EP2 祈りの先 第9話 祈りの先
見える。
いや、見せられる。
暗い部屋だった。
狭い。湿っている。息をするたび、石壁の冷たさが肺の奥へ入ってくる。
灯りは低い位置にひとつだけ。揺れている。誰かが泣いている。
母だ。
顔ははっきり見えない。けれど分かる。細い肩が震えて、声を殺しきれずに漏らしている。すぐ傍では父が膝をつき、何かに耐えるみたいに頭を垂れていた。
その前に、司祭服の男が立っている。
顔は見えない。
逆光のせいか、そこだけ黒く塗り潰されたみたいだった。
声は穏やかだった。
「落ち着いてください」
穏やかすぎて、余計に気味が悪い。
「協力していただければ、ご両親の安全は保証します」
喉の奥で、子どもの息が震える。
「いやだ」
自分の声だった。
「いやだ……!」
男は怒らない。
ただ少しだけ、首を傾げる。
「あなたが我慢すれば済む話です」
場面が切れる。
次に見えたのは、石の台だった。
冷たい。背中が凍るほど冷たい。
手首が動かない。足も、首も、胸も。
何かに押さえつけられている。
視界の端に、別の男がいた。
司祭ではない。
もっと乾いた人間だ。手だけが妙にきれいで、まるでこれから料理でもするみたいな落ち着きで、細い何かをこちらへ向けている。
装飾品にも見えた。
けれど、飾りではない。金属とも骨ともつかない、棘のある異物だ。
それが体に入ってくる。
焼ける、では足りない。
頭の中へ、爪をねじ込まれる。
骨の内側を逆さに撫でられる。
何かが入ってきて、自分の場所を勝手に広げていく。
やめて。
声にならない。
男が言う。
「これで使えますね」
やけに淡々とした声だった。
「ラヴィニエ・オーレアを捕らえなさい」
一拍。
「無理なら、始末しなさい」
また場面が飛ぶ。
路地。
血まみれの手。
足元に誰かが倒れている。
何をしたのか思い出せない。
自分でやったのかも分からない。
ただ、頭の中で声だけが増えていく。
行け。
やれ。
終わらせろ。
それで助かる。
父さんも母さんも。
ちがう。
子どもの意識だけが、必死にしがみついている。
助けたいだけだ。
無事でいてほしいだけだ。
まだ、一緒にいたい。
それだけしか残っていない。
それだけが、ひどく強い。
そこで、世界がひび割れた。
礼拝堂へ引き戻される。
火の匂い。石の粉。怒鳴り声。泣き声。狂った笑い声。全部が一度に押し寄せる。
ノエルが小さく息を呑んで、少年から手を離した。
一歩よろめいた身体を、ラヴィがすぐに支える。
「ノエル」
返事はすぐに出なかった。
代わりに、レインが壁へ手をついた。心臓がひどくうるさい。吐き気がする。まだ喉の奥に、あの子どもの声が残っていた。
「……っ、くそ」
フィアがこちらを見る。
「あんたも……?」
レインは答えられない。
答える前に、少年が顔を上げた。
その目に、もう人の焦点は残っていなかった。
「……ああ」
口が開く。
子どもの声と、低く濁った別の声が重なって漏れた。
「いやだ」
一歩、後ろへ下がる。
だがその足が止まる。膝が引き攣る。肩が跳ねる。
「終わって、ない」
堂内の空気が一気に沈んだ。
見えない圧が床からせり上がる。
長椅子の残骸が軋み、二階通路の石材に亀裂が走る。さっきまで錯乱していたごろつきたちが、今度はまとめて喉を押さえて崩れた。誰かは笑い、誰かは泣き、誰かは自分の顔を掻き毟っている。
ラヴィの光幕が軋んだ。
白い膜の表面に黒い染みみたいな揺らぎが走る。
「……このままでは、礼拝堂だけで済みません」
ラヴィの声は低い。
フィアが歯を食いしばる。
「広がる。これ、外まで行く」
