EP6王都動乱編 第45話 アルデイン大聖堂にて
ノーティア教の祈りは、静かであるべきだ。
少なくとも、表向きはそういうことになっている。
アルデイン大神殿の会議室は、王都のどの市場よりも静かだった。磨かれた石床。高い天井。壁に刻まれた環の意匠。窓から差し込む朝の光は、白い卓の上で薄く伸びていた。
けれど、静かだからといって、穏やかとは限らない。
「で、実際のところどうなんですか」
聖務長官ティレナは、卓の上に一冊の帳簿を置いた。
音は小さかった。
だが、その場にいた聖職者たちは一斉にそちらを見た。
ティレナは四十を少し越えた女だった。背筋は伸び、髪は後ろでまとめられている。装飾は少ない。祈りの場に立つ者というより、現場の倉庫と施療院を歩き回ってきた者の目をしている。
「第五環東区、古市場通り周辺の配給記録です」
彼女は卓の端に座る記録官へ視線を向けた。
「ドナ」
「はい」
聖記録官ドナは、何の悪びれもなく頷いた。
彼女の前には、すでに三冊の記録帳が開かれている。
「では続けます。ここ十日で、配給を受けた人数が不自然に増えています。ですが、施療院への相談件数は減っている。礼拝所の巡回報告では、第五環東区の住民流入は確認されていません」
ティレナは帳簿を開いた。
「人が増えていないのに、配給数だけが増えている」
会議室の空気がわずかに動いた。
「それは、記入漏れではありませんか」
柔らかい声がした。
大司教ヴァルモンである。
白い法衣をまとった老人だった。顔立ちは穏やかで、声はよく通る。怒りというものを遠くに置いてきたような表情をしている。
「配給を担う者も人間です。忙しければ、数え間違いもあるでしょう」
「数え間違いなら、まだよいのです」
ティレナは答えた。
「ですが、こちらを見てください。配給を受けた者の名前です」
卓上に紙が並ぶ。
同じ名前が、何度もあった。
「重複ですか」
副大司教ルシウスが紙を手に取る。
彼は几帳面な男だった。紙の端を揃え、文字の傾きまで見ている。声も表情も硬い。
「名前だけでは判断できません。同名の可能性があります」
「そう言うと思いました」
ティレナは別の紙を出した。
「年齢、住所、家族構成。すべて同じです」
「……なるほど」
ルシウスの眉がわずかに寄る。
「一人の人物が、同じ機会に複数回配給を受けた記録になっている」
「その人物に確認は?」
「できていません」
「なぜ」
「所在不明です」
会議室が、今度ははっきりと静かになった。
ヴァルモンがゆっくりと息を吐く。
「所在不明、ですか」
「はい。少なくとも、記録上の住所にはいません」
「転居の可能性は」
「あります」
ティレナは頷いた。
「ですが、転居届はありません。施療記録も途切れています。配給記録だけは残っている」
ルシウスは紙を置いた。
「記録上だけ、人が残っているわけですね」
「そういうことです」
ドナが手を上げた。
「今の表現、記録してもよいですか?」
「構いません」
そのやり取りに、ヴァルモンが小さく笑った。
「ティレナ、あなたの懸念は分かります。しかし、第五環の記録は以前から不安定です。身元証明を持たない者も多い。記録と実態が一致しないのは、珍しいことではありません」
「珍しくはありません」
ティレナは即答した。
「ですが、今回は流れが整いすぎています」
「整いすぎている?」
「はい。雑な記録ではないのです。むしろ、誰かが丁寧に整えている。人数、配給量、施療記録、巡回報告。全部が、ぎりぎり矛盾しないように調整されている」
ルシウスの指が紙を叩いた。
「それは、厄介ですね」
「ルシウス副大司教」
「手続きに不備があるだけなら是正できます。しかし、手続きが正しく見えるように整えられているなら、それは不備ではなく意図です」
ルシウスは静かに言った。
「記録と手続きを守ることが、神への敬意です。記録を偽ることは、祈りの形を偽ることに等しい」
「では、調査を?」
ティレナが問う。
ヴァルモンはすぐには答えなかった。
その沈黙に、別の声が滑り込んだ。
「慎重であるべきでしょう」
枢機卿カナーンだった。
