村長の断片
村長が縁側に出てくるようになったのは、それから二日後だった。
ルルが隣に座っていた。特に話しかけるわけでもなく、ただいた。村長も特に話しかけるわけでもなく、ただ座っていた。
キコは縁側から少し離れた場所で、算盤を開いていた。あの夜の計算の続きだ。安全確率の変数を減らせないか、別の角度から当たっていた。聞くともなく、二人の声が届いていた。
「あんた、どこから来たんだべ」
「帝都から。川を下ってきた」
「帝都かぁ」村長が空を見た。「でっかいとこだなぁ」
「大きかった」
「あそこの腕輪は、明るいんだってなぁ」
「明るい人もいる。暗い人もいる」
村長がしばらく黙った。膝の上で手を組んで、何かを思い出すような顔をした。
「うちにも、来たんだよ。役人が」
キコの珠が、止まった。
「なんか、大木を使えば便利になるって言ってなぁ。頭もよくなるとか、遠くのこともよく分かるようになるとか。よく分からんかったけど、まあ悪いことじゃないかと思って」
「受け入れたんだ」
「受け入れた。みんなで話し合って。反対した人もいたけど、まあ多数決でなぁ」村長が手を動かした。何かを払うような仕草だった。「最初はなぁ、こういった大木から作ったとかなんとか、言っておったなぁ。大木の力を借りて、みんなに届けるとか。なんかそんな話だったと思うんだけど、もう昔のことで」
キコは算盤を膝に置いたまま、珠に触れなかった。
村長の言葉を、頭の中で並べ直していた。大木から作った。大木の力を借りて届ける。最初は、そういう設計だった。
そうか。
最初から悪意で作られたものじゃない。
誰かが便利なものを作った。生命の振動を数値にして、遠くへ届ける。それだけだった。それを後から誰かが歪めた。歪めて、独占して、支配の道具にした。でも最初の設計は、まだ内側に残っているはずだ。骨格は変わっていない。歪めたのは使い方だ。
壊すだけじゃない。
元に戻せる可能性がある。
カチ、と珠を一つだけ弾いた。確かめるように。数値が出た。小さな数値だったが、確かにそこにあった。
キコは算盤を見たまま、別のことを考えていた。
善意で受け入れた、と村長は言った。悪いことじゃないと思って、みんなで話し合って。
ヒツジの男が浮かんだ。
石畳で転んでいた。ルルが駆け寄ろうとした。キコが止めた。三回、こちらに近づいてきていた。偶然ではない可能性がある、とキコは言った。
あの男は本当に困っていたのか。それとも違ったのか。
今も分からない。
レンのことを思った。仲間に全部持っていかれた、とジグは言った。続きは言わなかった。聞かなくていい、と言った。善意で近づいてきた者が、全部を持っていった。あるいは、善意だと思っていたものが、そうではなかった。どちらなのかも、分からない。
分からないまま、ここまで来た。
算盤の珠に触れた。数値を出そうとして、やめた。出せない問いがある。それは計算の外側にある。そのことだけは、分かっていた。
*
「その腕輪」
村長が言った。
「え」とルルが顔を上げた。
「大木と同じ色をしておる」
ルルが腕輪を見た。キコも顔を上げた。
腕輪が、熱を持っていた。
さっきまでと違う。ルルが何かをしたわけではない。村長が何かをしたわけでもない。ただ、熱くなっていた。橙の光が、少しだけ白に近づいていた。
村長が目を細めた。それからゆっくりと目を閉じた。「眠くなってしまったなぁ」そのまま、黙った。
寝息が聞こえてきた。
キコはルルの腕輪を見た。ルルも自分の腕輪を見ていた。二人とも何も言わなかった。
算盤を開いた。
数値が、出なかった。
廃屋で調べた時と同じだった。記録を追っても、観測を重ねても、この腕輪だけは計算の外側に出てしまう。構造的にありえない。なのに、ある。
珠を戻した。
「なんだろうね」とルルが小さく聞いた。
「分からない」とキコは言った。「まだ」
村長の寝息が続いていた。




