EP6 王都動乱編 第44話 消えた依頼
依頼には、順番がある。
緊急性。
危険度。
依頼料。
必要な等級。
そして、支部が抱えている人手。
王都冒険者協会支部に持ち込まれる依頼は、受付で記録され、内容を確認され、危険度を振り分けられたうえで掲示板に貼り出される。
もちろん、すべてが完璧に処理されるわけではない。
依頼人が酒に酔っていることもある。
依頼内容が「隣の家の猫が私を見ている」だったこともある。
魔物退治の依頼だと思ったら、ただの大きな犬だったこともある。
だが、それでも依頼は記録される。
少なくとも、受付印が押されないまま、未処理箱の底に沈んでいることはない。
「……妙ですね」
朝の支部が、まだ本格的に騒がしくなる前。
受付横の机で、エリスは一枚の依頼控えを見つめていた。
件名は、行方不明者捜索願。
依頼元は、第五環東区。
日付は三日前。
だが、受付印がない。
受付担当者名もない。
依頼番号も振られていない。
つまり、正式には受理されていない。
けれど、控えだけがここにある。
「ヴェネッサさん」
「はい」
呼ばれた受付係のヴェネッサが、背筋を伸ばして近づいてくる。
王都一の美人と噂される顔立ちをしているが、本人はその評価を一切信用していない。むしろ、依頼人に対してはいつも疑い深い。
「三日前の午後、第五環東区から行方不明者の捜索願はありましたか?」
ヴェネッサは一瞬だけ目を細めた。
記憶を探っている顔だった。
「いいえ。少なくとも、私が受付にいた時間帯にはありませんでした」
「本当に?」
「本当に依頼しますか、後悔しませんか、三回くらい考えましたか、と確認していない依頼は、私の受付ではありません」
「それは、そうですね」
エリスは小さく頷いた。
ヴェネッサの受付は、依頼人に人気がある。
ただし、依頼を受けさせる気があるのかどうかは、職員の誰にも分からない。
「午前は?」
「ミリオさんが掲示板と受付補助に入っていました。確認します」
「お願いします」
ヴェネッサはすぐに奥へ向かった。
エリスはもう一度、控えを見る。
文字は拙い。
だが、誰かが代筆したような整い方ではない。
慣れていない手で、必死に書いた文字だった。
――第五環東区。
――十三歳。
――男児。
――二日前より帰宅せず。
――最後に見た場所、古い市場通り付近。
依頼料の欄は空白だった。
その代わり、端に小さくこう書かれている。
「払えるだけ払います」
エリスは、しばらくその文字を見ていた。
「客観的に見て」
背後から声がした。
振り返らなくても、誰かは分かった。
依頼審査担当のドゥーブである。
「その依頼は、存在していません」
ドゥーブはエリスの横に立ち、依頼控えを覗き込んだ。
「紙はありますが」
「客観的に見て、そこが問題です」
ドゥーブは真顔で言った。
「受付番号なし。担当者名なし。危険度分類なし。掲示判断なし。審査履歴なし。客観的に見て、依頼としての処理工程を一つも通っていません」
「では、これは何ですか?」
「客観的に見て、依頼になれなかった紙です」
エリスは眼鏡の奥で目を細めた。
「誰かが止めた、ということでしょうか」
「客観的に見て、その可能性はあります。ただし、私の審査台には来ていません」
「断言できますか?」
「できます。私は通らなかった依頼も記録しています。失敗する依頼ほど記録価値があります」
それはそれでどうなのか、とエリスは思ったが、口には出さなかった。
そこへ、ヴェネッサがミリオを連れて戻ってきた。
ミリオは依頼票の束を抱えていた。昨日より、わずかにまっすぐ貼ることに成功したらしい。
「エリス副支部長」
「この依頼控えに、見覚えはありますか?」
エリスが紙を差し出す。
ミリオはそれを受け取り、数秒眺めた。
「……ありません」
「本当に?」
「はい。私が受けたなら、少なくとも依頼番号を振ります。番号がなければ、私が後で混乱します」
「そこは信用できますね」
「自分が困ることはしません」
胸を張るほどのことではないが、ミリオの言葉には説得力があった。
「掲示板にも貼っていません」
「覚えていますか?」
