
「そうか」とキコは言った。
「ボッグ、そういうとこあるよね」とルルが言った。
キコは答えなかった。算盤の端に、ルルの数値を書き留めた。七から十二。一日で。
レンが来たのは夜だった。
手土産はなかった。座らなかった。入口に立ったまま、短く言った。
「上が動いた」
「分かってた」とキコが言った。
レンが少しだけ、目元を動かした。「いつから」
「三日前から算盤の数値が変わっている。上が何かに気づいたタイミングと、ほぼ一致している」
「何に気づいた、と思う」
「分からない、ということに気づいた」
レンが少し黙った。それから「正確だ」と言った。
末端が使ってきた言葉を、レンは繰り返した。調査の指示が来た。でも調査の対象が「何が起きているか」だ。「誰がやったか」ではない。犯人を探しているのではなく、現象を理解しようとしている。つまり、まだ原因が分かっていない。
「どのくらいで気づくと思う」とキコが言った。
「設計の変化に?」
「ああ」
レンは少し考えた。「二週間から一月、というところだ。早ければもっと早い」
「その時、上はどう動く」
「壊しにくる」レンは言った。迷わなかった。「分からないものは、壊す。それが奴らのやり方だ」
キコは算盤を一度だけ握り直した。壊れている。珠が二つ欠けている。枠の端が割れている。
「分かった」
「それだけか」
「今夜はそれだけだ」
レンは少し間を置いた。それから「そうか」と言って、夜の中へ戻っていった。
レンが出ていった後、しばらく誰も言わなかった。
入口の扉が、静かに閉まった。足音が遠ざかった。川の音が戻ってきた。
ガルが壁際から動いた。音もなく、ただ場所を変えた。入口から少し離れた場所に立った。腕を組んだ。扉の方を向いていた。扉が閉まってからも、しばらくその方向を見ていた。
ボッグは動かなかった。壁際に座ったまま、床を見ていた。
「……何者なんだ、あいつ」
イノが言った。小さい声だった。ボッグを見ながら言った。
ボッグが答えなかった。
「お前ら、知ってるのか」
「知っている」とジグが言った。壁に背を預けたまま、天井を見ていた。「知っているが、言わない」
「なんで」
「お前が聞く相手が違う」
イノがキコを見た。キコは算盤を見ていた。
「信用できるのか」とイノが言った。今度は誰にでもなく言った。
誰も答えなかった。
ガルが、ようやく扉から視線を外した。部屋を見渡した。七人がいる。それを確かめるように、一人ずつ見た。ジグ。ルル。キコ。ボッグ。イノ。レンは、もういない。
「信用するかどうかは、今夜決めることじゃない」
ガルが言った。声は静かだった。
「でも」とイノが言った。
「でも、何だ」
イノが少し詰まった。「俺たちの動きが、あいつに筒抜けになってるかもしれない。そう思ったら、動けなくなる」
「動けなくなるなら、動くな」
「そういうことじゃない」
「そういうことだ」ガルは言った。「疑いを持ったまま動けないなら、動かなければいい。疑いを持ったまま動けるなら、動けばいい。どちらでもない、という状態はない」
イノが黙った。
ボッグが立ち上がった。音がなかった。鍋の方へ歩いた。水を確認した。湯が少し残っていた。椀を出した。
「飯か」とジグが言った。
ボッグが答えなかった。椀を並べた。
「腹が減ってる」とルルが言った。
「俺も」とイノが言った。さっきと声が違った。
ガルが腕を解いた。壁から離れた。ボッグの隣に来て、椀を一つ取った。
誰も、レンのことを続けて話さなかった。話す必要があれば、また話す。今夜は、ここまでだった。川の音が続いていた。腕輪の光がバラバラに瞬いていた。
七人のうち六人が、同じ場所にいた。
それだけが、今夜の数値だった。
その夜、キコは眠れなかった。
算盤を開いた。ずれを確認した。毎回、同じ方向に、同じ幅だけ。
設計が、動いている。
壊したのではない。元に戻した。だから壊れ方をしない。静かに、少しずつ、元あった方向へ向かっている。黒服が消えた四辻。腸詰めの値段。自分の色をした十二の腕輪。川辺の、何も変わっていない場所。これらが全部、同じ一枚の図の上にある気がした。証明はできない。数値で繋げられない。でも、向きが同じだ。
ルルの寝息が聞こえた。ジグが眠っているのか眠っていないのか、分からなかった。
「……キコ」
ジグの声がした。
「起きてる」
「何を考えてる」
「設計が動いている。自分で動き始めている」
ジグが少し間を置いた。「それは、いいことか」
「分からない」とキコは言った。「元に戻しただけのはずだ。でも、元の設計がどこへ向かおうとしていたか、俺は全部は知らない」
「作った奴が善意だったとしても」
「ああ。善意の設計が、善意の方向へ向かうとは限らない」
ジグは黙った。川の音が続いた。
「それでも」とジグが言った。しばらくして。
「それでも」
「お前がやったことは、合ってたと思う」
「根拠は」
「お前が今、眠れないでいる。それが根拠だ」
キコは答えなかった。
算盤の珠に触れた。冷たかった。夜の空気と同じ温度だった。
目を閉じた。眠れなかった。でも目を閉じていた。
外で、夜が続いていた。帝都の腕輪が、バラバラに瞬いていた。昨日より少しだけ、自分の色をしたものが、多かった。
算盤は静かだった。でも設計は、今夜も、少しずつ、動いていた。




