EP2.祈りの先 第8話 灯のない礼拝所
灯りが少ないだけではない。
人の気配そのものが、隠れるために息を潜めている。王都は放射状に階層を形成していて、第三環や第四環なら、遅い時間にもまだ誰かが起きていて、物音ひとつに眉をひそめる。
だが第五環では違う。誰かがいると分かっても見ない。聞こえても、聞かなかったことにする。
その沈黙を、フィアは迷いなく縫っていった。
「こっち」
古い石壁の継ぎ目、崩れた木戸、干しっぱなしの布、半ば沈んだ階段。人なら躊躇うような裏路地を、フィアだけが地図でも見ているみたいに選んでいく。暗がりを選んでいるのに遅くない。走っているわけでもないのに、置いていかれそうになる。
「本当に合ってんだろうな」
レインが言うと、フィアは振り返りもせず鼻で笑った。
「何が」
「道」
「失礼だなあ。フィーを誰だと思ってるの」
「知らねえよ」
「知らないのに着いてきてるの? 勇気あるね」
「選択肢がねえんだよ」
フィアは肩越しに、ちらっとだけ笑った。
ノエルは黙って歩いていた。足音がほとんどないのはフィアと同じだったが、ノエルは最初からそういう存在みたいに静かだった。
「……また」
フィアが足を止める。
「なに」
「今、反応した」
「何が」
ノエルは帽子の影を見た。
「目」
一瞬だけ、空気が止まる。
レインには分からなかった。
だがフィアの肩が、ごく僅かに固くなったのは分かった。
「見間違いじゃない?」
「そうかも」
フィアはそれ以上何も言わず、前へ向き直った。
だがその歩幅は、さっきより少しだけ速い。
旧市場の東端。
そこに建っていた礼拝堂は、遠目には廃墟にしか見えなかった。
だが近づくと、ただ朽ちた建物ではないことが分かる。
正面の大扉は片方が外れ、もう片方は斜めに歪んで開いたまま。尖塔は途中で折れ、壁面を飾っていた聖像は首から上が砕けている。彩石の窓は半ば失われているが、残った破片が月明かりを拾って鈍く光る。そのせいで、割れた硝子の隙間から覗く堂内だけが、異様に奥行きを持って見えた。
広い。
思っていたよりずっと大きい。
長椅子が何列も並び、左右には回廊があり、二階部分には半壊した細い通路まで残っている。祭壇は崩れていたが、天井だけは高く、その分だけ暗がりも深い。
フィアが壁際にしゃがみ込み、指先で地面をなぞる。
「……中に気配はある」
「何人だ」
「動いてるのは、何人か。じっとしてるのが一つ。たぶん、奥」
「あのガキか」
「たぶん」
ラヴィが礼拝堂を見上げたまま、静かに言う。
「妙ですね」
「何が」
「使われている気配はあります。でも、祈りの気配は薄い」
「また分かりにくい言い方だな」
「礼拝堂らしくない、ということです」
フィアが鼻を鳴らす。
「祈る場所っていうより、隠す場所」
その言い方の方が、ずっとしっくりきた。
レインは少しだけ身を低くした。
「……入るぞ」
四人は壊れた扉を越え、礼拝堂の中へ足を踏み入れた。
石床には薄く砂埃が積もっていた。
だが、それは誰にも踏まれていない床の埃ではない。新しい靴跡が何本も走り、引きずったような跡もある。長椅子のいくつかは乱暴にずらされ、祭壇の前には黒ずんだ布と粗末な寝具、空になった器が積まれていた。
静かだった。
広い堂内に、四人分の足音だけが小さく響く。
妙に静かすぎる。
フィアが中ほどまで進んで、わざとらしく辺りを見回した。
「……ねえ。いるんでしょ」
返事はない。
フィアは肩をすくめる。
「隠れてるやつ、出てきなよ」
沈黙。
「出てこないなら、勝手に探すけど」
その時、右手の回廊の影から声がした。
「こんな夜更けに何の用だ?」
男の声だった。
荒っぽいが、必要以上に気負ってはいない。複数いる。
レインは視線だけをそちらへ向ける。
「子どもがきたろ」
笑い声が返る。
「知らねぇなあ」
別の位置。今度は二階の崩れた通路。
「子ども? ここは礼拝堂だぜ」
「こんな時間にな」
「祈りに来たのかよ」
堂内のあちこちから気配が浮く。
長椅子の間。回廊の柱の陰。二階通路。祭壇脇。
フィアがにやっとした。
「答える気、ないみたいね。…だったら」
帽子のつばを指先で少しだけ持ち上げる。
「力づくで吐かせてやる」
その瞬間、彼女の瞳に紋様が走った。
レインがそれをはっきり見たのは、たぶん初めてだった。
星図にも、花弁にも見える複雑な光が一瞬だけ浮かび、そのまま両手の間へ収束していく。