ノエルは少年を見たまま、掠れた声で言った。
「もう、ほとんど、あの子じゃない」
その一言で、レインの中の何かが落ちた。
助ける。
連れ戻す。
そういう言葉を使える段階は、もう過ぎている。
少年の体はまだそこにある。
だが、その中身は、あの子が望んだものごと、何かに食い潰されている。
「……ノエル」
レインが呼ぶと、ノエルは振り向いた。
白い顔だった。
けれど、その目だけが妙に澄んでいる。
「受けて」
ノエルがそう言って、レインの胸へ手を当てた。
次の瞬間、流れ込んでくる。
痛い。
苦しい。
頭がおかしくなりそうだ。
それでも、まだ終わりたくない。
まだ一緒にいたい。
父さんと母さんが無事なら、それでよかった。
その願いが、まるで壊れた刃物みたいに、レインの中へ突き刺さった。
「――っ!」
膝が沈む。
視界が黒く欠ける。
だが今度は、前のように飲まれなかった。
風が唸る。雷が走る。
いつもの術式の輪郭に、別のものが混ざる。
明るくない。
鋭くもない。
重い。暗い。痛い。
雷は青白くならず、どす黒い紫を帯びた。
風は切り裂くためではなく、押し潰すために渦を巻く。
礼拝堂の床、壁、天井、その全部に棘のような線が一斉に走った。
レイン自身が息を呑む。
こんな術は知らない。
自分の中にあるはずのない形だ。
けれど、その形だけははっきり分かった。
棺。
檻。
閉じ込めて、潰して、逃がさない。
「……終わらせる」
声が、自分のものとは思えないほど低かった。
少年がこちらを見る。
いや、少年の形をした呪いが、だ。
レインが踏み込む。
その一歩と同時に、礼拝堂そのものが術式へ組み込まれた。
請え、贖え、闇の悔恨。血を誓いに、悲鳴を祈りに、肉を懺悔へ縫い留めよ。
顕現せよ、棘刑の聖棺―
壁が内側へ軋み、天井が沈む。
石床を突き破って棘のような黒紫の雷柱が立ち、左右から風圧が閉じていく。二階通路が砕け、祭壇がひしゃげ、長椅子の残骸がまとめて押し潰される。
巨大な拷問具が、建物全体を使って閉じるみたいだった。
―荊棺乙女
名前は、あとからしか分からなかった。
その時のレインには、ただそれがそういう形だとしか理解できない。
少年の体が、中心で止まる。
逃げない。
逃げられない。
黒い棘と重圧が四方から食い込み、呪いの形をした何かをその場へ縫いつける。
絶叫が上がった。
子どもの声と、別の何かの声が重なって、礼拝堂の崩れる音すら塗り潰す。
レインの腕が裂ける。
骨が軋む。
反動で肺の中の空気まで逆流しそうになる。
それでも術は止まらない。
止められない。
最後に、ひときわ大きな音がして、礼拝堂の中央部が完全に落ちた。
石と木と祈りの残骸が、まとめて潰れる。
沈黙。
レインはその場に膝をついた。
視界が揺れる。
腕の感覚が半分消えている。口の中が鉄臭い。
「……レイン!」
フィアの声が飛ぶ。
だが遠い。
崩れた瓦礫の中心に、まだ“何か”が残っていた。
少年の体だったもの。
だが、もう人間ではない。
黒ずんだ脈みたいなものが石の隙間に這い、まだ周囲へ伸びようとしている。
ノエルが小さく首を振った。
「だめ。まだ、いる」
レインは動けなかった。
立てないわけじゃない。
だが、自分が今なにを使ったのか、その感触がまだ腕の内側に刺さっていた。助けるための術ではなかった。何もかもまとめて押し潰すための、最悪の力だった。
その前へ、ラヴィが歩いた。
白い外套の裾が、崩れた石粉で汚れる。
モーニングスターの鎖が、小さく鳴る。
ラヴィはしばらく、瓦礫の中の“それ”を見ていた。
その顔に大きな感情はない。
