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EP6 王都動乱編 幕間 無為の極

王都アルデインから北へ五日ほど。

 エラン高地へ向かう街道の途中に、灰色の岩山がある。

 旅人たちはそこを、灰角の尾根と呼んでいた。

 理由は単純だ。

 岩肌が灰色で、尖った尾根が獣の角のように見えるから。

 だが、その日だけは違った。

 山そのものが、吼えていた。

 岩が砕ける。

 木々が薙ぎ倒される。

 土煙が斜面を覆う。

 逃げ遅れた鳥が空へ散り、谷底では小さな獣たちが一斉に姿を消していた。尾根の周囲には、地方ギルドが慌てて張った退避線がある。そこより内側へ入るなと、何度も何度も叫ばれていた。

 その中心で、巨大な影が暴れていた。

 竜に似ている。

 だが、竜ではない。

 翼は退化し、代わりに前脚が異様に太い。首は短く、頭部には湾曲した灰色の角が二本生えている。全身は岩のような鱗で覆われ、吐く息には熱と毒が混じっていた。

 灰角竜グラウ・ドレイク

 記録上は、大型魔獣。

 ただし、単独討伐の対象ではない。

 本来なら、A級冒険者を中心に複数の隊を組み、支援術師、治療役、斥候、退避誘導班まで揃えて挑む相手だった。街道支部ひとつで処理できる依頼ではない。周辺支部へ応援要請を出し、被害範囲を区切り、何日もかけて追い込むべき災害級の魔獣である。

 その魔獣が、今。

 一人の女に、殴られていた。

「暑い」

 赤い髪の女が、そう言った。

 褐色の肌。

 乱れた外套。

 片手には、空になった酒瓶。

 エカ=ジアー。

 王都冒険者協会中央本部所属、S級冒険者。

 異名は、《無為の極》。

 グラウ・ドレイクが吼えた。

 熱を孕んだ毒息が、尾根の斜面を焼く。岩肌が黒ずみ、枯れ木が炭になり、空気そのものが歪む。退避線の外にいた監視員たちでさえ、喉の奥に鉄の味を覚えた。

 エカは避けなかった。

 ただ、酒瓶を腰に下げ、面倒くさそうに前へ歩いた。

 毒息が彼女を呑む。

 熱が肌を舐める。

 毒が肺を焼こうとする。

 瘴気が肉体の内側へ入り込もうとする。

 だが、入れない。

 エカの体内で渦巻く魔素が、外から流れ込むものを押し返す。術式も毒も熱も、彼女の肉体に触れた瞬間、浅い水に落ちた火種のように勢いを失っていく。

「だから、暑いって」

 エカは右手を振った。

 その仕草は、火の粉を払う程度のものだった。

 だが、毒息の流れが割れた。

 その奥から、グラウ・ドレイクの頭部が迫る。

 巨大な顎。

 岩を噛み砕く牙。

 首を振るだけで、人間などまとめて吹き飛ばす質量。

 エカは拳を握った。

 そして、殴った。

 音は、遅れて来た。

 拳が角の根元にめり込み、竜型魔獣の頭部が横へ跳ねる。巨体が斜面を削り、岩を砕き、木々を巻き込んで転がった。

 尾根が揺れた。

 離れた場所で見ていた討伐依頼の監視員が、声も出せずに口を開けている。

「……今ので、終わったか?」

 近くにいた地方ギルドの職員が、震える声で言った。

 監視員は首を横に振った。

「いや、あれはまだ――」

 グラウ・ドレイクが立ち上がる。

 片方の角がひび割れていた。

 だが、目は死んでいない。

 むしろ、怒っていた。

 魔獣は低く唸り、太い前脚を地面に叩きつけた。

 斜面に亀裂が走る。

 岩盤が跳ね上がる。

 無数の石片が、矢のようにエカへ飛ぶ。

 その一つ一つが、人間の胴を貫き、鎧ごと骨を砕きかねない威力を持っていた。A級冒険者の盾役でさえ、まともに受ければ押し潰される。支援術師が防壁を重ねて、ようやく凌ぐ類の攻撃だった。

