EP6王都 第43話 王都の朝は少し騒がしい
王都アルデインの朝は、うるさい。
とりわけ第三環の朝は、うるさい。
荷車の車輪が石畳を叩き、焼きたてのパンを売る店主が声を張り上げ、路地の奥では誰かが洗濯桶をひっくり返して怒鳴られている。鍛冶屋の槌音、馬の嘶き、子どもの笑い声、商人の値切り声。そこに、王都アルデイン冒険者協会支部の扉が開く音が混ざる。
いつもの朝だった。
少なくとも、レインにはそう見えた。
「……あいかわらず、にぎやかな街だな」
支部の前に立ち、レインはぼそりと呟いた。
夜の公国ヴェスペラ。
黄昏の森。
試練。
ユーフェミア。
アルヴァロス。
そして、森喰い。
あの濃すぎる夜の空気を抜けてきた身からすると、王都の朝は眩しすぎるほどだった。
洗練されてはいない。
静かでもない。
神秘もない。
けれど、人が生きている音がする。
「レイン、入口で止まると邪魔」
背後からフィアの声がした。
振り返ると、フィアが片手に紙袋を抱えていた。中からは焼き菓子の匂いがしている。もう片方の肩のあたりでは、光の粒のような小さな存在――ミラが、ふわふわと上下していた。
「じゃま。じゃま」
「お前まで言うな」
「ミラは正しい」
「お前も言うな」
レインが眉を寄せると、フィアは紙袋から小さな焼き菓子を一つ取り出し、口に放り込んだ。
「王都、相変わらずうるさいね」
「まあな」
「でも、ヴェスペラよりはおちつくわー」
「それはそうだろ」
レインは苦笑した。
ヴェスペラや黄昏の森は、最後までよくわからない場所だった。まっすぐ歩いているはずなのに戻ってきたり、気配を追えば余計に迷ったり、視界の端に見えた小動物が鳥なのか鹿なのか最後まで分からなかったりした。
王都の道は、少なくとも街として機能している。
たまに酔っ払いが寝ていて通れない程度だ。
「ノエルは?」
「先に入った。エリス副支部長に報告書を出すって」
「あいつ、報告書とか書けるのか?」
「書けるよ。字はきれい」
「いや、そうじゃなくて」
レインがそう言いかけたところで、支部の扉が勢いよく開いた。
「レインさん! フィアさん! 戻っているなら早く中へ!」
受付係のヴェネッサだった。
いつものように整った顔をしている。いつものように声も通る。いつものように、表情だけは穏やかだが目がまったく笑っていない。
「おう」
「今朝から依頼が溜まっています。グラッド支部長が『ふむ』と言っていました」
「それだけで呼び出し確定なのかよ」
「エリスさんが『たぶん人手が足りないという意味です』と翻訳していました」
「なんでわかるんだ、あの人」
「支部長の言語を解読できる唯一の人材です」
ヴェネッサは大真面目に言った。
レインは肩をすくめ、支部の中へ入った。
支部の中も、やはりうるさかった。
依頼掲示板の前では冒険者たちが紙を奪い合うように見比べている。食堂の方からはチャバの怒鳴り声が聞こえた。
「朝飯だけ食って依頼受けないやつは、皿を二枚洗っていけ! ギルドは飯屋じゃねぇ!」
「でもチャバさんの飯がうまいから……」
「褒めても一枚しか減らねぇぞ!」
奥ではミリオが背伸びをしながら依頼票を張り替えていた。貼ったばかりの紙が斜めになり、本人がそれを眺めて固まる。
「……斜めですね」
ミリオは自分で呟き、そっと剥がして貼り直した。
また斜めだった。
「ミリオさん」
「はい」
「それ、さっきより悪化してる」
「知っています」
フィアの指摘に、ミリオは真顔で答えた。
「知ってて貼るなよ」
レインが言うと、ミリオは依頼票を持ったままこちらを振り向いた。
「完璧を求めると仕事が終わりません、忙しい現代においてゆとりは心の安寧につながるのです」
「いいこと言った風にするな」
そんなやり取りをしていると、支部の奥からノエルが出てきた。
手には薄い書類の束を持っている。表情はいつも通り静かだが、どこか眠たげでもあった。
「報告、終わった」
「早いな」
「ほとんどエリスが書いた」
「お前は何したんだ」
「頷いた」
「それは報告とは言わねぇ」
ノエルは少しだけ首を傾げた。
「でも、エリスは『助かります』って言ってた」
「それはたぶん、邪魔しなかったことへの感謝だ」
フィアが言うと、ノエルは納得したように頷いた。
「なら、役に立った」
「前向きだな」
レインは呆れたが、悪い気はしなかった。
ノエルの声は、ヴェスペラへ行く前と同じようで、少し違っていた。
大きくなったわけではない。明るくなったわけでもない。
けれど、どこか芯がある。
「三人とも」
その時、二階からエリスが降りてきた。
