番外編1居場所の対価
番外編です。本編で描き切れない、キャラクターの温度感を描写させていただいています。
飛ばしていただいても本編には何ら影響ありません。
ちょっとだけ、キャラの解像度が上がります。
(愛着も上がればうれしいです)
朝の教会は早い。
早いというより、容赦がない。
鐘が鳴るより先に、冷たい石造りの空気が一日の開始を告げる。人の都合など知ったことではない、という顔で、礼拝堂の窓から白い光が差し込んでくる。
ノエルは毛布にくるまりながら、その光に薄く目を細めた。
起きたくない。
だが、ここで起きないという選択肢は、実質的に存在しない。
「ノエルさん、起きてください」
静かな声だった。
怒鳴りもしない。揺さぶりもしない。なのに逃げ道がない。
声だけで布団を剥がされたような気分になるのが、ラヴィの怖いところだった。
ノエルは毛布の隙間から片目だけ出す。
「……起きてる」
「目を開けているだけです」
「起きてる判定でいいと思う」
「だめです」
「教会、判定が厳しい」
「信仰は甘やかしではありませんので」
「寝起きには優しくしてほしい」
「しています」
「これで?」
「かなり」
ノエルは諦めて上体を起こした。髪は跳ね、目つきは眠気で死んでいる。
ラヴィはそれを見て、わずかに首を傾げる。
「では働いてください」
「急に現実」
「契約ですので」
「今日は体調が」
「顔色はいつも通りです」
「気分が」
「それもいつも通りですね」
「……わたしの不調、全部平常扱いされてる」
「安定しているのはよいことです」
…ひどい。
ノエルはそう思ったが、反論するだけ無駄だと思った。
眠い。
顔を洗い、髪を整え、半分ほど魂の抜けた状態で礼拝堂へ向かう。石床が朝の冷気をきっちり保持していて、足の裏からじわじわと現実を押しつけてくる。
礼拝堂の中央にはすでにラヴィが立っていた。
背筋はまっすぐ。外套の皺ひとつない。誰が見ても「ちゃんとしている人」だった。
それが少しだけ腹立たしい。
ノエルはその隣に立つ。
少しだけ斜めに。
「まっすぐ立ってください」
「眠い」
「姿勢と眠気は関係ありません」
「大いにある」
「ありません」
「この教会、精神論で押してくる」
「神の家ですので」
「…ちょっと意味がわからない」
ラヴィは否定しなかった。
朝の祈りが終わる。
静寂が引き、現実的な一日の気配が戻ってくると、ラヴィはすぐに仕事の顔になった。
「では、本日の業務ですが」
ノエルは先に聞いた。
「多い?」
「普通です」
最初は掃除だった。
長椅子を拭く。床を掃く。窓枠の埃を払う。祭壇脇の花瓶の水を替える。
ノエルは無言で働く。
やる気があるようにはまったく見えない。だが手は止まらない。適当そうでいて雑でもない。
少し離れた場所からラヴィがそれを見ている。
「雑ではありませんね」
「眠いけど」
「それは見れば分かります」
「でもやってる」
「ええ。そこは評価しています」
ノエルの手がぴたりと止まった。
振り返る。
「……評価された」
「はい」
「ちょっとうれしい」
「素直ですね」
そのとき、礼拝堂の扉が勢いよく開いた。
「すみません! ちょっと相談が!」
ノエルは目を閉じた。
この声量、この焦り、この入り方。
高確率で話が長い。
入ってきた男は案の定、落ち着きなく周囲を見回し、見つけた神職者――正確には神職者と居候――の方へ駆け寄ってきた。
「実は昨日から変な夢を見るんです! 黒い影みたいなのがこう、うわーって!」
「うわー」
ノエルが無感動に復唱すると、男はなぜか少し勢いを削がれた。
「それで、これは何かの啓示ではないかと!」
ラヴィが一歩前に出ようとする。
ノエルはその袖を軽く引いた。
嫌な予感がしたからだ。ここでラヴィを投入すると、話が三倍に膨らむ。
ノエルは男の前に立った。
「最近、寝てない?」
「え、あ、はい……少し仕事が立て込んでいて」
「食事は」
「不規則です」
「それです」
「……えっ」
「たぶん啓示じゃなくて、疲労」
男は瞬いた。
「でも、すごく不吉な感じで……」
「疲れてると、夢はだいたい演出過剰になる」
「演出……」
「影とか追いかけられるとか落ちるとか。ありがち」
男の顔から、じわじわと神秘性が抜けていく。
代わりに生活感が戻ってきた。
「……そう言われると、そうかもしれません」
「寝たほうがいい」
「はい……」
「あと湯」
「湯?」
「温かいの飲むとちょっとまし」
