EP2.祈りの先 第7話 残遺共響
フィアが案内したのは、古い倉庫の一角だった。
表向きはとうに使われなくなった荷置き場らしく、割れた木箱と麻袋と、使い道の分からない鉄くずが雑に積まれている。その隙間にだけ、人が暮らした痕跡があった。薄い毛布を重ねた寝床。片隅に置かれた水差し。壁際には、紙切れを束ねて紐で括ったものがいくつも差し込まれている。地図らしきもの、名前の書き散らし、日付、矢印。生活と仕事場が、きれいに分かれることなく混ざっていた。
その中央に空けられた場所へ、レインがけが人をそっと横たえた。
フィアは少し離れた木箱に膝を抱えて座わった。
ノエルはけが人の傍に静かに膝をついている。じっと、その顔を見ていた。
ラヴィは外套の裾を払うと、迷いなく男の脇へ座った。裂けた服を開き、血で濡れた箇所を確かめる。見た目の傷だけではない。呼吸の乱れ方が、妙だった。
「持つか」
レインが低く訊く。
ラヴィはすぐには答えなかった。
指先を傷口へ添え、そっと目を伏せる。
「満たせ、光よ。祝福」
短い祈りの言葉が唇から零れた。次の瞬間、掌に淡い白い燐光が宿る。燃えるような強さではない。静かに沁みていく、冷たい灯りだった。
男の身体がびくりと震える。
詰まりかけていた呼吸が一度だけ深く入り、胸がわずかに上下した。
「……分かりません」
ラヴィは掌を離さずに言った。
その声は軽くなかった。
「いったんは繋ぎます。でも、これ……けがだけじゃないですね」
「なんだよ、それ」
「何か、内側から壊されている感じがします」
フィアが眉をひそめる。
「なにそれ。気持ち悪」
「ええ。とても」
レインは舌打ちを飲み込んだ。
こういう時、ラヴィは変にごまかさない。ごまかさない時ほど、だいたい面倒だ。
少しの沈黙のあと、ラヴィが言った。
「……話しておくべきですね」
「何をだ」
「わたしが、あなたに声をかけた理由です」
レインが片眉を上げる。
フィアも腕を組んだまま視線だけを寄越した。
ラヴィは治療の手を止めないまま、静かに話し始めた。
「始まりは、信者からの話でした。顔なじみの方が、知り合いを最近見かけない、と。最初は一人だけでしたから、よくある話かもしれないと思ったんです。でも、その数日後、もう一件、似た話が来ました」
「行方不明、か」
「ええ」
ラヴィは頷く。
「気になったので警備隊へ報告しました。でも、手がかりは掴めていない。……そう思っていたら、数日後に逆に連絡が来ました。似たような失踪が、下町で他にも出ている、と」
「それで俺か」
「下町の事情なら、あなたの方が詳しいでしょう。それに」
そこでラヴィは、ほんの少し言葉を選ぶように間を置いた。
「正直に言うと、何が起きているのか、まだ分かっていません。警備隊も掴めていない。だから、公式な依頼にできない。でも――放っておけない」
レインは壁に背を預けたまま、目だけでラヴィを見る。
「お前の勘か」
「勘と、少しの不安です」
「不安、ね」
その先をラヴィは言わなかった。
レインはそれ以上追及しなかった。
代わりに、横からフィアが口を挟む。
「その失踪の話、フィーも知ってる」
全員の視線が、一斉に彼女へ向いた。
レインが露骨に嫌そうな顔をする。
「知ってるって、どういうことだ」