薄い書類を胸に抱え、いつもの穏やかな表情をしている。ただし眼鏡の奥、目元には、少し疲れが見えた。
「長旅明けで申し訳ありませんが、軽い依頼をお願いできますか?」
「軽い?」
レインは警戒した。
冒険者協会で言う「軽い」は、あまり信用できない。
以前、「軽い護衛」と言われて行った先で、馬車が三回も襲われたことがある。何を積んでいたのかは聴かなかった。
「軽い魔物退治」と言われて行った先で、魔物より依頼主の親戚喧嘩の方が面倒だったこともある。
「本当に軽いです」
「本当に?」
「ええ。菓子職人ギルドからの依頼です。菓子作りの原料になるククリコの実の採取依頼です」
「……ククリコの実?」
「はい。聖祈祭定番の菓子に使うのですが、最近供給が滞っているようで」
「それ、軽いか?」
「危険度が低いという意味では。まぁ、重労働ではありますね」
「…」
「おいしいですよ」
フィアが紙袋を抱えたまま、一歩前に出た。
「受けよう!」
「お前の依頼じゃねぇよ」
「おいしいお菓子は正義なのよ」
「よくわからん理論なんだが」
「そんなこともわからないなんて、所詮はレインよね」
「…」
エリスは小さく笑った。
「依頼料は高くありませんが、菓子職人ギルドは支部の食堂にも卸してくださっています。チャバさんからも、手伝ってやれ、と」
こうして、ヴェスペラ帰りの最初の依頼は、冒険でも、魔物退治でも事件でも、なく。
果物採取だった。
◇
ククリコの木は、第三環外れの共同果樹園にあった。
実は赤く、小さく、甘い匂いがする。だが枝がやたら高い。
レインが木に登り、ノエルが下で籠を持ち、フィアが落ちた実のうち形の良いものだけを選別する。
ミラは「これ、あまい?」と何度も聞き、フィアに「納品用」と止められる。
レインは枝から落ちかけ、ノエルが無言で受け止めようとして、二人とも実の山に埋まる。
◇
その帰り道、三人は第三環の通りを歩いた。
夕方の王都は、さらに騒がしくなっていた。
商人が荷を運び、子どもが走り、どこかの家から叱り声が聞こえる。
通りの向こうでは、ノーティア教の小さな礼拝所の前に人だかりができていた。
白い簡素な衣をまとった聖職者が、配給の籠を並べている。
パンと薄いスープ。
それほど立派なものではないが、受け取る者たちは深く頭を下げていた。
「配給?」
レインが足を止める。
「第三環でもやってるんだ」
フィアが言った。
「第五環だけじゃないのか?」
「最近、増えてるみたい。王都、物価上がってるから」
「ふうん」
レインは少しだけ礼拝所の方を見た。
列に並ぶ老人。
子どもを抱いた女。
仕事着のままの男。
王都は豊かだ。
少なくとも、外から見ればそう見える。
だが、豊かな街にも腹を空かせた人間はいる。
それは当たり前のことなのに、レインは普段あまり見ていなかった。
「レイン?」
ノエルが呼ぶ。
「いや、何でもない」
三人は支部へ戻った。
◇
支部に戻ると、エリスが受付横の机で書類を整理していた。
レインが依頼完了の札を置く。
「終わったぞ」
「ご苦労様でした。首尾は?」
「荷車に数台分。上々だろ」
エリスは微笑み、完了印を押した。
「これで午前の小依頼は一つ片付きました。あとはゆっくり休んでください。長旅明けまもないですから」
「珍しいな」
「本当はもう二件ほどお願いしたいところですが、グラッド支部長から休ませるように言われています」
「支部長が?」
「はい。『ふむ』と」
「それ、休めって意味なのか?」
「今回は、そう解釈しました」
やはり便利な人材だ。
レインは食堂の方へ向かおうとして、ふと掲示板を見た。
ミリオが貼り直した依頼票は、まだ少し斜めだった。
その中に、第五環関連の依頼がいくつかある。
荷運び護衛。
壊れた井戸の調査。
野犬退治。
行方不明の飼い山羊探し。
他愛のない依頼ばかりだ。
レインは何となく、それらを眺めた。
「どうかしましたか?」
エリスが問いかける。
「いや。第五環の依頼、少ないなと思って」
「今日は少ないですね」
「いつももっと多くないか?」
レインがそう言うと、エリスの手が一瞬だけ止まった。
本当に一瞬だった。
すぐに彼女は書類へ視線を戻した。
「そうですね。ここ数日は、少し波があります」
「波?」
「依頼は日によって偏りますから」
「そういうもんか」
「ええ」
エリスは穏やかに答えた。
だが、その後で、受付の奥に置かれた未処理箱へ目を向けた。
ほんのわずかに、眉が寄る。
レインはそれに気づいたが、追及はしなかった。
その程度の違和感だった。
