最終話 Sweet November 2
何処からか、金木犀が香った気がした。秋ももう終わりそうだから、きっと気の所為だ。
ふらつく足で倒れ伏したままの銀千代に駆け寄る。
「おいっ、おい!」
声をかけながら、銀千代のもとに行こうとした俺の肩をサラリーマンが掴んで止めた。
「落ち着け! いま連れが警察と救急車呼んでるから、下手に動かしたら危ない」
「いや、でも、そんな」
「だから落ち着けって。君の知り合いか? 大丈夫、大丈夫だから」
根拠のない励ましに、脳が冷静になることはなかった。
周囲にいつの間にか人集りができていた。数分して、野次馬のざわめきをきり裂くように救急車のサイレンの音が響いた。ひどく滑稽に思えた。
誰が? 俺が。
五分ほどのことだったが、永遠とも思える長い時間だった。
何も考えられないなりに、全身に冷水を浴びせられたような寒気を感じながら、銀千代が乗せられた救急車に同乗した。
銀千代は気を失っていた。どんなに声をかけても返事はない。いつも無駄にうるさいくせに、こういう大事なときに限って声を上げてくれない。
そのくせ、いつもみたいに綺麗な顔をしているので、状況がいまいち飲み込めなかった。酸素ボンベがつけられて、腕から変なチューブがたくさんつながれているのに、眠っているみたいに静かだった。
だからこそ現実が受け止めきれない。
なんで俺は救急車に乗っているのか。何があった。なんでこんなことになっている?
緊急隊員の人がたくさん質問してきたが、能動的に応答するだけで、深く物事を考えられなかった。
忙しなく動くたくさんの白い服を着た大人の横で、モラトリアムの荒波にのまれるように、俺はただ呆然としていた。
病院にはすぐについた。ガラガラと車輪を回転させて、ストレッチャーに乗せられた銀千代は、奥に行ってしまった。
網膜に焼き付くような白一色の世界に俺は強く目を瞑った。消毒液の匂いが鼻腔を擽る。
自分が今、泣いているのが、そうじゃないのか、それすらもわからなかった。
朝までの平和な日常が嘘のように感じられた。こういう状況のことを何と呼ぶのだっけ。急転直下、青天の霹靂。どんな言葉を思い浮かべても、今の現状には似つかわしくない。
最低最悪な気分だ。
自覚すると同時に猛烈な吐き気に襲われ、俺は近くのトイレに駆け込んで、便器にしがみついて、戻した。
今朝、銀千代が作ってくれた朝ごはんか便器に汚く張り付いた。
別に気持ち悪いわけじゃない。気分が最悪なだけだ。
吐いたら楽になるかと思ったが、別にそんなことはなかった。
その代わりに、お腹が鳴った。空っぽになった胃が死にかけの子猫の様な音を立てる。
なんでこんなことに。どうしてこうなった。自問自答が脳内に反響する。吐瀉物を流して、ふらつく足で個室のドアを開ける。
流し台で口をすすいで、トイレから出ると看護師さんが立っていた。
「大丈夫? あなたも怪我してるじゃない」
そのまま流されるように、小部屋に案内された俺は、転んだときにできたおでこのすり傷をお医者様に消毒してもらってガーゼをつけてもらった。
「……あの銀千代は……」
大したこともないキズに大仰な処置を施されながら、俺は眼鏡をかけた壮年の男性医師に恐る恐る訊ねた。
「銀千代?」
医師は小さく首をひねる。
「さっき一緒に、運ばれた女の子です。あの、無事なんですか……?」
「ああ」と小さく息を漏らしてから、お医者さんは目を細くし、ニッコリと微笑んだ。
「問題ないよ」
まるで三歳児に声をかけるように優しくゆっくりとした声音で教えてくれた。
「命に別状はないって聞いてる。頭は打ってなかったみたいだから」
「あ、そう、ですか」
全身からドッと疲れが抜けた。安堵の息とともに、椅子の背もたれに寄りかかる。今度は身体が岩のように感じた。力がはいらない。
「痛みとショックで気絶したみたいだけど、かすり傷程度で済んだみたいだから、意識もまもなく取り戻すと思うよ。腕を伸ばした姿勢が幸いしたんだ。前かがみだったから、頭部に車体が当たらなかった。あとは、そうだな。たぶん、あの子は柔道か何かをやってたんだろう。体を回転させることで衝撃を逃がしたんだろうね」
「はぁ」と相槌とため息の中間みたいな声で返事をし、俺はがくりと頭を下げた。
「よかったぁ」
そうだよなぁ、あいつがそう簡単に死ぬはずないんだから、と口から空気が漏れた。
お医者さんはカリカリと何かを書きながらちらりと俺のほうを見た。
「それより君は大丈夫なのかい? 傷は大事なさそうだけど、目の前で事故を目撃したんだ。ショックだっただろう?」
「あいつが無事なら、大丈夫です」
「……スピードはそれほど出ていなかったみたいだけど、彼女を轢いた車は現場から逃げたと聞いているよ。君もこれから色々と聞かれると思うから、今のうちに休みなさい」
「あ、いえ、アイツが目を覚ますまで、近くにいさせてください」
お医者さんはゆっくりと鼻から息を吐くと、薄く微笑んだ。
「いま破れた皮膚とかを縫合してるんだ。処置にどれだけかかるかわからないよ? 大事ではないとはいえ、全身に打撲があるみたいだし」
「あの、時間は大丈夫です。いくらでも待ちます」
「うん。手術中の患者さんを待つ待合室が三階にあるから、受付の人に案内してもらって」
ニキビ跡のような、二、三日でかさぶたになりそうな軽い傷に大げさな処置をしてもらった俺は受付で手続きを済ませ、お医者さんに言われた待合室に向かった。
銀千代の母親に事の顛末と謝罪をスマホで送り、大きくため息をつく。
エレベーターで三階に上がっている途中も生きた心地はしなかった。命に別状はないって言っても銀千代がひかれた理由は明白だ。
起きたあいつになんて言おうか。
謝らなくちゃな。
それからお礼を言わないと。
小さなファンヒーターが稼動する6畳ほどの待合室で革張りのソファーに腰を落ち着けた俺は壁にかけられた時計の針をなんとなしに眺め続けた。
長針がニ周したくらいで看護師さんがやってきて手術が終わったことを知らせてくれた。俺は崩れそうになりながら何とか立ち上がり、案内されるまま銀千代の病室に向かった。




