幕間「灯りの下で、誰も同じものを見ていない」
幕間→読まなくても本編には影響ありません。番外編と同じようにキャラクターの心情の解像度が上がるように描きました。飛ばしていただいても本編エピソードには影響はありません。
キャラに愛着を持っていただけたら幸いです
部屋の空気は、まだ死の匂いを引きずっていた。
古い卓上灯の火が、細く頼りなく揺れている。壁際には布をかけられた死体。誰もそれを見ないようにしているくせに、誰も本当に視界から外せてはいない。
フィアの隠れ家は静かだった。
静かすぎて、逆に、誰かが息をする音や、衣擦れひとつまで妙に耳につく。
レインは壁にもたれ、腕を組んだまま黙っていた。
ノエルは灯りの近くに座って、指先で空になった水差しの縁をなぞっている。
ラヴィは死体から少し離れた位置に腰を下ろしていた。背筋だけは伸びているが、その白い指先には、わずかな疲れが残っていた。
フィアは机の端に腰かけ、足をぶらぶらさせている。珍しく、最初から何かを言ってやろうという顔ではなかった。
沈黙を最初に破ったのは、レインだった。
「……一個、前から思ってたんだけどよ」
誰にともなく言ったが、視線はラヴィに向いていた。
「お前、なんでそんな平気な顔でいられんだ」
ラヴィが目を上げる。
「何についてですか?」
「全部だよ」
レインは吐き捨てるように言う。
「人が目の前で壊れても、死んでも、お前はいつも同じ顔してる。驚かねえ、喚かねえ、怒鳴らねえ。さっきだってそうだ。あんなもん見せられて、普通のやつなら顔くらい歪む」
ラヴィは少しだけ考えるように首を傾げた。
「歪んでいませんでしたか?」
「見えねえよ」
「そうですか」
ラヴィはそれだけ言って、小さく目を伏せる。
否定もしない。その代わり、ほんの少しだけ間を置いてから、静かに口を開いた。
「では、ちゃんと答えます」
その言い方は妙に丁寧だった。
いつもの調子と同じはずなのに、今は少しだけ違って聞こえた。
「わたしが平気に見えるのは、たぶん半分正しくて、半分間違っています。平気なのではなく、慣れているんです。もっと言えば、慣れるしかなかった」
レインは何も言わない。
ラヴィは卓上灯の火を見たまま続ける。
「教会にいると、救われる人より、救えなかった人の方を先に覚えます。祈って、手を尽くして、それでも届かなかった人。あるいは、届いたと思ったのに、結局どこかで零れ落ちた人。わたしはたぶん、そういうものを見すぎたんです。だから今さら、死そのものには驚かない」
そこまで言って、ラヴィは少しだけ笑った。
笑ったが、その目は全然笑っていない。
「ただし、見慣れたからといって、許しているわけではありません。そこをよく誤解されます」
レインが鼻を鳴らす。
「今もそう見えるけどな」
「でしょうね」
ラヴィはあっさり肯定した。
「でも、たとえば今の男のことも、可哀想だと思っていますよ。ひどいとも思っています。誰かがこんな壊し方をして、それが王都の裏でまかり通っているなら、心底うんざりします」
その声音は静かだった。
静かなまま、少しずつ冷えていく。
「ですが、そこでわたしが取り乱したところで、この人は戻りません。なら、怒りも悲しみも、手順の邪魔にならない形で使うしかない。祈りも、救済も、結局は順番ですから」
レインが眉を寄せる。
「そこなんだよ。お前のその、何でも理屈に落とす感じ。たぶん正しいんだろうけど、聞いててむかつく」
フィアが肩を震わせた。
「わかる」
ラヴィがそちらを見た。
「心外ですね」
「いや、だいぶ本気でむかつくよ。正論って、人が弱ってる時にぶつけられるとただの鈍器じゃん」
「便利な表現ですね」
「褒めてない」
「知っています」
レインは壁から背を離し、少しだけ前へ出た。
「俺が言いたいのは、別にお前が冷たいって話だけじゃねえんだよ。なんつーか……自分を安全圏に置いてる感じがする」
部屋の空気が、ほんの少しだけ張る。
ラヴィは目を瞬かせた。
「安全圏、ですか」
「ああ」
レインは腕を解いた。
「お前、全部“祈り”とか“救済”とか“順番”とか、そういう言葉に変換してから口に出すだろ。たぶんそれで自分を保ってんだろうけど、そのせいで、本当は何に腹立ってんのか見えねえんだよ」
フィアが「うわ」と小さく言った。
だが茶化す調子ではなく、本当に少し驚いたみたいだった。
ラヴィはしばらく黙っていた。
それから、ゆっくりレインを見た。
「あなたは、随分と失礼な人ですね」
「知ってる」
「しかも、時々だけ鋭い。とても腹が立ちます」
「そりゃどうも」
ラヴィはそこで、ほんの少しだけ息を吐いた。
