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EP2.祈りの先 第6話 噂好きの妖精

その時だった。

ばたん、と扉が乱暴に開いて、息を切らした少年が店に転がり込んできた。下層街の使い走りによくいる、痩せた小柄な子供だ。けれどその顔は青ざめきっていた。

「あ、神官さま……っ、教会の……!」

少年の視線がラヴィを捉える。

「路地で、人が……っ、変なのが出て、みんな――」

言い切る前に、外から鈍い音が響いた。

何か重いものが壁へ叩きつけられたような音だった。

店内の空気が凍る。

ラヴィは静かに目を細める。

「ほら」

その微笑みは、ひどく穏やかだった。

「少しだけ、話を聞く気になりませんか?」

レインは額を押さえた。

「最悪だ……」

ノエルが立ち上がる。

「でも、行く」

レインは数秒、ほんとうに嫌そうに黙り込んだあと、低く吐き捨てた。

「……話は後だ。依頼を受けるなんて一言も言ってねえからな」

ラヴィが嬉しそうに微笑む。

「ええ。まずは、それで十分です」

その“十分”が、たいてい全然十分では終わらないことを、レインはもう知っていた。


扉を開けた瞬間、夜気が肌に刺さった。

店の中の熱気と酒の匂いが背後へ流れ、王都の裏通りの湿った空気が代わりに肺へ入ってくる。石壁の間を抜ける風は冷たく、さっきまで遠くに聞こえていた喧騒が、急に薄くなった。路地へ出るころには、ノエルが拾った“4人”のうち、ひとつはもう遠ざかっていた。

残っているのは三つ。だが、逃げた気配があるというだけで、話は十分に嫌だった。

少年は半ば転ぶように路地の角を指さした。

「こ、こっち……っ、こっちで、急に……!」

「離れるな!」

レインが低く言うと、少年はびくりと肩を揺らした。

「でも――」

「離れるな、って言った」

短く言い切ってから、レインは舌打ち混じりに前へ出る。

ラヴィは白い外套の裾を汚すことにも頓着せず、その後ろを滑るようについてきた。ノエルは一言もなく、さらにその後ろを歩く。

「ずいぶん手慣れてますね」

ラヴィが柔らかく言う。

「慣れたくて慣れたわけじゃねえよ」

「でも、ちゃんと止めた。優しい」

ノエルが言う。

「お前な、今そういう話してる場合か」

角を一つ曲がる。

そこは表通りから一本入っただけの、細く曲がった裏路地だった。木箱が積まれ、壊れた荷車の車輪が壁に立てかけられ、雨水の残りが石畳のくぼみに黒く溜まっている。

その先で、男が一人、壁にもたれて座り込んでいた。

いや、座り込んでいるというより、崩れ落ちているに近い。

外套の肩口が裂け、頬には浅い切り傷。目には光がなく、焦点が合っていない。その少し先には、もう一人の男が石畳に這いつくばるように倒れていた。

そして、その間に立っている影がひとつ。

まだ若い、痩せた男。

刃こぼれした短剣を握り、息を荒げ、こちらと倒れた男とを交互に見ている。顔には焦りと苛立ちが濃く滲んでいた。

「来るんじゃねえ!」

喚くような声だった。

少年がレインの背へ半歩隠れる。

「こいつ、急に……っ、急に暴れ出して……」

「急に、ねえ」

レインは男から視線を外さないまま呟く。

「で、お前は何した」

「何もしてねえ! 俺はただ――」

男の言葉が詰まる。明らかに怯えの色が浮かんでいる。

短剣を握る手がわずかに震えていた。

ラヴィが一歩前へ出る。

「刃物を置いてください」

声音は穏やかだった。

だが、穏やかであることそのものが、妙に場違いだった。

「あなた、ずいぶん追い詰められた目をしています。大丈夫ですよ。神は――」

「来るな!」

男が鋭く叫んで、短剣を振りかざす。

レインは即座に前へ出ようとした。だが、その一瞬前だった。

ひゅ、と乾いた音がした。

何か小さなものが飛び、男の手首へ正確に当たる。短剣が甲高い音を立てて石畳へ落ちた。

男が目を見開く。

「っ、な――」

「遅」

高い声が、頭上から落ちてきた。

全員が反射的に上を見る。

路地脇の張り出した窓枠の上に、少女が一人しゃがみ込んでいた。

足をぶらつかせるでもなく、猫みたいに軽く膝を抱え、こちらを見下ろしている。年の頃は十代半ばほど。小柄な身体つきのくせに、目つきだけが妙に生意気で、口元には人を小馬鹿にした笑みが乗っていた。