「いろんなとこが見えるの」
「わかるようにいえ」
「説明してあげてるだけ親切でしょ」
フィアは肩を竦めた。
「探してたわけじゃない。見えてたの。下町から人が消えてるのは気づいてた。消えた人間のうち何人かと、教会の人間が、同じ場所に出入りしてたから」
「教会?」
レインの声が低くなる。
「誰かまではわかんない。でも、教会の人間。たぶん下っ端。」
ラヴィが静かに言う。
「それが、今夜の件と繋がっているかもしれない?」
「かも、だろ」
「ええ。かも、です」
確証はない。
ただ、バラバラだった話に、ようやく同じ色がつきはじめた。
その時だった。
長机に寝かされた男が、急に大きく息を吸い込んだ。
胸が上下し、喉の奥でひどく濡れた音が鳴る。
ラヴィがすぐに身体を寄せる。
「しっかり」
男の瞼がわずかに開いた。
焦点の合わない目が揺れ、それでも何かを見ようとするみたいに宙を泳ぐ。
「……せ、ん……せい……」
掠れた声だった。
「誰ですか」
「……か…い……の…」
言葉はそれだけだった。
男の身体がびくりと強張り、次の瞬間、口端からどす黒いものが滲んだ。
レインの顔がしかめられる。
「なんだ、それ」
ラヴィの手が止まる。
ほんのわずかに、目が細くなった。
「……駄目ですね」
「おい」
「けがもあります。でも、それだけではない。呪いみたいなものに近い。喋れば喋るほど壊れるような、嫌な感じです」
ラヴィはできる限り手を尽くした。
白い燐光がもう一度だけ灯る。
けれど、それはさっきより短く、弱く、男の身体の上で弾かれるみたいに消えた。
一拍の沈黙。
それからラヴィは、静かに手を離した。
「……残念です」
誰もすぐには口を開かなかった。
フィアが腕を組み直し、目を細める。
レインは苛立ちを押し殺すみたいに、奥歯を噛んだ。
ノエルだけが、変わらない顔で死んだ男を見ていた。
そしてぽつりと言う。
「見ていい?」
レインが顔を向ける。
「……何をする気だ」
ノエルは答えなかった。ただ死者の顔へ手を伸ばす。
指先が、額にそっと触れる。
「残影よ、失時の一片よ。開け、追憶――残遺共響」
空気が、変わった。
風が吹いたわけでもないのに、倉庫の隅の紙束がかすかに揺れる。
灯りの影が、ほんの一瞬だけ濃くなった。
フィアが眉をひそめた。
「……なに今の」
ノエルの目の焦点が、すうっとほどけていく。
その様子を見て、レインは無言でノエルの半歩後ろへ回った。
ラヴィも、そっと横へ寄る。
ノエルの呼吸が浅くなる。
見えているものが、そのままこちらへ流れ込んでくるみたいだった。
暗い場所。
湿って、冷たい。
どこかの地下か、窓のない倉庫か。息苦しいほど空気が淀んでいる。
その中に、子どもが立っていた。
小さい。痩せている。
なのに、そこにいるだけで、場が歪むみたいにおかしい。
全身が血にまみれていた。
足元には、人が二人、倒れている。
もう動かない。
子どもが、笑う。
それは子どもの笑い方ではなかった。
口の形だけが笑っていて、目の奥には何もない。ぞっとするほど冷たく、まがまがしい。
少しずつ、近づいてくる。
逃げなければならないのに、身体が動かない。立ち上がれない
喉が潰れたみたいに、声も出ない。
