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第16話

 なんとか部活まで終え、時刻は八時を回っていた。すっかり日が落ち、寂しさを滲ませた夜空が広がっている。

 真望さんと約束した場所に向かっていると、突然雨が降り出した。肌をぴったりと張り付く制服の感触が気持ち悪い。

 肌寒さを感じるが、足を速めることはなかった。


 目的の場所に着くと、真望さんが雨宿りをしながら待っていた。私を見るなり、慌てたようにこちらに駆け寄ってくる。


 「どうしたの!? なんで傘もささないで……」


 どうでもいいから。それが本音だったが、喋る気力すらない。

 何かを察したように、真望さんが言う。


 「とにかく、中に入ろうか」


 チェックインを済ませ、部屋に入る。

 シャワーを浴びさせてもらい、タオルを巻いて浴室から出た。


 「これ借りてきたから、雛乃ちゃん着替えてきたら?」


 受け取ると、それは淡いピンク色のネグリジェ。もう一度浴室に向かい、ネグリジェを着る。


 真望さんはベッドに腰掛けていた。横に座るようにと、ベッドをポンポンと叩く。

 少し離れた位置に座ると、真望さんは穏やかな目で、話しかけてきた。


 「それで、雛乃ちゃんは何があったの? 私を頼ってくるなんて」


 喉は話すことを拒み、つぶれたような声が出る。


 「わた、し……何も上手くいかなくて。アプリかいは、つも。べんきょうも……

 それで、それで……」


 叱られた子供のように、言葉がたどたどしくなる。喋っているだけで、瞼の奥が熱くなった。

 真望さんは私を抱き寄せた。

 反射的に真望さんの体を押し返そうとしたが、大人の女性の力に敵わない。


 強引に抱き寄せられたのに、押し返そうとしていた手の力が抜けていく。


 「大丈夫だよ、大丈夫。雛乃ちゃんは頑張ってる。私は知ってるよ、小学生の時も中学生の時も、人一倍頑張ってたもんね」


 抑えていたはずの感情が決壊するように、涙が溢れる。絞り出すような泣き声をあげ、真望さんの胸元に顔をうずめた。

 子どもをあやすように背中を撫でられ、泣き声がさらに強くなる。


 真望さんはどんな顔をしているのだろう。


 「辛かったね。私、ずっと前から心配だったんだ」


 指先が、背中をなぞる。ぞわりとした感触が遅れて広がり、くすぐったい。だけど、嫌じゃない。

 さっきまであったはずの引っかかりが、どこかに消えていた。


 真望さんの手が止まる。その瞬間、身体が勝手に動く。撫でてほしくて、背中を押しつけてしまう。

 なんで、さっきまで嫌だったのに。それなのに……


 気付いた時には、完全に手が止まっていた。羞恥、混乱、狼狽……それらを煮詰めたような感情が湧き上がる。


 ――何してるの私。逃げ出したいのに、体が動かない。


 「ねえ、覚えてる?」


 何事もなかったかのような声。


 「雛乃ちゃんが小学生の頃、隈作って勉強してたこと。この子、いつか壊れちゃうんじゃないかって思ってた」


 背中にあった感触がすっと消えた。


 ――何で? 寂しいよ


 そう思った次の瞬間、全身を包まれるように抱きしめられた。息が詰まるほど。でも、離してほしくない。

 シャワーとは違う温もりにより、芯から満たされるような感覚。


 「もう頑張らなくていいんだよ。

 ぜーんぶ、お姉さんに任せてね」


 耳元に湿気混じりの風が当たる。

 体が震えそうになるのを堪えると、微笑を含んだ声が聞こえた。

 

 「代わりに、雛乃ちゃんはお姉さんを甘えさせてくれたらいいからね」


 肺に広がっていく女性らしい甘く、重たい香りと、シャンプーやリンスの香り。眠りにいざなうような柔らかい声に当てられ、考える前に頷いていた。

 頭に伝わる真望さんの心臓の鼓動が早まるのを感じる。

 それに呼応するように、私の心臓が早鐘を打つ。もはや、どちらが自分の鼓動なのか分からない。


 空気が……重くなる。


 「お姉さんね、街で雛乃ちゃんが知らない女の子とホテルに入るのを見かけた時、すごくショックだったんだよ」


 心臓が締め付けられ、呼吸が浅くなる。

 なぜだか、罪悪感で心が埋め尽くされていく。

 悪いことはしてないはずなのに、後ろめたさすら感じる。


 「私はね、ずーっと雛乃ちゃんが好きだったの。雛乃ちゃんに拒絶された日からもずっとね」


 語気が強くなり、さっきまでとは違う鼓動を感じた。

 顎に指をかけられる。逃さないように。強引に、顔を上げさせられた。


 優しく微笑んでいるように見えたが、眉が僅かに上がっていた。


 「ねえ、雛乃ちゃん」


 距離が近い。


 近すぎる。


 「言うこと、あるよね?」


 枯れ果てたはずの涙腺が刺激される。どれだけ絞っても涙は出ない。その代わりか、小さな声が漏れる。


 「っ……あっ……」


 「大丈夫だよ。私はね、怒ってるわけじゃないの」


 背中を軽く叩かれる。

 優しいのに、逃げ道がない。


 「ただね」


 囁く。


 「取られたみたいで、嫌だっただけ」


 真冬に外出した時のように、無意識に口が開閉する。この人に捨てられたら……私は誰に縋ればいいの。

 肩が小刻みに震え、お腹の奥から沸き立つように何かがこみ上げてくる。

 顎を掴む手を両手で包み、掠れた声で口を開く。


 「ごめ……ごめんな、さい。真望さん……ごめん、なさい……」


 真望さんからの返事はない。視界が歪んでよく見えなかったが、頬が紅潮しているのは分かった。

 まだ怒っているのかもしれない。どうしたら許してもらうのだろう。


 「いい子だね」


 そんな不安を払拭するかのように、頭を撫でられた。


 「お姉さん嬉しいよ。怖がらせちゃってごめんね? お詫びに……」


 そのまま視界が傾き、私は押し倒された。

 逃げ場は、もうなかった。

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