けれど、レインには分かった。見慣れた無表情の奥で、もう結論は出ている。
「……この子の中に、届く場所はありません」
静かな声だった。
「還すことも、もうできない」
フィアが息を呑む。
ノエルは何も言わない。
ラヴィが、ほんの少しだけ目を伏せる。
「せめて、ここまでです」
祈りの言葉が短く落ちた。
白い光が、瓦礫の隙間へ差し込む。
派手ではなかった。
火も雷もない。
ただ、最後の灯を摘むみたいに、静かに、確実に。
その瞬間だけ、少年の顔が戻った。
苦しみに歪んだ子どもの顔だ。
瞳の濁りが、ほんの僅かにだけ薄れる。
唇が動く。
「……父さん」
一拍。
「母さん……」
それで終わった。
黒い脈動が止まる。
瓦礫の中の気配が、完全に沈んだ。
しばらく、誰も動かなかった。
崩れた礼拝堂の中には、火のはぜる音と、遠くでまだ狂いきれずに呻いている誰かの声だけが残っていた。
最初に口を開いたのはノエルだった。
「ことば、ある」
掠れた声だった。
レインが顔を上げる。
ノエルは瓦礫を見たまま言う。
「一緒にいたかった」
短い沈黙。
「父さんと母さんが、無事なら、それでよかった」
その言葉が落ちた瞬間、レインは奥歯を噛んだ。
言葉を持ち帰る。
それが自分の役割だと思っていた。
けれど今、その言葉を届ける相手がいるのかどうか、それすら分からない。
フィアが先に動いた。
「……奥、まだある」
崩れた祭壇の裏へ回り込み、半ば埋もれた床板を蹴る。下に空洞があった。搬入路か、隠し部屋か。いまはもうどちらでもよかった。
レインも立ち上がる。
腕が痛む。だが無視した。
地下は狭かった。
湿って、暗くて、空気が淀んでいる。
そこに二人、寄り添うように倒れていた。
説明はいらなかった。
傷の位置も、体の冷え方も、もう長くないどころではないことを示している。
いや、長くないですらない。とっくに終わっている。
レインは何も言えなかった。
ノエルも、ただ見ていた。
フィアが帽子のつばを押さえる。
いつもの軽口は出てこない。
ラヴィだけが、静かに二人へ布を掛けた。
「……届きませんね」
その言葉が、やけに重かった。
届ける相手は、もういない。
少年が最後まで縋っていた祈りも、
ノエルが拾った言葉も、
レインが持ち帰ったはずの思いも、
全部、宛先がなかった。
地下から戻ったあとも、しばらく誰も話さなかった。
やがて、ラヴィが崩れた礼拝堂を見回しながら言う。
「末端の思いつきでここまで整うとは思えません」
フィアが低く問う。
「上が絡んでる?」
「少なくとも、現場だけではありません」
ラヴィはそこで一度言葉を切った。
「教会の中でも、それなりに上の人間が関わっていると考えるべきでしょう」
レインが顔をしかめる。
「証拠はないぞ」
「ええ。ありません」
ラヴィは否定しなかった。
「ですが、勘はあります」
「またそれか」
「また、それです」
その声は穏やかだった。
けれど、いつものように軽くはなかった。
ノエルが、崩れた祭壇の方を見たまま言う。
「祈ってたのに」
誰が、とは言わなかった。
少年か。
両親か。
それとも、ここを使っていた誰かか。
答えはない。
フィアが小さく息を吐く。
「……最悪だな、この街」
その台詞は、たぶんレインのものだった。
けれど今夜だけは、誰が言っても同じに聞こえた。
祈りの先にあったのは、救いではなかった。
ただ、届かなかった願いと、終わった命と、崩れた礼拝堂の残骸だけだ。
それでもなお、どこかで誰かは祈っている。
何のために。
何を見て。
その答えだけが、まだ闇の中にあった。