頭の奥へ、冷たい何かが入り込んでくる。
嫌だ。
やめろ。
来るな。
子どもの手が伸びてきて――
視界が塞がれる寸前、その声だけが、はっきりと響いた。
「……ラヴィニエ・オーレア」
低く、幼いはずなのに、嫌に粘つく声だった。
「捕らえろ」
一拍。
「無理なら、殺せ」
もっと奥が見えそうだった。
その先に、まだ何かある。
この子の後ろ。もっと深いところ。もっと嫌なもの。
けれど次の瞬間、何かが、こちらを強く押し返した。
扉を閉められるみたいに、乱暴に。
見ようとする意識そのものを、拒絶される。
ノエルが、はっと息を呑んで手を離した。
数秒、荒い呼吸だけが倉庫に響く。
「ノエル」
レインの声で、ようやく彼女の焦点が戻る。
ノエルは一度だけ瞬きをして、それから短く言った。
「閉じた」
「何かあったのか」
「……狙いはラヴィ」
フィアが眉を上げる。
「こいつ?」
「そう。ラヴィを殺そうとしてた」
空気が、ひとつ重くなる。
レインが低く訊く。
「…誰がだ」
ノエルは少しだけ言葉を探した。
「子どもが、いた」
「さっきのガキか?」
「……うん。同じ顔。でも」
「でも?」
「全然違った」
誰もすぐに意味を飲み込めない。
ノエルはゆっくり続けた。
「表情が。気配が。さっきの子は怖がってた。でも、今のは……ほんとに同じ子?」
レインの眉間に皺が寄る。
「どういうことだよ、それ」
「わからない。でも、同じだけど同じじゃない感じがした。別の何かが混ざってるみたいだった」
フィアが、さっきまでより少しだけ真面目な顔になる。
「……最悪」
「血にまみれてた。この人になにかした。何をしたかは、分からなかった。奥が変だった。もっと見たら、変なものが来そうだった」
レインは舌打ちした。
「あのガキが、こいつらに関わってんのか」
「たぶん」
ノエルは頷く。
「でも、さっきのあの子とは……やっぱり、違う」
ラヴィが、妙に落ち着いた声で言った。
「私のお客だったんですね」
レインが即座に振り返る。
「のんきだな、おい」
「命を狙われるのは慣れていませんけど、珍しくはありません」
「珍しいかどうかの話してねえんだよ」
フィアが口を挟む。
「なんでこいつが狙われてんの」
ラヴィは首を傾げた。
「さあ。神の思し召しでしょうか」
「お前、神になにしたの」
「試練でしょうか?」
「……知らねぇよ!」
フィアが両手を広げる。
「話が進まんじゃん。どうすんの?」
「お答えしなければなりませんね」
「誰に」
「神様に」
「…もうやだ。こいつやっぱりちょっとこわいわ」
ノエルが、静かにラヴィを見る。
「あの子は……」
レインは黙る。
ノエルが続けた。
「ほおっておくの?」
短い沈黙。
それを破ったのは、ラヴィだった。
「やっぱり、優しいですね」
「……は?」
「あなた、面倒だ面倒だと言いながら、結局は見捨てませんから」
レインは露骨に顔をしかめる。
「お前もだろ」
ラヴィがきょとんとする。
「え?」
「命狙われてんだぞ」
ラヴィは不思議そうに眼を瞬かせた後、ほんの少しだけ口元を緩めた。
「……私への告白でしょうか」
「ふざけるな!」
珍しくラヴィが一瞬だけ目を丸くする。
レインは苛立ちを隠さず吐き捨てた。
「俺に勝手に関わって!
俺の目の前で!