男は深くうなずき、来た時より明らかに人間らしい顔で帰っていった。
扉が閉まる。
ラヴィが静かに言った。
「見事でした」
「短くしただけ」
「いえ。本質まで削ぎ落としていました」
「ラヴィがやると長い」
「三倍になりますね」
「やっぱり」
「ただし、祈りと比喩と聖句的なものが添えられるので、満足度は高いですよ」
「でも長い」
「長いです」
二人は真顔でうなずき合った。
次の来客は、さらに面倒そうだった。
四十代くらいの女性で、開口一番、深刻そうに眉を寄せた。
「この前いただいた祈祷なんですけど」
「はい」
ラヴィが丁寧に応じる。
女性は息を吸い込んだ。
「全然、効かなかったんです」
ノエルは心の中で鐘を鳴らした。
長くなるやつだ。
…1人目と同様に適当に処理した。
ラヴィが後ろで、控えめに拍手した。
昼になった。
午前の雑務が一段落し、教会の裏庭に静けさが戻る。
古い石壁に囲まれたその場所は、表の厳粛さとは違って、少しだけ生活の気配があった。干しかけの布、使い込まれた桶、小さな薬草の鉢。
ノエルは石の縁に腰かけ、ぼんやり空を見上げる。
春先の陽射しは暖かいが、風はまだ少し冷たい。
しばらくして、隣にラヴィが来た。
「お疲れさまでした」
「疲れた」
「でしょうね」
「人の話を聞くのって、体力いる」
「ええ。しかも本題まで長い方が多いですから」
「みんな最初に結論言えばいいのに」
「人は、自分の混乱を整えるために長く話すのです」
「ラヴィも長い」
「私は整っているので別です」
「…屁理屈」
ラヴィは少しだけ笑った。
風が吹く。
ノエルは膝を抱え、ぽつりと呟く。
「でも、寝床あるからやる」
ラヴィはすぐには返さなかった。
その言葉を軽く扱わないための沈黙だった。
「無理はしなくていいですよ」
「してない」
「本当ですか」
「半分くらい」
「していますね」
「生きるの、だいたい半分くらい無理」
ラヴィはそれを否定しなかった。
教会の人間として正しくない返答かもしれないが、たぶん否定するには少し現実を知りすぎていた。
ノエルは空を見たまま言う。
「ここ、静かでいい」
「ええ」
「ちょっと寒いけど」
「それも教会です」
「…よくわからない」
少し間が空いてから、ノエルが聞いた。
「ラヴィ」
「はい」
「なんで、わたしを置いてくれるの」
風が止まる。
裏庭の静けさが、ほんの少しだけ深くなる。
ラヴィは視線を正面に向けたまま、穏やかな声で答えた。
「教会は、居場所をなくした人間を追い返さない場所であるべきだからです」
「誰でも?」
「基本的には」
即答だった。
迷いがない。
ノエルはそれを聞いて、少しだけ俯いた。
「じゃあ、仕事は?」
「対価です」
「やっぱりちゃんとしてる」
「そのほうが長く続きます。善意だけで抱えると、どこかで壊れますから」
「……なるほど」
「居場所を与える側も、与えられる側も、無理をしないための線引きです」
ノエルは小さく頷いた。
それはラヴィらしい答えだった。優しいのに、あくまで仕組みとして差し出してくる。情だけで近づかず、契約という形で相手の尊厳を守る。
ずるいくらい、ちゃんとしている。
しばらくして、ノエルが言った。
「でも」
「はい」
「ちょっと優しい」
ラヴィの睫毛が、かすかに揺れた。
「……そう見えますか」
「うん」
「困りましたね」
「なんで」
「評価が上がってしまいます」
「もう上がってる」
ラヴィは珍しく、言葉に詰まった。
ほんの一瞬だけだったが、それでも十分珍しい。
やがて彼女は小さく息をつき、いつもの調子を取り戻すように言う。
「では、明日から仕事を増やしましょうか」
「やめて」
「冗談です」
「今のは本気が混ざってた」
「半分くらいです」
「やっぱり」
ノエルは肩を落とし、それから少しだけ…微笑んだ。
ほんの少しだけ。けれど、朝よりはちゃんと生きている顔だった。
風がまた吹く。
教会の鐘が、午後の始まりを遠くで告げる。
ノエルは空を見上げたまま、誰に聞かせるでもなく言った。
「ここ、悪くない」
ラヴィは何も言わなかった。
ただ、その言葉を否定も訂正もせず、静かに受け取るように頷いた。
居場所とは、たぶんそういうものなのだろう。
大げさな救いではなく、
奇跡のような肯定でもなく、
寒くて、少し面倒で、仕事もあって、
それでも「悪くない」と思える場所。
その程度のものだからこそ、
なくした人間には、案外いちばん効くのかもしれなかった。