指先で、さっき投げたのだろう小さな金具をくるりと弄んでいる。

「荒事に慣れてる風なのに、判断おっそ。もうちょいで刺されてたじゃん」

レインは眉をひそめた。

「……誰だ、お前」

少女は信じられないものを見るように目を丸くした。

「は? 知らないの? 下層街で生きてて? だっさ」

「質問に答えろ」

「やだ」

即答だった。

悪びれもしない。

ラヴィが口元へ指を当て、少しだけ考えるように首を傾げた。

「下層街の噂好きの妖精さん、でしたか」

「その呼び方きらい。安い娼館の怪談みたい」

「では、なんとお呼びすれば?」

少女はにんまり笑った。

「フィア。フィーって呼んでいいよ。親しいなら」

「親しくねえよ」

レインが切り捨てる。

「えー、感じわる。助けてあげたのに」

「頼んでねえ」

「でも助かった」

「……」

「ほら、言い返せない」

勝ち誇ったように笑う顔が腹立たしい。

あまりにもあけすけで、初対面のくせに人の神経を逆撫ですることこの上ない。

ノエルが、上を見たまま言った。

「軽い」

「ん?」

「音がしない」

フィアが一瞬だけ目を瞬かせる。

「……なにそれ。褒めてる?」

「たぶん」

「たぶんって何。気になるじゃん」

その隙を突いて、短剣を落とした男が後ずさろうとした。

レインがすぐに踏み込み、腕を掴んで壁へ押しつける。

「うぐっ……!」

「動くな」

「離せ! あいつが、あいつが――」

男の視線が、路地の奥へ走る。

つられるようにレインもそちらを見た。

路地のさらに奥、崩れかけた石段の陰に、黒い布包みが落ちている。

いや、布包みではない。人だ。小柄な誰かが、倒れたまま動かない。

少年が息を呑む。

「さっきの人……」

ラヴィの笑みが、すっと薄くなる。

「これは……」

「死んでる?」

ノエルが聞く。

ラヴィは少しだけ目を細め、首を横に振った。

「まだ。でも、長くは持たないかもしれません」

フィアは窓枠の上から、退屈そうにそのやり取りを見ていた。

「で?」

「で、とは」

ラヴィが返すと、フィアは肩をすくめる。

「その白いの、ちゃんと使えるんでしょ。だったら治すなり、祈るなり、なんかしなよ。見物料でも払おうか?」

「妖精さんは、ずいぶんふてぶてしいんですね」

「へー? 下層街で礼儀まで期待してるなら、ちょっと世間知らずじゃない?」

言葉は完全に喧嘩腰なのに、声音だけは妙に楽しそうだった。

レインは捕まえた男を壁へ押さえつけたまま、苛立たしげに吐き捨てる。

「おいクソガキ。フィアとか言ったな。知ってることがあるなら吐け」

「やだ」

「二回目だぞそれ」

「じゃあ三回目も言おっか?」

「てめえ……」

「だって、知らない人こわいし。特にその目つき悪いの。噛みつかれそう」

「噛みつく前に引きずり下ろす」

「あ、こわ。見かけ通り、やっぱ野蛮、そこの白いのもそう思うでしょ?」

「なぜわたしに振るんです」

「白いし、中立っぽいから」

「残念ながら、わたしは中立ではありませんよ」

「知ってる。知ってる。いちばんめんどくさそうなタイプ」

フィアはけらけら笑ってから、不意に笑みを引っ込めた。

その変化は、ほんのわずかだった。

だが今までの軽さが一瞬で消えたせいで、逆に目立った。

「……そいつ」

しゃがんだまま、彼女はレインに捕まった男を顎で示す。

「下っ端。雇われ。何も知らないと思う」

男がびくりと反応する。

「でも、奥で倒れてる方は別。あれは最近この辺うろついてた連中と繋がってる」

レインが目を細める。

「なんでそんなこと知ってる」

「見てたから」

「どこから」

「いろんなとこから」

「答えになってねえ」

「じゃあ、そういう仕事だと思って」

ノエルがぽつりと言う。

「情報屋」

フィアは口元を少しだけ吊り上げた。

「半分だけ正解」

「半分ばっかりだな今日は!」

レインが怒鳴ると、フィアは楽しそうに肩を揺らした。

「いいじゃん。全部わかったらつまんないし」

ラヴィは倒れている人物の方へ歩み寄り、膝をつく。

細い指先が喉元と手首を確かめ、短い祈りの言葉が零れる。白い燐光のようなものが一瞬だけ掌に宿り、すぐに消えた。

「命は繋げます。ですが、ここで長話をする場所ではありませんね」

「見りゃわかる」

レインは舌打ちして、捕まえた男の腕をさらにひねる。

「おい。こいつら、なにしてた。お前は何だ」

男は顔をゆがませながら

「し、知らねえ……っ!」

「さっきからそればっかだな」

「ほんとに知らねえんだ! はなせっ!許してくれ――」

「何を依頼された?」

男は口を閉ざした。

レインの目つきがさらに冷える。

そのとき、フィアが上から軽く口笛を吹いた。

「質問へた」

「は?」

「そういうのは順番あるでしょ。いきなり核心から行ったら黙るに決まってんじゃん」

「じゃあお前がやれ」

「やだ。近寄りたくないもん」

「……」

「その顔いいね。ほんと短気」