王都は騒がしい。
いつものように、人が生きている音がする。
だから、その小さな空白は、まだ誰の目にも事件として映らなかった。
ただ、エリスだけが、未処理箱の底に挟まった一枚の依頼控えを見つけていた。
日付は三日前。
依頼元は、第五環東区。
件名は、
「行方不明者捜索願」
受付印は、押されていなかった。
◇
王都アルデインの北西門に、共和国の旗を掲げた馬車が入ったのは、その日の午後だった。
白地に、三本の細い線が交差する紋章。
王冠ではなく、剣でもなく、三つの道が一点で交わる図柄。
メサイア共和国の国章である。
門兵たちはそれを確認すると、表情を固くした。
敵国ではない。
だが、気軽な隣人でもない。
エラン高地を越えた先にある、王を持たぬ国。
合議によって動く国。
王都アルデインとは交易を続けているが、互いに相手を完全には信用していない。
その国からの正式な使節団だった。
馬車の窓から、ひとりの女が王都の街並みを見ていた。
淡い金の髪を後ろでまとめ、旅装の上に共和国式の外套を羽織っている。華美ではない。けれど、布地も仕立ても上質だった。
名を、フラーナという。
メサイア共和国協調派の外交官。
今回の訪問では、王都との交易協定、およびエラン高地越境路の再整備について協議する予定になっている。
「大きな街ですね」
隣に座るカーシャが、手元の記録板に何かを書き込みながら言った。
「報告書で見るより、ずっと雑です」
「雑?」
「はい。王都というからには、もっと整っているものだと思っていました。ですが、道幅は揃っていませんし、建物の高さもばらばらです。洗濯物が通りに出ています。露店の位置も、明らかに申請区画からはみ出しています」
「よく見ていますね」
「仕事ですから」
カーシャは淡々と答えた。
フラーナは小さく笑う。
「私は、少し安心しました」
「安心、ですか?」
「ええ。人の住む街に見えます」
窓の外では、商人が声を張っていた。
子どもが荷車の脇を駆け抜け、怒られている。
通りの端では、ノーティア教の小さな礼拝所が配給の籠を並べていた。
フラーナは、その列をしばらく見ていた。
「豊かな街にも、並ぶ人はいるのですね」
「どの国にもいます」
「そうですね」
カーシャは記録板に視線を落としたまま、声を低くした。
「フラーナ様。北西門通過時、民衆の視線がやや硬かったです。歓迎ではありません」
「予想通りです」
「王都側は協定を急いでいますが、民意までは追いついていないようです」
「民意は、いつも少し遅れて来ます。あるいは、早すぎて政治が追いつかない」
「共和国議会の話ですか」
「どちらにも言える話です」
フラーナは窓から視線を外した。
「王都は、私たちを利用したい。私たちも、王都を必要としている。けれど、ここには王がいて、教会があって、騎士団があって、下層街がある」
「複雑ですね」
「ええ。だから交渉をするのです」
カーシャは小さく頷いた。
その時、後続の馬車が少しだけ近づいた。
窓の向こうに、一瞬だけ男の横顔が見えた。
黒い髪。
硬い目。
軍人ではないが、軍人に近い姿勢。
グランだった。
メサイア共和国対外強硬派に近い男。
今回の使節団には、監査官という名目で同行している。
フラーナはその馬車を見やり、表情を変えなかった。
「グラン殿は、ずいぶん静かですね」
カーシャが言った。
「静かな人ほど、よく動きます」
「警戒が必要ですか?」
「ええ」
フラーナは短く答えた。
「ただし、表には出しません。今この街で、共和国使節団が割れているように見せるわけにはいきませんから」
「承知しました」
馬車は第三環へ向かって進む。
王都は騒がしかった。
人の声があり、生活があり、祈りがあり、売買があり、怒りがあり、笑いがあった。
フラーナはそれを見て、静かに息を吐いた。
「カーシャ」
「はい」
「この国は、思っていたより脆いかもしれません」
カーシャの筆が止まる。
「根拠は?」
「まだありません」
「外交官の勘ですか」
「ええ。外れてほしい勘です」
その頃、後続の馬車の中で、グランは窓の外を見ていた。
向かいには、副官のドミトリが座っている。
「王都はどう見えますか」
ドミトリが尋ねた。
グランはしばらく答えなかった。
やがて、通りの奥にある礼拝所の列を見て、くくっ、とのどを鳴らす。
「人がいて、不満があって、腹を空かせた者がいる」
ドミトリは窓の外を見た。
礼拝所の前に、配給を待つ列があった。
「記録しておきますか」
「必要ない」
グランは窓の覆いを下ろした。
「火種は、どの国にもある」




