EP5 夜の公国ヴェスペラ 第42話 エピローグ
夜の公国に、朝は来ない。
けれど、夜が少しだけ薄くなる時間はある。
空の黒が、紫へ寄る。
窓辺の赤い花弁が、わずかに光を含む。
灯りのついていない廊下の奥で、影の輪郭だけが柔らかくなる。
ヴェスペラの者たちは、それを夜明けとは呼ばない。
ただ、夜が息をつく時間、と呼ぶらしい。
レインたちが王都へ戻る準備を整えたのは、そんな時間だった。
「帰路の馬車、黄昏の森浅部の通行印、予備の外套、保存食、水袋、簡易治療具、すべて手配済みです」
淡々と告げたのは、カレラ=レイヴンハルトだった。
アルケイン家筆頭従者。
眠りに引かれる主人の代わりに、現場を維持し続ける実務家。
その立ち姿は静かで、無駄がなかった。
レインは、並べられた荷物を見る。
「仕事が早すぎるだろ」
「主人が眠る前に終わらせる必要がありますので」
カレラは表情を変えずに言った。
その横で、椅子に深く沈むようにして座っていたテオドーラ=アルケインが、半分閉じた瞼をわずかに持ち上げる。
「……カレラ」
「駄目です」
「まだ、何も言っていないわ」
テオドーラは、少しだけ不満そうに目を細めた。
「……冷たいわ」
「温情をかけると、三時間眠られるので」
「……賢い従者ね」
「ありがとうございます」
テオドーラは、ゆっくりとレインたちを見る。
眠そうな顔だった。
だが、不思議と視線そのものはぼやけていない。
「……帰るのね」
「ああ」
レインが頷く。
「世話になった。いや、世話になったって言っていいのか分かんねぇことも多かったけど」
テオドーラは、ほんの少しだけ口元を緩めた。
「戻る場所があるのは、よいこと」
その言葉に、少しだけ沈黙が落ちた。
夜の公国にいる者たちにとって、戻る場所とはどういう意味を持つのか。
レインには分からない。
けれど、軽い言葉ではないことだけは分かった。
テオドーラが、カレラへ視線を向ける。
「……あれ」
「はい」
カレラは、すでに小さな箱を用意していた。
黒紫色の箱だった。
表面に銀の細い紋様が走り、蓋には眠る鳥のような意匠が刻まれている。
「土産です」
「土産?」
フィアが警戒する。
「食べ物?」
テオドーラは、少し考えた。
「……たぶん」
「たぶん!?」
箱の中には、小さな菓子が詰められていた。
黒い砂糖菓子のようにも見える。
干した茸のようにも見える。
あるいは、夜の欠片を固めたようにも見える。
ノエルが覗き込む。
「黒い」
「夜露糖です」
カレラが説明する。
「ヴェスペラ名物の一つです。口に含むと冷たく、しばらく月明かりのような後味が残ります」
フィアが眉を寄せる。
「月明かりの味って何?」
「食べれば分かります」
「分かりたくない場合は?」
「保存が利きます」
「逃げ道をくれたようで、くれてない」
ラヴィニエが一つ手に取ろうとした。
フィアが止める。
セシルが箱を受け取る。
「ありがとうございます。王都に戻ってから、皆でいただきます」
「……ええ」
テオドーラは眠たげに、けれど静かに言った。
「……黄昏の森では、道を外れないこと」
カレラが続ける。
「通行印は、森の浅部でのみ有効です。道に迷った場合は、無理に戻ろうとせず、その場で待機してください」
「待ってたらどうなるんだ?」
レインが聞く。
カレラは答える。
「何かが通ります」
「何かって何だよ」
「その時によります」
「答えになってねぇ」
「黄昏の森では、明確に答えない方が安全なこともあります」
フィアが顔をしかめる。
「それ、ユーフェミアみたいなこと言うね」
「恐縮です」
「褒めてない」
テオドーラが小さく笑った気がした。
「……気をつけて」
その言葉だけは、眠気の奥からまっすぐ出てきた。
セシルが静かに頭を下げる。
「はい。お世話になりました」