ノエルが、変わらない声で言った。

「でも、フィアは…見てた?」

その一言で、フィアが少しだけ黙る。

「……あんた、なによ」

「わからない」

「なにそれ」

レインは二人を見比べ、露骨に嫌そうな顔をした。

「お前ら、なんのはなししてんだよ……」

フィアは小さく舌打ちしてから、窓枠から音もなく飛び降りた。

やはり軽い。

石畳に着地したはずなのに、ほとんど音がしない。

近くで見ると、なおさら小さい。だが目だけは妙に強く、笑っていても笑っていなくても、人を試しているような光がある。

彼女は倒れた人物と、ラヴィの白い手元を一瞥し、それから捕らえられた男へ顔を寄せた。

「ねえ。ひとつだけ教えて」

声音はさっきまでと同じ、甘く軽い調子だった。

男が怯えた目で彼女を見る。

「……な、何だ」

「あんたに依頼したの、闇ギルド? それとも、教会?」

男の顔色が変わる。

ほんの一瞬だった。だが、十分だった。

フィアはにやりと笑う。

「はい正解。教会だね」

「っ、ちが……!」

「遅い遅い。そういうの、否定は息吸う前にやるもんだよ」

レインが眉を上げる。

「お前……」

「だから言ったじゃん。質問へたって」

得意げに胸を張る仕草が、妙に腹立たしい。

だが、有能なのも事実だった。

ラヴィが立ち上がる。

「話す場所を変えましょう。彼を運ぶ必要がありますし、この方も警備隊へ渡した方がいい、何より人ひとりがなくなっています」

レインはとらえていた男に当身を食らわせ、路上に転がした。

手際よく手足を縛る。

「警備隊かぁ」

フィアが露骨に顔をしかめた。

「それはやだなあ」

「お前に許可求めてねえよ」

「えー。でも警備隊来たら面倒じゃん。事情聴取とか。根掘り葉掘り。しかもぜったい、あんた感じ悪いから揉めるでしょ」

「揉める前提で話すな」

「違うの?」

「違わなくても言うな」

ノエルが倒れた人物を見る。

「この人、動かすなら早い方がいい」

ラヴィが頷く。

「ええ」

レインはしばらく黙っていたが、やがて苛立ちを押し殺すように息を吐いた。

そのまま背後の少年を振り返る。

「坊主」

少年がびくっとする。

「お前はここまでだ。表通りへ戻れ。いちばん明るい店に入って、朝まで出るな」

「で、でも……」

「でもじゃねえ。もう十分見たろ。これ以上は首突っ込むな」

少年は唇を引き結ぶ。

ラヴィが静かに懐から銀貨を二枚取り出し、少年の手に握らせた。

「温かいものを頼みなさい。足りなければ、教会の名前を出して構いません」

少年は戸惑いながらも、硬く頷いた。

「……わかった」

レインは目だけで路地の出口を示す。

「もう振り返るな。表通りに出てから走れ」

少年は今度こそ、ちゃんと頷いた。

それから一度だけ倒れた男とレインたちを見て、ぎこちなく駆けていく。角の向こうへ姿が消えるまで、レインは一瞬だけ視線を外さなかった。

フィアがその横顔を眺めて、にやっとする。

「へえ。優しいんだ」

「何が」

「子ども。面倒なら放っとく系の悪人面してるのに」

「うるせえ」

「図星」

「黙れ」

フィアは肩を竦める。

「で? どうするの?」

レインは捕らえた男の腕を掴み直し、屋根の上へ消えた残り一人の気配を思い返す。嫌な匂いが、もう十分にしみついていた。

「……わかった。こんなところで騒ぐよりはましだ。話は場所を移して聞く」

フィアが目を細める。

「へえ、あんたが首突っ込むんだ」

「勘違いすんなよ。こっちは巻き込まれただけだ」

「うんうん。そういうことにしといてあげる」

「言い方が気に食わねえ」

「でも事実でしょ?しかもたぶん、まだ序の口だよ」

その言葉だけ、妙に軽くなかった。

レインが睨む。

「何を知ってる」

フィアは一歩下がり、くるりと踵を返した。

「知ってることはある。でも、ただで喋るほど親切じゃない」

「逃げる気か」

「案内してあげるの。感謝してほしいくらい」

振り返りざま、フィアはにっと笑う。

「いい場所、知ってるんだ。あんたらみたいな面倒なの連れてくには、ちょうどいいとこ」

ノエルが静かにフィアを見ていた。

「フィア」

「なに」

「たぶん、また半分しか言ってない」

一拍、沈黙が落ちる。

それからフィアは、少しだけ目を丸くして――すぐに、面白くなさそうに唇を尖らせた。

「……あんた、ほんとやだ」

「そう」

「そこは否定しなよ!」

初めて少しだけ、年相応に崩れる。

レインは額を押さえた。

「なんなんだ、この状況……」

ため息を一つついて、けが人を担ぐ。

その呟きを聞きながら、フィアは先に立って闇の奥へ歩き出した。

白いラヴィ、無表情なノエル、けが人を担ぐレイン。奇妙な並びだった。

そしてその先にあるのが、ろくでもない話であることだけは、もう誰の目にも明らかだった

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