光の粒が集まり、輪郭を持つ。
弓になった。
木でも鉄でもない。
光が束ねられ、半透明の弧を描く。弦が張られた。
“矢”は、炎そのものだった。
細長く圧縮され、まっすぐ伸びた火の塊。先端ほど白く熱く、尾にいくほど赤が揺れる。矢ではなく、一本の灼熱をそのまま射出用に固めたみたいな、暴力的な光だった。
フィアが口元を吊り上げる。
「命は奪わないであげる」
弦を引く。
「……ま、運がよければだけど」
「いや!殺る気満々じゃねーか!」
レインの叫びと同時に、炎の矢が放たれた。
轟、と音がした。
堂内の空気を焼きながら一直線に飛び、右回廊の柱の陰へ突き刺さる。火が爆ぜ、悲鳴が上がる。相手は飛び退いたが、服の裾と杖の先がまとめて燃えた。
「避けたじゃん。えらいえらい」
「加減しろ、バカ」
そこから一気に、礼拝堂は乱戦になった。
二階通路から風刃。
祭壇脇から火球。
長椅子の影から石弾。
ごろつきだけではない。堂内に潜んでいた連中は、粗雑ではあるが魔法も使得るものが混じっているようだ。術者が数人、あとは武器と簡易強化を併用する半端者たちだ。
ラヴィが一歩前へ出る。
「閉ざせ 聖蓋」
白い光の幕が半円状に広がった。
飛んできた火球がその表面で歪み、勢いを削がれて弾ける。風刃も石弾も完全には止めきれないが、直撃の鋭さだけを確実に落としていく。
「前へ。防ぎます」
「助かる!」
レインは長椅子を蹴り越えて正面へ突っ込む。
横から振り下ろされた棍棒を身を捻って外し、そのまま腹へ拳を叩き込む。雷が走り、男が吹き飛んだ。続けざまに別の刃が迫る。だがそれは、ラヴィの光幕に逸らされてレインの肩を浅く掠めるだけで終わった。
その隙に、ラヴィ自身がモーニングスターを振るう。
鎖が唸り、先端の鉄塊が横薙ぎに円を描いた。
踏み込んできたごろつきの棍棒を、武器ごと弾き飛ばす。直撃は避けている。だが避けきれなかった衝撃だけで、男は肩口から床へ転がった。
「……おしいですね」
「怖ぇよ!お前も殺る気じゃねーか!」
一方、ノエルはいつものように静かだった。
ただ手をかざす。
堂内の温度が、ひとつ落ちる。
「咲け 氷柱」
次の瞬間、石床を割って氷杭が突き上がった。白い杭は術者の足元を正確に貫き、脚を床へ縫い留める。別の男の横を掠めた氷杭が、袖口と頬だけを裂いた。
悲鳴は上がる。
「…なんで?おれがまちがってんのか?」
なぜかノエルまで、好戦的だった。
フィアが二階通路へ飛び移りながら、上から叫ぶ。
「レイン、左!」
反射で横へ跳ぶ。
その瞬間までいた場所を、石弾が砕いた。
「あぶねぇ!」
「貸し一つね!」
その返しとほぼ同時に、フィアは二射目を放つ。
今度は一条ではない。
放たれた炎の矢が途中で裂け、三つの火の尾を引きながら弧を描く。二階通路に潜んでいた術者と、祭壇脇の男、それから長椅子の陰のごろつきの退路へ、それぞれ違う角度から落ちた。
爆ぜる火。
飛び散る石片。
悲鳴。
こんな場所で使ってよい規模と威力ではない。
「死ぬ死ぬ死ぬ!」
「死なないって。たぶん」
「たぶんをやめろ!」
礼拝堂の中は、もう一箇所の戦場ではなかった。
正面、左右回廊、二階通路、祭壇前、長椅子の列、その全部が同時に火花を散らしている。崩れた彩石窓から差す月明かりの中で、火球が飛び、風が切り、白い杭が床を裂き、光幕が弾け、炎の矢が通路を焼く。
その混戦の中で、フィアだけは上から全部を見ているみたいだった。
撃って、跳び、別の足場へ消える。
着地音がない。変幻自在、天衣無縫。
まるで何かと戯れているような。舞っているような。
乱戦にもかかわらず、レインは一瞬見とれてしまった。
その時だった。
礼拝堂の奥、崩れた祭壇の向こうに、小さな影が見えた。
痩せた子ども。
「あ……」
レインの動きがほんの僅かに止まる。
路地でラヴィに銅貨を握らされていた、あの少年だ。
ラヴィも気づいたらしい。
白い外套の裾を翻し、一歩だけ前へ出る。
「あなたを傷つけに来たわけではありません」
少年の肩が大きく揺れた。
「来るな」
掠れた声だった。
「終わらせないと……終わらせないと、父さんも母さんも……」
「誰にそう言われた」
レインが低く問う。
少年はレインを見ない。
ただ、ラヴィだけを見つめていた。
「先生が……約束したんだ」
「先生?」
ラヴィが繰り返す。
