EP5 夜の公国ヴェスペラ 第39話 セシル
最初に戻ってきたのは、ラヴィニエだった。
赤黒い道のひとつが、静かに揺れる。
黒い水面のような床に、波紋が広がり、その中心から白い衣の聖職者が歩いてきた。
衣は裂けていた。
肩口には乾いた血が滲み、袖にも、脚にも、浅深それぞれ傷がある。
モーニングスターの鎖には灰色の泥がこびりつき、鉄球の表面には深い傷が増えていた。
だが、ラヴィニエは。
むしろ、少しだけ機嫌がよさそうにすら見えた。
「戻りました」
ユーフェミアが片眉を上げる。
「戻ったか」
「はい。よい荒野でした」
「…よい荒野ってなんじゃ。初めて聞いたわ」
「学びが多かったので」
「やはりおぬしは少しおかしい」
ラヴィニエは微笑む。
「よく言われます」
戻ってきた時間だけを見れば、さほど経ってはいない。
だが、ラヴィニエの身体には、確かに三日分の疲労と傷が刻まれていた。
虚ろの胎では、時間の流れが均一ではない。
外から見れば一瞬に近い時間でも、道の内側では数日が過ぎることもある。
逆に、長く見えても、内側では一呼吸ほどのこともある。
ここは、そういう場所だった。
ユーフェミアは、ラヴィニエの周囲に薄く巡る白い光を見る。
けれど、揺れていなかった。
「さらに効率を上げたようじゃな」
「祈りは、薄くても通りました」
「おぬしのそのパワーワードなんとかならんか…」
「祈りです」
「…面倒な女じゃ」
ラヴィニエは、いつものように笑っていた。
◇
次に戻ってきたのは、ノエルだった。
息が乱れている。
肩が上下している。
指先は震えている。
ユーフェミアは、彼女の袖についた小さな霜を払った。
「ふむ。おぬしは…不安定ながら、ちゃんと引き出せるようになったようじゃな」
ノエルは顔を上げる。
「…あれ、ユーフェミア?」
「あぁ、あれはそういう術でな。わらわはずっとここで見ておったよ。…まぁ、理解せずとも好い」
ノエルは自分の手を見る。
「……うん」
「じゃが、まだ、借りただけじゃ。使いこなしたとは言わぬ」
「でも」
ノエルは、小さく息を吐いた。
「少し、聞こえた」
「何がじゃ」
「私の声」
ユーフェミアは、ほんの少しだけ目を細めた。
「ならば忘れるな。次に呑まれたときも、同じように帰ってこれるとも限らぬ」
「…ユーフェミアは、私のこと知ってるの?」
「…知っておる、とも言えぬし、知らぬ、とも言えぬ。…それに、の、多分に、わらわの推測もはいっておる」
「…よくわからない」
「…わらわもよくわかっておらん」
ラヴィニエが横で穏やかに微笑んだ。
「お二人の話はよくわかりませんが。戻られてよかったです、ノエルさん」
ノエルは頷く。
「うん。ただいま」
その声は小さかったが、確かにそこにあった。
◇
三番目に戻ったのは、レインだった。
赤黒い道の奥から、煤の匂いが流れてくる。
次の瞬間、黒い火が一筋だけ揺れ、レインが膝をついた。
「……っ、は」
荒い息。
右腕には、焼けただれた痕があった。
皮膚の奥にも熱が残っているようで、指先が震えていた。
喉の奥に残る煤の味を吐き出すように、レインは唾を飲み込む。
「小僧」
ユーフェミアが呼ぶ。
「イヴェットの件はお情けじゃ」
「……あぁ、感謝する」
レインは顔を上げた。
「…制御は7割、といったところかの」
「わからねぇ、が以前よりはだいぶましになった…と思う」
ユーフェミアはつまらなそうに鼻を鳴らす。
だが、その赤い瞳は、少しだけ笑っていた。
「じゃが、気をつけよ。その術式のリスクがなくなったわけではないからの」
「了解した」
ラヴィニエが手を伸ばす。
「レインさん!そこそこの重症ですよ?まずは治療を」
「…すまん。頼む」
レインは珍しく、素直にラヴィニエに頼った。
◇
四番目に戻ったのが、そのフィアだった。
暗闇が裂けるように揺れた。
まず現れたのは、淡い光の粒だった。
ミラ。
それはフィアの肩口にふわりと灯り、少し遅れて、フィア自身が闇の中から歩いてくる。
帽子を押さえようとして、途中で手を止める。
その仕草に、少しだけ変化があった。
隠すためではなく、確かめるための動きだった。
フィアは大きく息を吐く。
「……最悪だった」
レインが顔を向ける。
「お前もか」
「お前もってなに」
「いや、たいがい全員満身創痍だからな…」
「まあ、それはそう…みたいね」
フィアはほか3人を順番に眺める。
ラヴィニエがレインを治療しているが、する側もされる側もボロボロだ。
ノエルは肩で息をしており、ただでさえ色素の薄い顔色が猶更悪く見えた。滅多に状態に現れることはないが、心なしか、ぐったりしている。
ラヴィニエが微笑む。
「フィアさんも、戻られましたね。おかえりなさい」
「…ただいま」
「…おい」
レインは、そこで気づいた。
赤黒い道は、まだひとつ残っている。
「……セシルは?」
誰も答えなかった。
ユーフェミアは、残った道を見ていた。
その表情に、焦りはない。