「当然です」
ミリオはきっぱりと言った。
「第五環東区の依頼なら、左下の区域別欄に貼ります。行方不明者捜索なら赤い縁紙を使います。子どもの失踪なら、目線の高さに貼ります。依頼料未定なら、右上に小札を重ねます」
「かなり細かいですね」
「整理整頓は信仰です」
「ノーティア教とは無関係ですよね?」
「私個人の信仰です」
エリスは一度だけ眼鏡を外し、目頭を押さえた。
ミリオはその動作を見て、半歩下がった。
「謝ります」
「まだ怒っていません」
「念のためです」
エリスは眼鏡を戻した。
「では、誰かが受付を通さず、審査も通さず、掲示もせず、控えだけを未処理箱へ入れた」
「依頼主が直接入れた可能性は?」
ヴェネッサが尋ねる。
「あります。ただ、未処理箱は受付内側にあります。依頼主が自由に触れる位置ではありません」
「内部の誰かが?」
ミリオの声が少しだけ低くなった。
エリスはすぐには答えなかった。
王都冒険者協会支部は、それなりの規模を誇る。
受付、掲示板、食堂、審査、倉庫、管理部門。出入りする人間も多い。
内部の誰か、と簡単に言えるほど狭い場所ではない。
だが。
「まだ、そう決めるには早いです」
エリスは依頼控えを机に置いた。
「ただ、放置することもできません」
「地図を出しますか」
静かな声がした。
地図・情報管理担当のウルズが、いつの間にか近くに立っていた。
足音がなかった。
ヴェネッサもミリオも、少しだけ驚いた顔をする。
「第五環東区、古い市場通り付近。井戸跡の隣。地図が必要でしょう」
「お願いします」
ウルズは穏やかに言った。
◇
「で、俺たちか」
レインは朝食の途中で呼び出され、露骨に嫌そうな顔をした。
目の前の皿には、チャバ特製の煮込みが半分ほど残っている。湯気もまだ立っていた。
「まだ食ってるんだけど」
「食べながら聞いてください」
エリスはそう言って、依頼控えをテーブルに置いた。
レイン、ノエル、フィアの三人がそれを覗き込む。
フィアの肩では、ミラが小さく回っていた。
「いなくなった子?」
ノエルが言った。
「そのようです。正式には受理されていません。ですが、控えだけが支部内に残っていました」
「誰かの悪戯?」
フィアが焼き菓子をかじりながら言う。
「その可能性もあります」
「でも、そうじゃなさそうな顔してる」
「ええ」
エリスは否定しなかった。
レインは依頼控えを手に取る。
拙い文字。
空白の依頼料欄。
払えるだけ払います、という一文。
「第五環東区か」
「はい。古い市場通り付近です」
「あそこ、あんまり治安良くねぇだろ」
「良くありません。だからこそ、正式依頼にしづらかった可能性もあります」
「どういう意味?」
ノエルが首を傾げる。
「依頼料を払えない。身分証明がない。依頼主が協会を信用していない。あるいは、依頼したことを誰かに知られたくない」
「面倒なやつだな」
レインは煮込みを一口食べ、眉を寄せた。
「でも、行方不明なら見に行った方がいいだろ」
「正式依頼ではありません」
エリスは静かに言った。
「ですので、今回は依頼ではなく、確認です。第五環東区へ行き、依頼主らしき人物がいるか、行方不明者が実在するかを見てきてください」
「依頼じゃないなら報酬は?」
フィアが聞く。
エリスは微笑んだ。
「支部内調査協力費として、最低限は出します」
「焼き菓子何個分?」
「十個分ほど」
「行く」
「おまえ、意外と安いな…」
レインが呆れると、フィアは真顔で返した。
「人は目的があると動ける」
「焼き菓子で人生語るな」
ノエルは依頼控えを見つめていた。
「十三歳」
「ん?」
「この子、十三歳」
「ああ」
「第五環なら、働いててもおかしくない」
ノエルの声は静かだった。
だが、どこかで引っかかっているようにも聞こえた。
「帰ってこないのは、困ると思う」
「……そうだな」
レインは皿の煮込みをかき込んだ。
「分かった。見てくる」
「お願いします」
エリスは一礼した。
「ただし、無理はしないでください。これはまだ、正式な事件ではありません」
レインが立ち上がる。
エリスは、その言葉に一瞬だけ目を伏せた。
「お願いします」