 エカは、避けなかった。

 石片が肩に当たる。

 腕に当たる。

 頬をかすめる。

 血は出た。

 だが、それだけだった。

 傷口が開いたそばから、肉が盛り上がり、閉じていく。外から見れば再生。本人にとっては、ただ体が勝手に戻っているだけ。

「お」

 エカは少しだけ目を細めた。

「今の、ちょっと痛い」

 グラウ・ドレイクが再び吼える。

 今度は正面から突っ込んできた。

 地響きが起こる。

 斜面の岩が崩れ、尾根の端から土砂が落ちる。

 あの突進をまともに受ければ、人間どころか小屋ごと潰れる。退避線の外にいた職員たちが、反射的に後ずさった。

 エカは、まだ動かない。

 グラウ・ドレイクの角が迫る。

 湾曲した灰色の角。

 岩山の名の由来そのもの。

 それが、エカの胴を貫こうとした瞬間。

 彼女は、角を掴んだ。

 両足が岩盤に沈む。

 衝撃が尾根を走り、エカの背後の地面が蜘蛛の巣状に割れた。

 だが、彼女は倒れなかった。

 グラウ・ドレイクの突進が、止まっていた。

「……重いな」

 エカは、少しだけ感心したように言った。

 魔獣が首を振る。

 エカの体が浮きかける。

 普通なら、そのまま投げ飛ばされ、岩壁へ叩きつけられて終わる。

 だが、彼女は手を離さなかった。

 逆に、引いた。

 たった一歩。

 その一歩で、グラウ・ドレイクの巨体が前へ崩れた。

 エカは角を掴んだまま、体を半回転させる。

 投げた。

 ありえない光景だった。

 馬車何十台分にも相当する巨体が、尾根の斜面を横切って宙に浮いた。灰色の影が空を覆い、次の瞬間、岩盤へ叩きつけられる。

 山が割れた。

 衝撃で岩が跳ね、土煙が壁のように広がる。

 監視員たちは伏せた。

 耳を塞いだ者もいた。

 だが、グラウ・ドレイクはまだ動いた。

 砕けた岩盤の中から尾が跳ねる。

 岩柱そのものが横薙ぎに振るわれたような一撃だった。

 エカの脇腹に直撃する。

 鈍い音がした。

 彼女の体が斜面を滑り、岩壁に叩きつけられる。

 岩壁が砕けた。

「エカ様!」

 地方ギルドの職員が叫ぶ。

 土煙の向こうで、赤い髪が揺れた。

 エカは立っていた。

 外套は裂け、脇腹から血が流れている。骨がいくつか折れているようにも見えた。

 だが、次の瞬間には、血の流れが止まっていた。

 エカは自分の脇腹を見下ろし、指で押した。

「今のは、少し効いた」

 グラウ・ドレイクが、再び立ち上がる。

 片角は割れ、鱗は剥がれ、前脚の一部が不自然に曲がっている。だが、その目はまだ燃えていた。

 エカは笑った。

 ほんの少しだけ。

「なかなかに楽しめた」

 次の瞬間、彼女は地面を蹴った。

 速い、というより、消えたように見えた。

 斜面の岩が踏み砕かれ、土が爆ぜる。エカはグラウ・ドレイクの懐に入り、太い前脚を片手で掴んだ。

 そのまま、持ち上げる。

 巨体が浮いた。

 グラウ・ドレイクが暴れる。

 尾が岩を砕き、残った角が空を切る。

 だが、エカの腕は動かない。

「もう一回」

 彼女は、地面へ叩きつけた。

 一度目より深く。

 尾根の斜面が陥没し、岩盤に大きな亀裂が走る。

 グラウ・ドレイクの腹が上を向いた。

 エカは、すでに跳んでいた。

 空中で拳を握る。

 複雑な術式はない。

 詠唱もない。

 武器もない。

 ただ、肉体。

 ただ、拳。

 それだけが、災害級の魔獣の腹へ落ちた。

 衝撃が爆ぜた。