カレラもまた、深く礼をした。
「道中の無事を」
◇
次に訪れたのは、エルミラージュ家の一室だった。
案内役の眷属が扉を開けると、部屋の中には大量の書類が積まれていた。
その書類の山の隙間に、ニル=エルミラージュが座っている。
外見は、まだ少女と呼んで差し支えない。
細い肩。
伏せがちな瞳。
人と目を合わせるのが苦手そうな、控えめな佇まい。
だが、机の上に置かれた書類の処理速度だけは異常だった。
ニルは、レインたちに気づくと、ほんの少しだけ肩を揺らした。
「……あ」
それだけ言って、視線を泳がせる。
しばらく沈黙。
レインもどう切り出せばいいか分からず、頭を掻いた。
「ええと、世話になった、でいいのか?」
ニルは小さく頷く。
「……はい」
また沈黙。
ニルは、机の端に置いてあった紙束を揃える。
そして、ようやく口を開いた。
「……その」
「うん」
「ありがとうございました」
レインは瞬きをした。
「礼を言われるようなことしたか?」
ニルは視線を下げる。
「……姉が、少し楽しそうでした」
声は小さい。
だが、嘘ではなかった。
(…姉さま、あれは完全に楽しんでいました。表情が良かったです。相手を追い詰める時の姉さまは本当に生き生きしています。来客相手にそれをするのはどうなのでしょうか…)
もちろん、ニルはそこまで口には出さない。
「……すみません」
「なんで謝るんだよ」
レインは困ったように言う。
セシルが一歩前へ出た。
「こちらこそ、貴重な経験をさせていただきました」
ニルは、セシルを見る。
「……次に来る時は」
少しだけ間が空く。
「静かな時に」
レインが苦笑する。
ニルは小さく頭を下げた。
「お気をつけて」
短い別れだった。
部屋を出る直前、レインは振り返った。
ニルはすでに書類へ向かっていた。
ただ、その横顔は、初めて会った時より少しだけ柔らかかった。
◇
セリネは、屋敷の外庭にいた。
花は咲いている。
だが、その花弁はどこか透明で、月明かりを吸っているように見えた。
セリネは、その花の間に立っていた。
レインたちに気づくと、ぱっと表情を明るくする。
「皆さん」
「セリネ」
レインが声をかける。
「もう帰られるんですね」
「ああ。王都に戻らないとな」
「そうですか」
セリネは少しだけ寂しそうに笑った。
けれど、その顔に暗い影はなかった。
王都で何があったのか。
彼女の中では、もう残っていない。
「また会えるといいですね」
セリネは言った。
「そうだな」
レインが頷く。
「今度は、私が王都に遊びに行きますね」
「王都に?」
フィアが目を丸くする。
「はい。ヴェスペラの外も、ちゃんと見てみたいんです」
セリネは、少しだけ照れたように笑う。
「王都は、にぎやかなんですよね?」
「かなり騒がしいよ」
フィアが言う。
「人も多いし、馬車も多いし、店も多いし、たまに変な人もいる」
レインが横を見る。
「変な人って誰のことだよ」
「自覚あるの?」
「ねぇよ」
ラヴィニエが微笑む。
「教会にもぜひ」
「はい。行ってみたいです」
セシルが穏やかに言った。
「その時は、王都をご案内しましょう」
「本当ですか?」
「はい。聖騎士団の詰所付近は、あまり面白い場所ではありませんが」
フィアが即座に言う。
「セシルが案内すると、たぶん王都の真面目な場所ばっかりになるよ」
「それはいけませんか」
「いけなくはないけど、楽しいかは別」
セリネはくすりと笑った。
「では、皆さんで案内してください」
ノエルが小さく頷く。
「うん」
セリネは、夜の花を一輪摘んだ。
透明な花弁の中心に、小さな赤い光が灯っている。
「これ、王都ではすぐ萎れてしまうかもしれませんけど」
レインに差し出す。
「よかったら」
レインは少し戸惑いながら受け取った。