「地図は?」
「ウルズさんから借りています。ただし」
エリスは折りたたまれた地図を差し出した。
「書き込みは禁止です」
「しねぇよ」
「前科があります」
「……丸をつけただけだろ」
「ウルズさんは三日間、無言でその丸を見つめていました」
「怖ぇよ」
レインは地図を受け取った。
その瞬間、どこからともなくウルズの視線を感じた気がした。
「……」
「レイン?」
ノエルが見る。
「いや、何でもない」
レインは地図を懐にしまった。
◇
第五環へ向かうにつれ、王都の音は少しずつ変わっていく。
第三環の騒がしさは、商売の音だった。
品物を売る声。
客を呼ぶ声。
荷車の音。
誰かが急いでいる音。
第四環に入ると、それが少し荒くなる。
建物の壁は低く、補修の跡が目立つ。
路地は狭く、店先に並ぶ品も少なくなる。
笑い声はある。怒鳴り声もある。
だが、第三環のような余裕は薄い。
そして第五環に近づくと、王都はさらに別の顔を見せる。
石畳の隙間には雑草が生え、壁には消えかけた落書きがある。
古い看板は傾き、戸口には布を垂らしただけの家も多い。
子どもたちは裸足で走り、大人たちは知らない顔を見ると目を逸らすか、逆にじっと見る。
「相変わらず、分かりやすいな」
レインが呟く。
「何が?」
ノエルが尋ねた。
「王都の中なのに、別の街みたいだ」
「別の街だよ」
フィアが言う。
「そうかもな」
フィアは通りの端に視線を向けた。
小さなノーティア教の礼拝所があった。
第三環で見たものより古く、壁の白も少しくすんでいる。前には簡易の配給台が置かれ、何人かが列を作っていた。
配られているのは、黒パンと薄い豆の煮汁。
聖職者らしき男が、穏やかな声で一人一人に言葉をかけていた。
「最近、増えてるんだって」
「配給か?」
「うん」
フィアは目を細めた。
「第五環では、ありがたいと思う人が多い」
「悪いことじゃねぇだろ」
「悪いことじゃないよ」
レインは礼拝所を見た。
パンを受け取った老人が、深く頭を下げている。
聖職者は笑って、その肩に手を置いた。
善意に見えた。
少なくとも、その場だけを切り取れば。
「こっち」
フィアが歩き出した。
「場所、分かるのか?」
「古い市場通りなら、何度か来た」
「何しに?」
「いろいろ」
「聞かない方が良さそうだな」
「うん」
フィアは即答した。
◇
古い市場通りは、名前の通り、かつて市場だった場所だ。
今も露店はある。
ただし、第三環のように整ってはいない。
布の上に古道具を並べる者。
欠けた皿を売る者。
怪しげな薬草を積む者。
壊れた時計のようなものを、なぜか真剣に眺めている老人。
「探すのは、依頼主?」
ノエルが言う。
「まずは住所だな」
依頼控えの端には、簡単な住所が書かれている。
第五環東区、古市場裏、井戸跡の隣。
「井戸跡?」
「昔あった井戸。今は塞がってる」
フィアが案内する。
通りを外れ、さらに細い路地へ入る。
家と家の隙間を抜けると、小さな空き地に出た。
中央に、石で塞がれた丸い跡がある。
井戸跡だろう。
その隣に、低い家があった。
扉は古く、軋んでいる。
窓には布がかかっていた。
レインは扉を叩いた。
「冒険者協会の者だ。少し話を聞きたい」
中で物音がした。
だが、すぐには扉が開かなかった。
「……冒険者?」
細い声。
「ああ。行方不明者捜索願の件で来た」
沈黙。
それから、扉がわずかに開いた。
顔を出したのは、痩せた女だった。年齢はよく分からない。三十代にも、もっと上にも見える。目元に疲れが濃く、髪は後ろで雑に束ねられていた。
「本当に、協会の?」
「そうだ」
レインが認識票を見せる。
女はそれをじっと見て、ようやく扉を少し開いた。
「入ってください」
家の中は狭かった。
机、寝台、棚。
それだけでほとんど埋まっている。
壁には子どものものらしい上着がかけられていた。小さな木剣もある。使い込まれて、持ち手のところが黒ずんでいる。
「依頼を出したのは、あんたか?」
レインが尋ねる。
女は頷いた。
「はい。弟の子です。私が預かっていました」
「名前は?」
「トマ。十三です」
依頼控えと一致する。