 グラウ・ドレイクの巨体が岩盤へ沈む。斜面の下で、退避線の杭が何本も倒れた。

 今度こそ、魔獣は動かなかった。

 巨体は岩盤に半ば埋まり、口から熱い息だけを漏らしている。片方の角は根元から折れかけていた。

 エカはその頭部に近づいた。

 地面に落ちていた酒瓶を拾う。

 振る。

 中身はない。

「空か」

 それから、折れかけた角を見た。

「証拠、これでいいか」

 監視員が慌てて叫ぶ。

「え、ええ! 角なら十分です! ただ、それはかなり硬いので、専門の解体班を――」

 言い終わる前に、エカは角を掴んだ。

 ひねる。

 岩が裂けるような音がした。

 角が折れた。

 グラウ・ドレイクの頭が、わずかに揺れる。

 エカは折り取った角を肩に担いだ。

 人間の身長ほどもある灰色の角だった。

 普通なら二人がかりでも持ち上がらない。

 エカはそれを、薪でも担ぐように持っている。

「王都、帰る」

 地方ギルドの職員が、ようやく我に返った。

「お、お待ちください! 討伐記録と現地確認を――」

「確認しただろ」

「しましたが、報告書が」

「書いといて」

「署名が必要です!」

 エカは面倒そうに振り返った。

「代筆」

「本人確認が」

「今、本人」

「そういう意味ではなく」

 エカは角を担いだまま、少し考えた。

 そして、地面に落ちていた酒瓶の栓を拾い、職員に投げた。

「それで」

「何の証明にもなりません!」

「じゃあ、角」

「それは討伐証明です!」

「便利だな」

 エカは納得したように頷いた。

 その時、別の職員が息を切らして走ってきた。

「エカ様! 王都中央本部から伝令です!」

「ん」

「共和国使節団の王都入りに伴い、S級冒険者への王都内待機要請が出ています。可能な限り早く帰還せよ、とのことです」

「待機」

 エカは嫌そうな顔をした。

「暑いから嫌だ」

「命令です」

「王都、暑い」

「王都はまだ春です」

「そういう暑さじゃない」

 職員たちは顔を見合わせた。

 エカは北の空ではなく、南の空を見た。

 王都アルデインがある方角。

 そこに何が見えるわけでもない。

 まだ遠い。

 街道を使っても数日はかかる。

 だが、エカはしばらくその方角を眺めていた。

「……まあ、酒も切れたしな」

 彼女は角を担ぎ直した。

「帰るか」

 それだけ言って、歩き出す。

 地方ギルドの職員が慌てて追いかけた。

「馬車を用意します!」

「いらない」

「その角を運ぶには必要です!」

「持てる」

「あなたは持てるでしょうが、道中で人が驚きます!」

「慣れる」

「慣れません!」

 エカは聞いていなかった。

 灰角竜の角を肩に担ぎ、酒瓶を腰で鳴らしながら、街道へ向かって歩いていく。

 背後には、崩れた尾根と、動かなくなった巨大な魔獣。

 その光景を見て、監視員の一人がぽつりと呟いた。

「……あれ、本当に人間か?」

 誰も答えなかった。

 ただ、地方ギルドの老職員だけが、疲れた顔で首を振った。

「私に聞かないでください……」

 そして、少し間を置いて付け加えた。

「たぶん」

 エカは振り返らなかった。

 王都へ向かう道の先で、風が吹いている。

 彼女は空を見上げ、ぼそりと呟いた。

「王都、うるさそうだな」

 それは不満のようでもあり、少しだけ楽しみにしているようでもあった。

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