彼は卓の奥、窓から少し離れた席に座っていた。静かな男である。大きな声を出さない。身振りも少ない。だが、口を開くと、その場の視線が自然に向く。
「第五環は、いま不安定です。配給に依存している者たちの間で、記録の照合が行われているという話が広まれば、配給が止まるかもしれないという噂が立ちます。噂は事実を超えて広まる。不安になった民は、誰の言葉にも乗りやすくなります」
「不備ではない可能性があるから踏み込むのです」
ティレナが返す。
「その可能性はあります」
カナーンは頷いた。
「ですが、教会が民を疑っていると見られることも、また危険です。加えて、今は共和国使節団が王都入りした直後です。この時期に、王都の下層で何かが動いているという印象が外に出れば、外交の席でこの街の脆弱さを見せることになります」
「民を疑っているのではありません。記録の流れを疑っています」
「記録を作るのもまた、民に近い者たちです」
カナーンの声は穏やかだった。
あまりにも穏やかで、反論というより祈りの一節のように聞こえる。
「まずは、祈りと対話を」
ヴァルモンが頷く。
「それぞれに理があります」
ティレナは、わずかに目を閉じた。
この言葉が出る時、会議は大抵長くなる。
「では、現場確認だけでも許可を」
「誰を向かわせますか」
ルシウスが尋ねる。
「ラヴィニエを」
その名が出た瞬間、会議室の数人が微妙な顔をした。
ラヴィニエ。
ノーティア教改革派寄りの現場聖職者。
墓地、埋葬、施療補助、下層礼拝所の支援。
そして、派閥というものにまったく興味を示さない厄介な女。
「彼女は、穏便に調査できるでしょうか」
誰かが小さく言った。
「穏便に済むなら、私が行かせる必要はありません」
ティレナは平然と答えた。
「ラヴィニエは現場を見ます。紙面の記録ではなく、人の顔を見る。第五環の者たちも、彼女なら門前払いにはしないでしょう」
「彼女は、少々独断が過ぎます」
カナーンが言った。
非難ではない。
事実を確認するだけの声だった。
「ええ」
ティレナは認めた。
「だから必要です」
ルシウスは眼鏡を押し上げた。
「記録上、非公式調査として扱うなら、私から許可を出せます。教会連合としての正式調査ではありません。あくまで、配給・施療記録の照合です」
「それで構いません」
ティレナは即答した。
「ラヴィニエへの伝達は私が行います」
「それも記録しました」
「していないことを探す方が難しいですね」
「よく言われます」
ヴァルモンは困ったように笑った。
「では、まずは現場確認を。大ごとにはしないように」
ティレナは帳簿を閉じた。
その時、カナーンは静かに窓の外へ目を向けていた。
大神殿の外では、王都の鐘が鳴っている。
いつもと変わらぬ朝の鐘だった。
カナーンは小さく呟いた。
「神は、乱れを嫌いますから」
その声は、誰に向けられたものでもなかった。
◇
ラヴィニエは、大神殿の裏庭にいた。
王都の中央にある大神殿にも、裏側はある。
表の礼拝堂は白く、広く、祈りの声がよく響く。
だが裏庭には、洗濯紐が張られ、薬草を干す棚があり、古い桶がいくつも積まれている。見習いたちが走り回り、下働きの者が水を運び、誰かが鍋を焦がしているにおいがする。
祈りが、生活の上にある。
ラヴィは、その方が好きだった。
「ラヴィニエ様」
背後から声がした。
振り返らなくても、誰かは分かった。
アリアである。
淡い栗色の髪が目元にかかる、見習い修道女。
小柄で、いつも少し控えめに笑う。両手には、洗い終えた布の束を抱えていた。
「それは施療室の布ですか」
「はい。乾いたものを畳んできました」
「頼まれたのですか」
「いえ」
アリアは少しだけ誇らしげに言った。
「頼まれるまえに、務めを果たしています」
ラヴィは、しばらくアリアを見た。
アリアは真面目な顔をしている。
褒められたくてやっているのか、本当に必要だと思ってやっているのか、少し分かりにくい。
おそらく、両方だった。
「余計な仕事を増やしていませんか」
「増やしていません。ちゃんと自分の分は終わらせました」
「あなたは、私の周りにいることが多いですね」
「はい」
「なぜですか」
アリアは少し考えた。