「ありがとう」
「こちらこそ」
セリネは深く頭を下げた。
「皆さんと会えて、よかったです」
その言葉は、まっすぐだった。
レインは、花を握り潰さないように、そっと持った。
「俺たちもだ」
セリネは、明るく笑った。
「また、王都で」
◇
最後に、ユーフェミアとアルヴァロスが待っていた。
巨大な黒い石柱が二本、夜の中に立っている。
その間に、黄昏の森へ続く道が見えた。
森の奥は赤紫に揺れている。
まるで、夜と夕暮れの境目に口が開いているようだった。
ユーフェミアは、石柱の片方に腰かけていた。
行儀は悪い。
けれど、彼女がやると不思議と絵になる。
アルヴァロスは、その少し後ろに立っている。
相変わらず、表情は薄い。
だが、ユーフェミアとの距離だけは、妙に正確だった。
近すぎず。
遠すぎず。
いつでも彼女の前に出られる位置。
「行くか」
ユーフェミアが言った。
「行くよ」
レインが答える。
「長居しすぎた気もするしな」
「そうか? わらわからすれば、まばたきほどじゃ」
ユーフェミアは楽しそうに笑った。
「せいぜい死ぬなよ、小僧ども」
レインは顔をしかめる。
「最後の挨拶がそれかよ」
「わらわが生存を望んでやっておるのじゃ。ありがたく思え」
アルヴァロスが静かに頭を下げる。
「ヴェスペラへの協力、感謝します」
ユーフェミアは、まずレインを見た。
「小僧」
「なんだよ」
「力に呑まれるな」
レインは、右手を見る。
「……分かってる」
「ならばよい」
次に、ノエルを見る。
「白い小娘」
ノエルは顔を上げる。
「戻る声を忘れるな」
ノエルは少しだけ瞬きをした。
「うん」
「誰かに呼ばれるのを待つな。戻ると決めるのは、おぬしじゃ」
「……うん」
その声は小さかった。
だが、以前より少しだけ確かだった。
ユーフェミアは、フィアへ視線を移す。
フィアの肩には、ミラが浮かんでいる。
「エルフの小娘」
「小娘ばっかりじゃん」
「小娘じゃろう」
「まあ、否定しないけど」
ユーフェミアはミラを見る。
ミラは、ユーフェミアの視線から少し逃げるように、フィアの帽子の後ろへ隠れた。
「エウレカ、おぬしの出自にかかわる言葉じゃ。おぼえておけ」
フィアの目が細くなる。
「また、その言葉?……どういう意味?」
「そのうち分かる」
「出た」
ユーフェミアは笑った。
次に、ユーフェミアはラヴィニエを見る。
「聖職者」
「はい」
「祈りで何でも済むと思うな。おぬしは特に危うい」
ラヴィニエは微笑む。
「よく言われます」
「言われて直さぬのが問題なのじゃ」
「善処します」
「絶対にせぬ顔じゃな」
最後に、ユーフェミアはセシルを見る。
「騎士崩れ」
セシルは静かに頭を下げる。
「はい」
「正しさは刃になる。ようやく、それを握った顔になったの」
セシルは少しだけ沈黙した。
白い鎧の下で、彼は何を思ったのか。
分からない。
けれど、目は逸らさなかった。
「……覚えておきます」
セシルは頷く。
ユーフェミアの赤い瞳が、ほんの少しだけ愉快そうに細まった。
「よい」
レインは、ユーフェミアを見る。
「世話になった」
その言葉に、ユーフェミアは少しだけ意外そうな顔をした。
「……ありがとう」
レインが言う。
ユーフェミアは、しばらく黙っていた。
やがて、くつりと笑う。
「礼を言う相手は選べ、小僧」
「選んで言ってる」
「ならば、受け取っておいてやる」
アルヴァロスが、ほんのわずかにユーフェミアを見る。
その視線に、温度があった。
他の全てには薄い男が、そこだけは違う。
ユーフェミアが手を振る。
「行け。黄昏に呑まれるなよ」
「それ、最後に言うことか?」
レインたちは、門の向こうへ歩き出した。
黄昏の森が、口を開けて待っていた。
◇
帰りの黄昏の森は、行きと同じようで、少し違って見えた。
