始まりのレッスン
6月下旬。
名古屋市内にあるダンススタジオは、朝から熱気に包まれていた。
大きな窓から差し込む夏の日差しがフローリングを照らし、まだ午前中だというのに室内の空気は重たい。エアコンは動いているはずなのに、レッスンが始まって30分も経てば誰もが額に汗を浮かべていた。
スタジオの壁際に立つ野坂通は小さく息を吐いた。目の前では、予想通りと言うべきか、予想以上と言うべきか……。
「違うだろ!」
陽斗の声がスタジオに響く。
「今のタイミングで前に出たらぶつかるだろ!」
「天城さんこそカウント通りに動いてください」
奏真もすぐに言い返した。
「やってるって!」
「やってません」
「やってる!」
「やってません」
2人とも一歩も引かない。その様子を見ていたダンス講師が額に手を当てた。通も同じように額を押さえる。大きなため息が出そうだ。見学に来ていた社長だけが楽しそうに笑っていた。
「開始早々、青春バトルだね〜♪」社長が呟く。
「先が思いやられますね……」通は本気でそう思った。
53人の応募者の中から選んだ2人。才能は感じた。可能性も感じた。だが、人間的な相性だけで言えば最悪だったかもしれない。
「一回休憩!」
講師の声で音楽が止まる。2人はようやく距離を取った。陽斗は首に掛けたタオルで汗を乱暴に拭きながら、自販機で買ったスポーツドリンクを一気に飲み干した。
喉が焼けるように熱い。足も重い。肺も苦しい。正直、ここまで大変だとは思っていなかった。歌って踊るだけ。少し前までそう考えていた自分が恥ずかしい。
鏡に映る自分に目をやる。ステップは遅れるし、振り付けは覚えられない。動きもぎこちない。そんな未熟な自分が悔しかった。
その時、ふと視界の端に奏真の姿が映る。彼は床に座り込み、黙々とノートに何かを書き込んでいた。講師から注意された部分だろう。真剣な表情でメモを取っている。
(真面目かよ……)
陽斗は眉をひそめた。気に入らない。だが同時に、少しだけ羨ましかった。ああいう風に何かに打ち込める人間を、陽斗はこれまであまり見たことがなかった。
一方で奏真もまた、陽斗を見ていた。さっきまで言い争っていた相手。不良みたいな態度。口も悪い。第一印象は最悪。
だが休憩に入ってからも、陽斗は1人でステップを繰り返している。失敗する。もう一度。また失敗する。それでも続ける。何度も。何度も。奏真は少し意外に思った。もっと適当な人間なのかと思っていたから。しかし、違った。誰よりも悔しそうな顔をしている。誰よりも負けず嫌いだ。
「よし、後半やるぞぉー」
講師の声が響き2人は立ち上がる。再び音楽が流れ、リズムに合わせて身体を動かす。
右へ。左へ。ターン。そして…………ドンッ。
「いてっ!」
肩がぶつかった。
「だから言ったじゃないですか!」
「お前が寄ってきたんだろ!」
また始まった。講師が頭を抱える。通も頭を抱える。しかし隣に立つ社長だけは笑っていた。
「社長、笑い事じゃないですよ」
通が言うと、社長は楽しそうに肩をすくめた。
「でもさ」
「はい?」
「2人とも逃げてないじゃない」
通はスタジオを見る。言い争いながらも、2人とも誰より真剣な目をしている。苦しくても悔しくても、諦めようとはしない。
「本気なんだよ」
社長が言った。
「本気の子たちは、ぶつかることもある」
その言葉に通は黙った。確かにそうかもしれない。夢を叶えたい。人生を変えたい。2人とも、そのためにここへ来たのだ。
昼休み。スタジオ近くのコンビニ。
陽斗はおにぎりを2つ購入し店を出ると、入口近くのベンチに奏真が座っていた。サンドイッチを食べている。そして目が合う。気まずい沈黙が流れた。先に口を開いたのは陽斗だった。
「それだけ?」
奏真が首を傾げる。
「何がですか」
「昼飯」
「足りますよ」
陽斗は思わず笑った。
「少食だな」
「天城さんが食べ過ぎなんです」
「は?別に普通じゃね」
奏真の口元がわずかに緩んだ。陽斗も少しだけ笑う。ほんの数秒だった。だが、その瞬間だけは険悪な空気が消えていた。少し離れた場所でそれを見ていた通は、思わずガッツポーズをした。
「社長!」
「どうしたの?」
「喋ってます!」
「喋ってるねぇ」
まるで子どもの成長を見守る保護者だった。
午後のレッスンが始まる。再び鏡の前に並ぶ2人。まだ息は合わない。まだ喧嘩もする。それでも午前中とは何かが違った。
陽斗が動く。奏真が合わせる。その瞬間だった。2人の動きがぴたりと重なる。ほんの一秒。いや、一秒にも満たない時間。しかし確かに重なった。講師の目が鋭く光る。
「今のだ」
2人が振り返る。
「え?」
「今の感覚を忘れるな」
スタジオが静まり返る。通の胸が少しだけ熱くなった。まだ何者でもない2人。ユニット名もファンもいない。実績もない。それでも、もしかしたら。本当にこの二人なら!そんな期待が初めて心の中に生まれていた。
夕暮れ。
窓の向こうで名古屋の空が赤く染まっていく。その光の中で、陽斗と奏真は汗だくになりながら踊り続けていた。誰よりも不器用に。誰よりも真っ直ぐに。まだ見ぬステージを目指して。