いなくなられるのは迷惑なんだよ!」
ラヴィは一瞬だけ黙った。
その沈黙はほんのわずかだったが、いつもより少しだけ静かだった。
「…そうですか」
ラヴィの声色が少し変化した。
フィアがにやっと笑う。
「なになに、なになに?ちょっとかっこいいじゃん」
「黙れ」
レインは舌打ちした。
ノエルがぽつりと言う。
「ラヴィも、あの子も心配」
レインはしばらく黙っていたが、最後にひとつ、大きく息を吐いた。
「……追うぞ」
そう決まると、残る問題は現実的だった。
路上に放置した、死体が一つ。
縛り上げたナイフの男が一人。
「ガッツに頼む」
「誰それ」
フィアが訊く。
「《壊れた錠前亭》の親父。元冒険者。今は店やってる。警備隊にも多少顔が利く」
「へえ。胡散臭そう」
「お前に言われたくねえだろうな」
レインは、その足で倉庫を出た。
少しして戻ってきた時には、外の始末はもう付いていた。
ガッツは面倒そうな顔をしながらも事情を聞き、「またろくでもねえもん拾いやがって」とだけ言って引き受けた。死体と男は《壊れた錠前亭》の裏口からいったん預かり、朝になる前に警備隊へ流す手筈になったらしい。
その間に、ラヴィは教会の伝言網へ短い書き付けを流していた。
――今夜の件、後日詳しく報告します。ラヴィニエ
宛先はセシルだ。
余計なことは書かない。
それで十分だった。
倉庫へ戻ったレインが、肩を回しながら言う。
「で、肝心のガキは」
フィアが壁から背を離す。
「だいたい分かる」
「は?」
「このあたりで隠れるなら場所は限られてるし、追える」
レインが訝しげに目を細める。
「どうやって」
フィアは少しだけ得意げに笑った。
「精霊で追った」
ラヴィが目を瞬かせる。
レインは「はあ?」という顔をした。
その横で、ノエルが静かにフィアを見ていた。
「さっき、反応してた」
フィアの表情が、わずかに止まる。
「……見てたの?」
「うん」
「……なんで分かったの」
ノエルは首を傾げた。
「なんとなく」
フィアは答えない。
けれど、初めてノエルから視線を外せなくなったようだった。
ラヴィがその沈黙を破るように、レインへ向き直る。
「あの子が、誰かに使われているだけだとしたら」
いつになく静かな声だった。
「助けられますか」
レインはすぐには答えなかった。
少年の怯えた顔。
ノエルが見た、別人みたいな笑み。
その両方が、頭の中で妙に噛み合わない。
…妙にかみ合わない?レインは妙な違和感を覚えた。
怯えていた、さっきの子ども。
血にまみれて笑っていた、子ども。
なぜ?なぜ俺にも見えて?いる…?
ラヴィを狙った言葉。
怯えていた少年。
かみ合わない二つの顔。
全部まとめて、ろくでもない。
慌てて振り払う。
やがて短く言う。
「……やってみる」
ラヴィはふっと笑った。
「それで十分です」
レインが今夜何度目かの舌打ちをする。
「都合よくまとめるな」
「まとめてはいません。期待しただけです」
「同じだろ」
「違います」
「違わねえよ」
フィアが肩をすくめる。
「仲いいね、あんたら」
「よくねえ」
「よくないです」
「……息ぴったり。」
ノエルだけが、変わらない声で言った。
「行くなら、早い方がいい」
その一言で、全員が動いた。
倉庫の隙間風が、積まれた紙束をかすかに揺らす。
夜はまだ深い。
けれど、ここで立ち止まっていれば、また何かが見えなくなる気がした。
フィアが先に立つ。
レインがその後ろにつき、
ノエルが静かに続き、
最後にラヴィが一度だけ、誰もいなくなった机の上へ目を向けた。
助けられなかった男。
名前も、最後まで知らなかった。
その死が何を示しているのか、まだ誰にも分からない。
分かるのは、失踪した人間たちと、教会の一部と、あの少年が、どこかで繋がっているらしいということだけだった。
真相はまだ闇の中にある。
だが、その闇の奥で、確かに何かが動いている。
ラヴィは目を伏せ、すぐに顔を上げた。
「では」
「行くぞ」
レインが言う。
四人の足音が、夜の倉庫から外へ消えていった。
その先にあるのが、答えではなかったとしても。
少なくとも今は、追うしかなかった。
―――数刻前。
表通りの灯りが切れかけた角で、少年は立ち止まっていた。
ラヴィニエから握らされた銅貨は、まだ手の中にある。
温かいものを頼めと言われたのに、腹は減っているはずなのに、なぜか足がそちらへ向かない。
耳の奥で、誰かが囁いていた。
ひどく優しい声で、別の道を指してくる。
少年は一度だけ、苦しそうに目を閉じた。
それから、何かを振り切るように歩き出す。
明るい店ではなく、もっと細い、もっと暗い横道へ。
握りしめた銅貨の縁が、掌に痛いほど食い込んでいた。




