聞かなくていい
新しい拠点は、川下の石橋の下だった。
橋の裏側に、増水対策で作られた足場がある。普段は誰も使わない。水が来ても上に逃げられる。雨が入らない。人の目線より低い場所にあるから、上からは見えない。
ジグが「ここでいい」と言った。
「また理由があるのか」とルルが言った。
「ある」
「言う?」
「橋の裏側には人が来ない」
「前と同じ理由だ」
「正しい理由は繰り返して使う」
キコは足場の強度を確認した。算盤を置ける場所を探した。見つけた。荷物を下ろした。
三人とも、何も言わなかった。でも動きが速かった。十五日間で、拠点の作り方を覚えていた。
翌朝、ジグが一人で出た。
「どこへ」とキコが言う。
「ちょっとな」
「いつ戻る」
「戻ったら戻る」
それだけだった。前と同じ言葉だった。でも今回は、キコには分かっていた。止めなかった。
帝都の端まで、半日かかった。
ジグは走らなかった。急ぐ用事ではなかった。路地を歩いた。石畳の継ぎ目を踏みながら、いつもの癖で屋根の高さを確認しながら、人の流れの中を歩いた。腕輪の光がバラバラに瞬いている。昨日の配信の余韻が、まだ街の空気に残っていた。
目的地は、番号だけで呼ばれる区画だった。
上層でも下層でもない。帝都の構造から半分だけはみ出した場所。昔、なんとなく境目になった通りがあって、そこから先は行政の管轄が曖昧になっていた。誰も整備しない。誰も壊さない。だからそのままある。
ジグはそこで育った。
特別な場所ではなかった。育てられた、という感覚もない。ただ、そこにいた。腹が減れば何かを盗んだ。眠ければどこかに潜り込んだ。それが当然だった。当然だと思っていた。
路地の角を曲がった。
見覚えのある石壁があった。高さは変わっていない。ひびの入り方も変わっていない。ただ、ひびの数が増えていた。時間が経った、ということだ。
壁の前で立ち止まった。
昔、ここで二人でいた。名前を、今は思い出さないようにしている。思い出すと、計算が狂う。正確に言うと、計算ではなく——何か別のものが、狂う。
そいつも算盤を持っていた。
ジグのではなく、そいつ自身の。帝都の機構の仕組みを、キコよりずっと荒削りな方法で読んでいた。でも方向は同じだった。この街のどこかがおかしい、ということを、そいつも知っていた。
ジグはそいつに何かを渡した覚えはない。ただ、一緒にいた。それだけだ。
そいつが「やる」と言った時、ジグは止めなかった。止める理由がなかった。いける、と思った。根拠はなかった。でも、いける気がした。
いけなかった。
仲間だと思っていた連中が、途中から違う方向を向いていた。そいつは気づいていなかった。ジグは気づいた。気づいたが、言わなかった。言えば止まる、と思ったからだ。止まれば終わる、と思ったからだ。
止まらなかった。終わった。
仲間に全部持っていかれた、というより——そいつが仲間を信じすぎた、という方が正確だった。信じることを、ジグはずっと合理的ではないと思っていた。根拠のない信頼は、計算に入れられない。計算に入れられないものは、リスクだ。
でも。
石壁を、一度だけ触った。冷たかった。
そいつが間違えたのは、信じたことではなかったかもしれない、と、最近思う。間違えたのは、信じる前に確かめなかったことだ。確かめる方法を、持っていなかったことだ。
キコは持っている。
算盤という道具で、持っている。数値として、確かめる。感情ではなく、根拠として読む。ジグがずっと「合理的ではない」と思っていたものを、別の形で持っている。
だからジグはキコを信用している。
感情ではなく、根拠として。
石壁から手を離した。路地を戻り始めた。帰り道も、走らなかった。急ぐ用事ではなかった。ただ、来る必要があった。来て、触って、戻る。それだけだ。
あいつの名前は、今日も思い出さないようにした。
思い出さなくても、石壁の冷たさは手に残る。それだけあれば十分だ。
夕方の光が、路地を橙に染めていた。キコとルルが待っている場所まで、もう少しある。
ジグは歩き続けた。
ジグが戻ってきたのは、夕方だった。
外套に埃がついている。遠くまで行ってきた。ルルが「おかえり」と言った。ジグが「ああ」と言った。荷物を下ろして、足場の端に座った。
キコは算盤を叩き続けた。しばらく、川の音だけが続いた。
「キコ」
ジグが言った。
「何だ」
「一個だけ言う」
キコは算盤から顔を上げた。ジグを見た。
「あいつ、お前と同じことやって負けた奴だ」
沈黙があった。
「続きは」とキコが言った。
「聞かなくていい」
「なぜ」
「お前が自分で判断する材料だけで十分だ」
キコは答えなかった。算盤を見た。ジグを見た。算盤を見た。
ジグは視線を外した。川の方を見た。それ以上何も言わなかった。
ルルが文献から顔を上げた。キコを見て、ジグを見て、また文献に戻った。何も言わなかった。
その夜、キコは眠れなかった。
お前と同じことをやって負けた。
同じこと、とは何か。負けた、とはどういう意味か。
仲間に全部持っていかれた——ジグが言わなかった続きが、キコの頭の中で勝手に形を作った。根拠はない。でも数値の感触として、そういう形をしている気がした。
レンが止めていた座標を、算盤の端から取り出した。この先に何があるのか、レンには分かっていて、キコには分かっていない。
(お前と同じだった者だ)
同じだった。過去形だ。今は違う、ということだ。
キコは算盤を閉じた。
ルルの寝息が聞こえた。ジグは眠っているのか眠っていないのか、分からなかった。
「……ジグ」
「起きてる」即座に返ってきた。
「なぜ続きを言わなかった」
「言った。聞かなくていいって」
「それが答えか」
「お前に答えを出させたかった。俺の答えじゃなくて」
キコはしばらく黙っていた。
「……お前は、どう思う」
ジグが少し間を置いた。「嫌いじゃない」
「レンが?」
「ああ。嫌いじゃない。でも信用はしない。その両方が本当だ」
キコは答えなかった。
「お前は」ジグが聞いた。
「……まだ分からない」
「分からないのか、決めたくないのか」
キコは川の音を聞いた。しばらく、それだけを聞いた。
「……両方だ」
ジグが鼻から息を吐いた。笑ったのかもしれない。暗くて分からなかった。
「そうか」それだけ言って、黙った。
ルルの寝息が続いていた。キコは算盤を手元に置いたまま、目を閉じた。眠れなかった。でも目を閉じていた。
夜が、長かった。
翌日の昼、レンが来た。
新しい拠点を、どこで調べたのか分からない。ただ来た。手土産はなかった。
「続きをやろう」レンが言った。
キコはレンを見た。細身で背が高い。赤茶の毛並み、耳の先だけ白い。外套の袖の繕い跡。中層の腕輪の光。
昨夜、頭の中で形を作った「負けた」の輪郭が、目の前の人間と重なる。重ならない部分もある。
「ああ」とキコは言った。「続きをやろう」
ジグが壁に背を預けた。腕を組んだ。何も言わなかった。
ルルがレンを見た。それからキコを見た。それから文献に戻った。
作業が始まった。