赤紫の光。
背の高い木々。
風がないのに揺れる枝。
どこからともなく聞こえる、聞き慣れない音。
森が普通ではないことは、もう分かっていた。
カレラから渡された通行印が、淡く光っている。
その光が示す道を、五人は外れずに進んだ。
途中、枝の上に鳥のようなものが止まっていた。
鳥に見えた。
だが、羽ばたかない。
枝から枝へ、滑るように移動する。
目が三つあった。
フィアが見上げると、それは葉の裏へ溶けるように消えた。
「……見た?」
レインが聞く。
「見た」
フィアが答える。
「鳥か?」
「鳥に謝った方がいい」
「じゃあ何だよ」
「分かんない」
ミラが、フィアの肩で揺れる。
少し先では、小さな鹿のような生き物が道の脇に立っていた。
角の先に、白い花が咲いている。
ノエルが見る。
鹿のようなものも、ノエルを見る。
しばらく見つめ合った後、花だけを残して、身体がすうっと薄れて消えた。
ノエルは、残った白い花を見つめる。
「鹿?」
ラヴィニエが微笑む。
「神秘ですね」
セシルは、最後尾を歩いていた。
後ろを確認し、横を見て、時に前へ視線を向ける。
剣は抜いていない。
だが、手はいつでも柄へ届く位置にあった。
ノエルは、自分の足音を聞くように歩いていた。
一歩。
また一歩。
誰かに引かれるのではなく、自分の足で。
ラヴィニエは、いつものように微笑んでいる。
けれど、何度か祈ろうとして、少しだけ黙った。
レインはそれに気づいた。
赤紫が遠ざかる。
木々の隙間から、王都へ続く道が見えた。
空の色が変わる。
夜でも黄昏でもない。
普通の空。
それだけで、レインは少し息を吐いた。
森を抜ける直前、フィアが振り返る。
黄昏の森は、そこにあった。
ただの森のように。
けれど、もうただの森には見えなかった。
「また、来ることになるのかな」
誰に言うでもなく、フィアが呟く。
レインは肩をすくめる。
「来たくはねぇな」
ノエルが言う。
「でも、来る気がする」
「…フラグだな」
ラヴィニエは手を合わせる。
「縁ですね」
「たっちまった」
セシルは、森を見ていた。
「その時は、その時です」
ほんの少しだけ。笑った。
そして五人は、黄昏を越えた。
◇
王都は、騒がしかった。
馬車の音。
露店の声。
人々の足音。
遠くで鳴る鐘。
誰かが笑い、誰かが怒鳴り、誰かが値切っている。
何も変わっていない。
変わっていないように見えた。
だからこそ、レインは少しだけ立ち止まった。
夜の公国の静けさが、まだ耳の奥に残っている。
黄昏の森の枝が揺れる音が、まだ背中に残っている。
けれど、ここは王都だった。
戻ってきた。
「まずはギルドだな」
レインが言う。
フィアが頷く。
「報告、面倒そう」
「いつものことだろ」
「依頼の報告はいいとして。その他のことは報告しとく?ヴェスペラで眷属と戦って、試練受けて、森で変な魔物倒して帰ってきました、って」
「信じてもらえねぇな」
ノエルが静かに言う。
「省略」
「何をどこまで省略するんだよ」
ラヴィニエは、王都の教会の尖塔を見た。
「私も、教会へ報告が必要ですね」
セシルは、聖騎士団の方角へ視線を向ける。
「私も、一度詰所へ戻ります」
そう言って、五人は一度別れることになった。
同じ場所へ戻るわけではない。
レイン、ノエル、フィアはギルドへ。
ラヴィニエは教会へ。
セシルは王都聖騎士団へ。
それぞれの場所に、それぞれの役割がある。
――――――だが。
後日、三つの知らせが届く。
一つは、ギルドからレインたちへ。
一つは、教会からラヴィニエへ。
そして一つは、王都聖騎士団からセシルへ。
内容は、別々だった。
差出人も、目的も、言葉も違っていた。
たしかに、一つの夜は終わった。
けれど。
次の異常は、もう王都の中で芽を出していた。