その吐息は笑いにもため息にも見えた。
「……腹立たしいですよ」
彼女は言う。
「今の話です。あの男のことも、あの子どものことも、この街のことも。全部、腹立たしい。救われたいと願う人間のそばで、救済を語るふりをして人を壊す連中がいる。その構図が、わたしは嫌いです。嫌いで、たぶん、反吐が出るほど不愉快です」
レインは少しだけ目を細める。
ラヴィは続けた。
「でも、そこで感情の形そのままに叫んだら、壊れるのは先にわたしの方です。そういう人間を、わたしは教会で何人も見ています。善意のまま磨り減って、最後には何も祈れなくなる人を。だから、言葉に型を与えるんです。祈りでも、理屈でも、何でもいい。自分が飲み込まれない形に整える。そうしないと、人を救う前に、自分がただの傷になる」
静かだった。
だが今のラヴィの言葉は、いつもの“整っている感じ”とは少し違った。整えようとして、それでも奥から滲んでくるものを隠しきれていない声音だった。
レインは何も返さなかった。
返せなかった、の方が近い。
代わりに、ノエルがぽつりと言った。
「ラヴィは、壊れないように喋ってる」
ラヴィがノエルを見る。
ノエルは卓上灯を見たままだった。
「たぶん、そうです」
ラヴィが言う。
「でも、壊れないためだけでもないですよ。ちゃんと、壊したくないんです。自分も、たぶん、他人も」
フィアが足を止めた。
「……なんか今の、ちょっとだけまともだったね」
「今までのわたしは何だったんですか」
「面倒で怖い聖職者」
「それは今も変わりませんよ」
「知ってる」
少しだけ、空気が緩む。
その隙間を縫うように、今度はフィアが口を開いた。
「でもさ」
誰に向けてというより、灯りに向かって話すみたいな声音だった。
「わたし、ちょっと羨ましいかも」
レインがそちらを見る。
「何が」
フィアは肩を竦める。
「そうやって、言葉に意味があるって信じられるの」
ラヴィが目を細めた。
「信じていないように見えますか?」
「見えるよ。いや、正確には、信じてるんだろうけど、たぶん一回壊れたあとで信じ直してる感じ」
「難しいことを言いますね」
「でしょ」
フィアは机の端に両手をついた。
「わたし、そういうのないんだよね。神様とか、祈りとか、大きい意味とか。そういうのってだいたい“金になる口実”か“人を黙らせるための飾り”でしかないから」
彼女の口調は軽い。
軽いのに、言葉の端が少しだけ鈍かった。
「だから、わたしが信じるのは流れだけ。顔がどこ向いてるかとか、どこで金が動いたかとか、誰が黙ったかとか、どの店の明かりが急に消えたかとか。そういう情報は裏切らない。少なくとも神様よりは」
ラヴィは反論しなかった。
フィアは少しだけ笑う。
「でも今日みたいなの見ると、たまに嫌になる。流れを読めても、壊れるやつを止められるわけじゃないし。先に臭いを嗅ぎつけても、結局、目の前で死ぬ時は死ぬし」
その言葉に、レインの目つきが少しだけ変わる。
フィアは気づかないふりで続けた。
「わたし、別に正義の味方とかじゃないんだよ。助けられるなら助けるけど、無理なら逃げる。そういう線引きで今まで生きてきたし、それで間違ってるとも思ってない」
そこまで言って、一瞬だけ間を置く。
「……でも、最近ちょっと、その線引きが気持ち悪くなってきた」
誰もすぐには口を挟まなかった。
フィア自身も、今の言葉が口から出たことに少し驚いている顔をしていた。
ノエルが訊く。
「何が変わったの」
フィアは笑う。
「そういうの、普通いきなり聞く?」
「気になるから」
「そういうとこだよ、あんた」
だがフィアは、逃げなかった。
「たぶんね、好きにふるまってる奴が、増えすぎたんだよ」
その声音は、今までで一番平たかった。
「“ま、そういう街だし”と思うこともある。でも、さすがに嫌でも見えてくる。あ、これ偶然じゃないなって。誰かが、壊していい数を勝手に決めてるなって」
レインが低く言う。
「それで追ってたのか」
「うん」
フィアは頷く。
「別に立派な理由じゃないよ。ただ、わたしの縄張りで勝手に数字みたいに人を消されるの、腹立つなって思っただけ」
ラヴィが小さく笑った。
「十分立派ですよ」
「やめて。そういうの言われると急に安っぽくなる」
「心外です」
レインは壁に寄り直した。
「結局、全員似たようなもんかもな」
「何がです?」
ラヴィが聞く。
「腹立つから動くってとこ」
フィアが吹き出す。
「それ、だいぶ雑なまとめ方」
「でも間違ってねえだろ」
ラヴィは少し考えるように目を細めたあと、やがて静かに頷いた。
「……否定しきれませんね」