「落ち着くので」
「私のそばが?」
「はい」
「それは、珍しい感性です」
「そうでしょうか」
「ええ。普通は、怖がります」
裏庭の端で薬草を選んでいた見習いの少年が、なぜか肩を跳ねさせた。
聞こえないふりをしている下働きの女も、少しだけ手を止めている。
アリアは不思議そうに首を傾げた。
「私は、怖くありません」
「それは、あなたが鈍いからでは?」
「違います」
「では?」
「ラヴィニエ様は、怒る時も相手のことを思っています」
アリアは、当たり前のことのように言った。
「だから、怖くありません」
ラヴィは返事をしなかった。
この少女は、時々ひどく単純な言葉で、こちらの調子を崩してくる。
「お姉さま」
「その呼び方は、あまり人前ではしないようにと言いました」
「人前ではありません」
「裏庭に三人います」
ラヴィが視線だけで示すと、見習いの少年が慌てて視線を逸らした。下働きの女は聞こえないふりをしている。薬草棚の陰にいる老人は、最初から聞いていない。
「聞こえていないようです」
「聞こえています」
ラヴィは目を細めた。
アリアは少しだけ笑った。
「もし外回りに行くなら、私も連れて行ってください」
「なぜ行きたがるのです」
アリアは布の束を抱え直した。
「ラヴィニエ様の荷物を持てます」
「荷物持ちが必要とは限りません」
「道具を並べられます」
「少しなら、ですね」
「あと、ちゃんと歩けます」
「それは最低条件です」
ラヴィがそう言うと、アリアは少し困ったように眉を寄せた。
「では……」
「では?」
「一緒に行きたいです」
言い訳を探すのを諦めたらしい。
アリアは、まっすぐラヴィを見た。
「理由は、それだけです」
ラヴィは、すぐには答えなかった。
その答えは、あまりに子どもっぽい。
けれど、嘘がない。
「外回りは遊びではありません」
「はい」
「危ない場所へ行くこともあります」
「はい」
「私の指示を聞けないなら、連れて行きません」
「聞きます」
「本当に?」
「はい」
「あなたは、時々勝手に動きます」
「……気をつけます」
その時、見習いの少年が走ってきた。
「ラヴィニエ様、ティレナ様がお呼びです」
「分かりました」
ラヴィは立ち上がった。
アリアも、反射のように一歩ついてこようとする。
「待ちなさい」
「はい」
「まだ同行を許可していません」
「はい」
「ここで待つ必要もありません」
「でも、待っています」
「なぜ」
「返事がまだなので」
ラヴィは目を閉じた。
この少女は、静かに頑固だ。
「……ティレナ様に確認してから決めます」
「はい」
アリアの顔が、少しだけ明るくなった。
ラヴィは小さく呟き、裏庭を後にした。
◇
ティレナの執務室は、大神殿の華やかな廊下から少し外れた場所にあった。
書類が多い。
机の上にも、棚にも、床に置かれた箱にも、どこかの礼拝所から届いた報告書が積まれている。
ラヴィが入ると、ティレナは顔を上げた。
「来ましたね」
「はい」
「第五環東区の配給記録に不整合があります」
ラヴィの表情が、そこでわずかに変わった。
「第五環ですか」
「ええ。古市場通り周辺です」
ティレナは数枚の紙を机に並べた。
「配給名簿上は人がいる。施療記録上は人が消えている。巡回報告上は異常なし。きれいに整いすぎています」
「誰かが整えている」
「そう見ています」
「教会内部ですか」
「断定はしません」
ティレナはそう言いながら、明らかに断定に近い目をしていた。
「あなたには、第五環東区の礼拝所と配給所を確認してもらいます。正式調査ではありません。配給・施療記録の照合です」
「同行者は」
「必要なら連れて行きなさい。ただし、大きく動かないこと。ヴァルモン猊下は、民を不安にさせたくないとお考えです」
「アリアを連れて行っても?」
ティレナの手が止まった。
「珍しいですね。あなたから同行を申し出るとは」
「本人が行きたがっています」
「どこへ?」
「知りません」
「つまり、あなたについて行きたいだけですか」
「そのようです」
ティレナは、少しだけ笑った。
「なつかれていますね」
「扱いに困っています」
「では、連れて行きなさい」
ラヴィは眉を寄せた。