「いつからいない?」
「五日前の夜から」
「依頼控えには二日前って」
「書いた時は、二日前でした」
女は俯いた。
「協会に行ったのは、三日前です。でも、正式に受けてもらえたか分からなくて」
「受付で誰に渡した?」
「受付までは……行っていません」
レインは眉を寄せた。
「どういうことだ?」
「支部の前まで行きました。でも、入れなくて」
「入れなかった?」
「人が多くて、怖くなって。依頼料も足りないし、身分証もないし、それで……」
女は手を握りしめた。
「外にいた男の人が、代わりに出しておくと言ってくれました」
レイン、ノエル、フィアの視線が交わる。
「男?」
「はい。白い服の……教会の人、だったと思います」
フィアの目が細くなる。
「顔は?」
「よく覚えていません。優しそうな人でした。『困っているなら、祈りは人を選びません』って」
レインは何も言わなかった。
ノエルが静かに尋ねる。
「その人に、依頼書を渡した?」
「はい。文字も直してくれました。私の字では読めないかもしれないからって」
依頼控えの文字は拙かった。
だが、ところどころだけ妙に整っていた。
レインは思い出す。
エリスの机の上にあったあの紙。
依頼料欄は空白。
端には、払えるだけ払います。
「トマは、最後にどこで見た?」
フィアが尋ねた。
「古い市場通りです。最近、配給所の手伝いをしていました。荷物を運ぶと、パンを余分にもらえるからって」
「ノーティア教の?」
「はい」
女は頷いた。
「いい人たちです。私たちみたいな者にも、名前を聞いてくれます。トマも、よく手伝いに行っていました」
「その配給所、どこ?」
「市場通りの奥です。古い礼拝所の前」
フィアは小さく頷いた。
「分かった」
「トマは……」
女の声が震えた。
「トマは、悪いことをしたんでしょうか」
「分からねぇ」
レインは正直に言った。
女の顔が強張る。
レインは続けた。
「だから、見に行く」
女はしばらく彼を見ていた。
そして、深く頭を下げた。
「お願いします」
◇
家を出ると、ノエルがぽつりと言った。
「依頼は、出てた」
「ああ」
「でも、届いてなかった」
「そういうことだな」
レインは古い市場通りの奥を見た。
そこには、古い礼拝所の屋根が見えている。
白いはずの壁は、煤けた灰色になっていた。
それでも入口には、ノーティア教の環を象った飾りが掲げられている。
「フィア」
「うん」
「その白い服の男、分かるか?」
「まだ」
フィアは短く答えた。
「でも、調べる」
「頼む」
「ただし、焼き菓子10個分じゃ足りない」
「副支部長に言ってくれ」
「言う」
ミラが肩の上でくるりと回った。
「たりない。たりない」
「お前、だんだんフィアに似てきたな」
「よいこと」
「よくねぇ」
いつもの会話だった。
けれど、レインの中の何かは、もう朝とは少し違っていた。
王都はうるさい。
人が生きている音がする。
だが、その音の中には、不穏な音も混ざっている。
レインは、古い礼拝所へ向かって歩き出した。
◇
その少し後。
王都冒険者支部の受付で、エリスは同じ未処理箱をもう一度調べていた。
一枚だけだと思っていた。
だが、違った。
底板と側板の隙間に、薄く折られた紙がもう二枚挟まっていた。
どちらも第五環東区。
一枚は、老人の失踪。
もう一枚は、荷運びの少年の不帰還。
どちらも受付印はなかった。
「客観的に見て」
ドゥーブが横から紙を覗いた。
エリスは何も言わなかった。
「これは、偶然ではありません」
「……そうですね」
エリスは三枚の紙を並べた。
行方不明者捜索願。
老人の失踪。
荷運びの少年の不帰還。
すべて第五環東区。
すべて受付印なし。
すべて、支部の中にはあった。
だが、依頼としては存在していなかった。
エリスは眼鏡を外した。
ヴェネッサが背筋を伸ばす。
ミリオが依頼票を抱え直す。
ドゥーブが無言で一歩下がる。
「確認しました」
エリスが言った。
その場にいた職員全員が、ほぼ同時に姿勢を正した。
窓の外では、王都の昼が騒がしく続いている。
まだ誰も、これを事件とは呼んでいなかった。