「言うことを聞けば、助けるって……だから、お前を――」
その言葉が、途中で切れた。
少年の身体がびくりと跳ねる。
まるで体の内側から、別の何かが引っ張ったみたいに。
「……っ、あ」
片手で頭を押さえる。
指先が震え、視線が揺れる。
同時に、堂内の様子が変わった。
床に倒れていたごろつきが、急に立ち上がる。
目の焦点が合っていない。それぞれ負傷を追っているにもかかわらず、痛みも感じていないような、いや、恐怖にゆがんだ表情で、隣の男へ刃物を突き立てる。
悲鳴。
二階通路では、火を消そうともせず、見えない何かを払うように喚く声。祭壇脇では、術者が仲間へ向けて火球を放つ。味方も敵も分からなくなったみたいに、空の何かに怯えて崩れ始める。
「……来るな」
少年がもう一度言う。
その声は、さっきより一層深く沈んでいた。
「やめろ……」
空気が、変わる。
次の瞬間、ラヴィの光幕が広がった。
「下がってください」
白い膜が四人の周囲へ薄く重なり、あの嫌な重さが少しだけ遠のく。
完全には防げない。だが、堂内で狂い始めた連中よりずっと軽い。
ノエルは少年を見ていた。
「苦しい」
その一言が、妙に静かに落ちた。
次の瞬間、礼拝堂の空気がさらに沈む。
見えない泥が、足元から這い上がってくるみたいだった。
胸の奥に直接、重さを押し込まれる。怒りとも恐怖ともつかない感情が、形もないまま喉元までせり上がってくる。
レインは思わず片膝をついた。
「……っ、くそ……!」
視界がぶれる。
目の前にいるはずの少年の輪郭が、時々ずれて見えた。ラヴィの白い外套が揺れるたび、胸の底に理由のない苛立ちが刺さる。自分の感情に似ているのに、自分のものじゃない。掴もうとすると、指の間からぬめって逃げる。
フィアも壁に手をついた。
「なに、これ……っ」
呼吸が浅く、肩がわずかに震えていた。
ラヴィも光幕を張ったまま、わずかに眉を寄せる。
それだけで、この干渉がどれだけ強いか分かった。
「……下がって、ください」
声はいつも通り穏やかなのに、少しだけ低い。
レインは歯を食いしばったまま顔を上げる。
その視界の先で、少年が頭を押さえていた。
「やめろ……やめろ、やめろ……っ」
泣いているような声だった。
けれど、泣いているのが少年自身なのか、それとも別の何かなのか、もう分からない。
周囲では、ごろつきたちが完全に狂い始めていた。
見えない敵に刃を振るい、味方同士で掴み合い、床に崩れて何かへ許しを乞うている。二階通路では、術者の一人が火のついた袖も気にせず、空に向かって呪文の続きを唱え続けていた。
その阿鼻叫喚の中で、不思議なくらいまっすぐ立っている影がひとつだけあった。
ノエルだ。
白い静けさだけが、彼女の周囲には残っていた。
精神を掻き回す濁流の中で、ノエルだけが、水底に沈んだ石みたいにぶれない。
レインが掠れた声を絞る。
「……ノエル」
ノエルは答えない。
ただ一歩、また一歩と、少年へ近づいていく。
狂った空気の中を、何にも触れられないみたいに静かに歩く。
フィアが息を呑む。
「なんで……動けるの」
ラヴィも、光幕を維持したままノエルを見ていた。
止めない。止められない、の方が近い。
ノエルは少年の前で足を止めた。
少年が顔を上げる。
その目は濁っている。焦点も合っていない。なのに、ノエルだけははっきり見えているみたいに、揺れた。
「……おまえ……」
ノエルは、ごく小さく首を傾げた。
「大丈夫」
その言葉が誰に向けられたものなのか、レインには分からなかった。
少年が震える。
指先が跳ねる。喉の奥から、子どもの泣き声と、低く粘つく別の声が重なって漏れた。
ノエルが、そっと手を伸ばす。
触れる直前、礼拝堂の灯りの残滓が一斉に揺れた。
「残影よ、失時の一片よ。開け、追憶――残遺共響」
少年を優しく抱擁する。
礼拝堂の空気が、ひどく静かになった。
火の粉が止まったように見える。
崩れた彩石窓の影が濃くなり、冷えた水が一気に流れ込んできたみたいに温度だけが落ちる。
フィアが息を呑む。
「……また、それ」
ノエルの目から、焦点が消える。
そしてその瞬間、レインの胸の奥で何かが軋んだ。
あの夜にも似ている。
けれど今度は、もっと近い。もっと濃い。
目の前で、ノエルが何かに沈んでいく。
そのはずなのに、落ちていく感覚は、自分の足元にも広がってきた。
見える。
いや、見せられる――