そのやり取りを聞いていたノエルが、ようやく顔を上げる。
灯りがその瞳に映って、小さく揺れた。
「じゃあ、レインは」
レインが顔をしかめる。
「何だよ」
「なんで動くの」
フィアが「それ聞く?」という顔をした。
ラヴィはむしろ少し興味深そうだった。
レインはしばらく黙っていた。
普段なら、そこで「知らねえ」とか「気分だ」とかで切り捨てるところだった。
だが今は、それをやるには部屋の空気が少しだけ静かすぎた。
やがて、彼は短く息を吐く。
「……正直、最初は面倒だから逃げたかった」
「知ってる」
ノエルが言う。
「言うな」
「でも、ちゃんと行った」
「たまたまだ」
「そういうのも、もういいんじゃないですか」
ラヴィが穏やかに言う。
レインは心底嫌そうな顔をした。
「お前が言うと余計言いたくなくなる」
「光栄ですね」
「だからそこだって」
フィアが肩を揺らす。
「で?」
レインは天井を見た。
「……昔から、見なかったことにして後悔する方が、動いて痛い目みるより嫌なんだよ」
その一言で、部屋の空気が少し変わる。
レインは視線を上げないまま続けた。
「助けられるかどうかは分からねえ。むしろ助けられねえ方が多い。そんなの分かってる。でも、ああいうガキとか、ああいう壊れ方したやつ見て、“俺には関係ない”って切ると、後でずっと残る」
彼はそこで、ようやく三人を見た。
「俺、そういうの向いてねえんだよ。きっぱり見捨てるとか、正しく割り切るとか。だから最初から、面倒ごとに近づかないようにしてた」
フィアが目を丸くする。
「へえ。ちゃんと自覚あったんだ」
「あるわ」
「ないタイプかと思ってた」
「何だと思われてたんだよ」
「勘だけで突っ込む野良犬」
「大体合ってるのが腹立つな」
少しだけ笑いが落ちる。
レインは続けた。
「でも今回、あのガキがかかわってたってのが、たぶんもう駄目だった。あのまま消えたら、たぶんずっと引っかかる。で、お前が狙われてるかもしれないって話まで出た」
ラヴィを見る。
「なら、もう引けねえだろ」
ラヴィは一瞬だけ目を伏せ、それからゆっくりとレインを見返した。
「……あなたは、不器用ですね」
「知ってる」
「しかも、かなり損なタイプです」
「知ってるって言ってんだろ」
「でも」
ラヴィはそこで少しだけ、ほんとうに少しだけ柔らかい顔をした。
「そういう人がいるから、まだ祈る気になるんですよ」
レインは露骨に顔をしかめた。
「やめろ。そういうのほんと駄目だ」
フィアが吹き出す。
「弱」
「うるせえ!」
ノエルだけが、静かな顔のまま言った。
「でも、わたしは好き」
部屋が止まる。
レインが固まる。
「……は?」
ノエルは水差しの縁を指先でなぞりながら、何でもないことみたいに続ける。
「そういうの。見なかったことにできない人」
フィアがにやっとする。
「へえー」
ラヴィも目を細める。
「なるほど」
レインは一気に顔をしかめた。
「お前ら今すぐその顔やめろ」
「どの顔です?」
「面白がってる顔だよ!」
フィアがけらけら笑う。
「いや、だって今のはちょっと」
「ちょっと何だよ」
「効くでしょ」
「効かねえよ!」
「効いてる」
ノエルが言う。
「うるさい!」
さっきまで死の匂いで張っていた部屋の空気が、ほんの少しだけ緩む。
その緩みは一瞬だけだったが、確かにそこにあった。
そして、その一瞬があったからこそ、次にレインが顔を引き締めた時、言葉がまっすぐ落ちた。
「……探すぞ」
誰も茶化さなかった。
レインは続ける。
「あのガキが全部の元凶かどうかはまだ分からねえ。でも関わってる。巻き込まれてるにせよ、利用されてるにせよ、このまま放っといたら次は確実に死ぬ」
ノエルが頷く。
「うん」
フィアが机から降りる。
「こっちも流れは追う。下町なら、あのくらいの年の子が一晩で完全に消えるのは逆に難しい。誰かは見てる」
ラヴィが立ち上がる。
「教会側の裏道は、わたしが当たります。ただし、正面からは行きません」
レインが頷く。
「それでいい」
ラヴィは少しだけ笑う。
「今の返事、ちょっと隊長みたいでしたよ」
「うるせえ」
フィアが鼻で笑う。
「じゃ、決まり」
ノエルも静かに立ち上がる。
「行く」
レインが死体に一度だけ目を落とす。
布の下で、運び屋の男はもう何も語らない。
だが、その沈黙が、逆に背中を押してくる。
「まず、あのガキ見つける」
レインが言った。
今度は誰も文句を言わなかった。
灯りの弱い部屋を出ていく四人の足音は、誰のものも揃っていなかった。
けれど、その不揃いさのまま、同じ方向へ向いている。




