信号
八日目の夜、キコは一人だった。
ジグは「用がある」と言って出ていった。ルルは「ついていく」と言って後をついていった。ジグが「来るな」と言った。ルルが「行く」と言った。二人の足音が遠ざかって、雨音だけが残った。
キコは算盤を開いた。
昨夜の接続の続きだ。穴がある。穴の座標は分かった。でも形が分からない。
式を組む。カチ、カチ。珠が鳴る。
投げた。電波の内側へ、式を一つ。独り言に近い。誰かに向けたわけじゃない。ただ、確認のために。
三秒待った。
返ってきた。
キコは手を止めた。
穴の座標じゃない。穴の形だ。キコが問うたものの、一手先が返ってきた。しかも正しい。
誰かがいる。電波の内側に、キコの式を読んでいた誰かが。
次の式を送った。今度は意図的に、ほんの少しだけ間違えた。
待った。
返ってきたのは、間違いの指摘じゃなかった。正しい形で、続きだけが来た。
キコの指が止まった。
間違いに気づいた上で、指摘しなかった。馬鹿にしたのではない。キコが自分で気づくのを、待った。
(誰だ)
問いを送った。数値で。
三秒。
(お前と同じだった者だ)
数値で、返ってきた。
キコはその返答を、しばらく見ていた。ジグにもルルにも、言わなかった。言えなかったのか、言わなかったのか、自分でも分からなかった。
雨音が続いていた。
十日目の昼に、レンは来た。
川辺の路地の角から現れた。細身で背が高い。赤茶の毛並み、耳の先だけ白い。外套は上層の仕立てだが、袖の端が繕ってある。腕輪の光は中層の明るさ——下層でも上層でもない、どちらとも言えない光。
武器はない。脅しもない。手土産だけ持っていた。黒パンが三つ。
「邪魔をする」
穏やかな声だった。
ジグが動いた。キコより速く、ルルより速く、気づいた瞬間にはレンとキコの間に立っていた。外套の内側に手が入っている。
「誰だ」
「通りすがりだ」レンは言った。「パンを持ってきた」
「通りすがりがパンを持ってくるか」
「お前たちが腹を空かせているのを知っていたから」
「なんで知ってる」
レンは答えなかった。代わりに、キコを見た。
ルルがレンを見ていた。首を少し傾けて、じっと見ていた。
「隠してる顔してる」
ルルが言った。
レンは少しだけ、口元が動いた。「鋭いな」
「褒めても何も出ない」
「褒めていない。事実を言った」
キコはその会話を聞きながら、レンを見ていた。反応が、遅れていた。警戒すべきだと分かっていた。でも手が、動かなかった。
(お前と同じだった者だ)
昨夜の数値が、頭の中に残っていた。
「座るか」
キコは言っていた。
ジグが振り返った。一瞬だけ、キコを見た。何も言わなかった。でもその目が言っていた。キコは視線を外した。
レンは二時間、いた。
余計なことは言わなかった。帝都の話をした。電波塔の最近の変化。下層の腕輪の光が、ここ一月で平均三パーセント落ちていること。数値が正確だった。キコの観測と一致していた。
ジグはずっと壁に背を預けて、腕を組んでいた。一言も聞き逃していなかった。
ルルはレンの話を聞きながら、途中で黒パンを食べ始めた。食べながらレンを見ていた。何かを確かめるような目で。
帰り際、レンは立ち上がって外套を整えた。扉に向かった。そこで、振り返らずに言った。
「七、十一、三、二十九」
数値だった。
ジグが「何だそれ」と言った。ルルが「暗号?」と言った。キコは答えなかった。
レンは振り返らなかった。そのまま路地の角を曲がって、消えた。
しばらく、三人は黙っていた。
「なんで呼んだ」ジグが言った。
「呼んでいない」キコが言った。
「じゃあなんで来た」
「……分からない」
ジグは少しだけ黙った。それから「そうか」とだけ言って、外套を手に取った。「見てくる」
「何を」
「気配」
ルルが「おみやげ」と言った。
ジグが足を止めた。「何だ」
「パン、一個余ってる」
ジグは少し間を置いた。それから黙って受け取って、足音もなく出ていった。
ルルがキコを見た。「あの人、また来るね」
「……なぜそう思う」
「数値、置いていったから。あれ、返事を待ってる形でしょ」
キコは答えなかった。
ルルは外套を引き寄せて、文献の隙間に背を預けた。「キコ、あの人のこと知ってたの?」
「知らない」
「でも、驚いてなかった」
キコは算盤を開いた。返答をしなかった。ルルはそれ以上聞かなかった。
夜、一人になってから、キコは算盤を開いた。
昨夜の数列を出す。レンが帰り際に置いていった数値を、その続きに当てる。
七、十一、三、二十九。
合った。昨夜の数列の、正確な続きだった。
キコは算盤から手を離さなかった。川の音が続いていた。
どこかで、誰かが、キコの返答を待っている。
カチ、と珠を一つだけ弾いた。
答えは、まだ出していなかった。