「よいのですか」
「現場では、相手に警戒されない顔が必要です。あなた一人よりは警戒されないでしょう」
「……」
ティレナは咳払いをした。
「アリアは見習いですが、薬箱の扱いと簡単な記録はできます。第五環の礼拝所で、あなたの隣に立っていても不自然ではない。あなたが前に出すぎた時、場を和らげる役にもなるでしょう」
ティレナは一枚の名簿を差し出した。
「この名前を確認してください。同じ人物が複数回配給を受けた記録になっています」
ラヴィは名簿を受け取った。
そのいくつかに見覚えがあった。
「この名前」
「知っていますか」
「以前、白礫墓苑の埋葬手続きで見たことがあります」
ティレナの顔が変わった。
「死亡者ですか」
「いえ。身寄りのない者の保証人欄です。確か、第五環の共同家屋にいた女性です」
「今は?」
「分かりません」
「では、確認してください」
「はい」
ラヴィは名簿を閉じた。
「ティレナ様」
「何ですか」
「これは、配給の不正だけでは終わらない気がします」
「私もそう思います」
ティレナは椅子の背に体を預けた。
「だから、あなたに頼むのです」
「私は面倒事を呼ぶと評判ですが」
「知っています」
「では、なぜ」
「面倒事がもう来ているからです」
ラヴィは、少しだけ笑った。
「分かりました」
「それと」
ティレナは声を低くした。
「アリアの前で、憶測は口にしないこと」
「なぜですか」
「あの子は、聞いた言葉をそのまま信じることがあります。あるいは、自分なりにきれいに並べ替えてしまう」
「……分かりました」
ラヴィは少し考えた。
ティレナは書類に視線を戻した。
「アリアを頼みましたよ。あの子は見所があります」
ラヴィは、その言葉に小さくうなずいた。
◇
廊下の向こうで、アリアが待っていた。
布の束を抱えたまま、壁際に立っている。
姿勢はよい。だが、足元だけが少しそわそわしていた。
「待っていたのですか」
「はい。返事がまだだったので」
ラヴィは一瞬、言葉に詰まった。
「律儀ですね」
「褒めていますか」
「半分くらいは」
アリアは少しだけ笑った。
「ティレナ様は、何と?」
「同行を許可されました」
アリアの顔が明るくなった。
「本当ですか」
「ただし、条件があります」
「はい」
「勝手に動かないこと」
「はい」
「聞いたことを、別の誰かに話さないこと」
「はい」
ラヴィは目を閉じた。
アリアは嬉しそうに布の束を抱え直した。
「荷物、持ちます」
「それはあなたの荷物です」
「では、ラヴィニエ様の荷物も持ちます」
「重いですよ」
「大丈夫です」
「なぜ」
「一緒に行けるので」
あまりにもまっすぐな答えだった。
ラヴィは、ほんのわずかだけ息を吐いた。
「では、少しだけ」
「はい」
アリアは、ラヴィの持っていた布包みを受け取った。
少し重かったのか、腕が下がる。
「重いでしょう」
「…少しだけ重いです」
ラヴィは布包みを取り返した。
アリアは悔しそうにしたが、すぐに隣へ並んだ。
「どこへ行くのですか」
「第五環です」
アリアの表情が、少しだけ引き締まった。
「第五環」
「怖いですか」
「少し」
「なら、残っても構いません」
「行きます」
「なぜ」
「一緒に行くと決めたので」
ラヴィは、アリアを見た。
見習い修道女の顔には、不安のようなものがあった。
けれど、それよりも強く、ついて行きたいという意思があった。
「では、行きましょう」
「はい」
廊下の向こうから、大礼拝堂の祈りが聞こえる。
環を讃える穏やかな声。
王都の中心に響く、整った祈り。
ラヴィはその声を背に、大神殿の裏口へ向かった。
アリアは、その半歩後ろを歩く。
いつもより少し近い。
「ラヴィニエ様」
「何ですか」
「私、ちゃんとします」
「何をですか」
「分かりません」
「分からないなら言わない」
「はい」
アリアは少しだけ口を押さえた。
ラヴィはため息をついたが、叱りはしなかった。
大神殿の裏口が開く。
外には、王都の昼の音が広がっていた。
人の声。
荷車の音。
遠くの鐘。
そして、第五環へ向かう道。
ラヴィは歩き出した。
アリアも、迷わずその隣を歩いた。