「あの騎士崩れは、まだ戻らぬか」
レインは眉を寄せる。
「大丈夫なんだろうな」
「…さあの」
「なんで戻らねえ」
「手こずっておるのじゃろう」
ユーフェミアは言う。
「あやつはの、難しい」
フィアが腕を組む。
「…何がよ」
「真面目で、綺麗で、頑固だからじゃ」
ユーフェミアの声は淡々としていた。
「己を正しいと思っておる者ほど、己の影には足を取られる」
ノエルが、残った道を見る。
「セシルは、戻ってくる」
レインはその横顔を見た。
ノエルの声に、不安はあまりなかった。
願いではない。
確認するような言い方だった。
「……だな」
レインは壁に背を預ける。
ラヴィに熱傷は治療してもらったが、身体はまだ重い。
胸の奥には、黒い熱の残りがある。
だが、それ以上に、残った道の静けさが気になった。
ラヴィニエは手を重ねた。
「祈りましょうか」
フィアがちらりと見る。
「ラヴィが祈ると、逆に変なことになりそうなんだけど…」
「では、控えめに」
「変なことになりそうなのは否定しないの…?」
「まさに、神のみぞ知る、ですね」
「心配してるのかしてないのか、わかんない…」
ラヴィニエは目を閉じる。
「セシルさんが、自分で戻れるように」
その言葉に、レインは何も言わなかった。
待つしかないのだろう。
「あやつのことを、信じてやれ」
ユーフェミアは残った道を見ていた。
◇
セシルは、防戦一方だった。
蒼黒い水面の上で、白い鎧が軋む。
もう一人のセシルの剣が、何度も何度も薙ぐ、突く、切り下ろされる。
荒い。
乱暴。
セシルの剣の型と同じはずなのに、何か違う。
だが、速い。
そして、重い。
セシルは受ける。
受ける。
また受ける。
剣と剣がぶつかるたびに、水面に波紋が広がった。
その波紋はすぐに消えない。
まるで、セシルの胸の中に残る迷いのように、いつまでも揺れていた。
「どうした」
影が笑う。
セシルと同じ顔で。
同じ声で。
だが、その瞳だけは違う。
そこには、抑え込まれた怒りがあった。
「受けるだけか」
影の剣が横薙ぎに走る。
セシルは盾を展開する。
白い光が剣を受け止める。
だが、衝撃は殺しきれない。
足が水面に沈む。
「それがお前の正しさか」
影が低く言った。
「誰も傷つけない。誰も切り捨てない」
セシルは歯を食いしばる。
「……それが、間違いだとは思いません」
「間違いではないさ」
影は笑った。
「ただ、嘘だ」
セシルの呼吸が止まる。
その一瞬を、影は見逃さない。
剣が振り下ろされる。
セシルは受ける。
重い。
腕が痺れる。
「お前は平等を語る」
影は続ける。
「規則を、正義を重視する。身分で、出自で、力で、誰かを軽んじたくないと言う」
「……」
「綺麗だな」
影の口元が歪む。
「実に、綺麗だ」
セシルは剣を押し返した。
「何が言いたいのですか」
「分かっているだろう」
影は踏み込む。
「その二本の腕で、すべてを掬うことができると思っているのか」
セシルの目が揺れる。
「剣が一本しかない者が、全ての理不尽を止められるのか」
「……」
「お前は何かを守る時、別の何かを捨てている」
影の剣が、セシルの肩口を掠めた。
鎧に傷が走る。
「お前が誰かの前に立つ時、お前の背後にいる者だけが救われる」
影は笑う。
「見えない場所の誰かは、切り捨てられる」
「違う」
セシルの声は、かすかに震えていた。
「違わない」
影は即答した。
「お前はいつも選んでいる。守る相手を。立つ場所を。差し出す手を」
剣がぶつかる。
波紋が広がる。
「それを平等と呼ぶのか」
影の言葉に、水面が揺れた。
波紋が広がる。
一つ。
また一つ。
その波紋の奥に、別の景色が映った。
◇
蒼黒い水面ではない。
雨だった。
冷たい雨が、石畳を叩いている。
王都の外縁区。
古い家屋と狭い路地が密集した地区だった。
まだ、セシルが今よりもずっと若かった頃。
正式な騎士として叙任される少し前。
白い外套は新しく、鎧にも傷は少なく、剣の柄にはまだ手に馴染んでいなかった。
その日、セシルに与えられた任務は、ある貴族家の馬車を、王城側の保管所まで護送すること。
馬車の中には、爵位継承に関わる系譜書と、家門印の入った鉄箱が積まれていた。
ただの紙ではない。
それが失われれば、継承争いが起きる。
領地が割れ、私兵が動き、結果としてこの灰鐘区にも血が流れる。
上官は、そう説明した。
「これを守ることが、王国の秩序を守ることだ」
上官はそう言った。
「家門印が失われれば、継承争いが起きる。領地が乱れ、民が死ぬ。目の前の火に惑わされるな、セシル候補生。騎士は、広く物を見るものだ」
正しかった。
少なくとも、言葉としては。
理屈としては。
だからセシルは頷いた。
頷いてしまった。
雨の向こうで、煙が上がっていた。
灰鐘区の一角で、倉庫が燃えている。
古い木造の建物だった。
そこには、本来なら人はいないはずだった。
けれど、雨に濡れた女が一人、泥の中を転びながら走ってきた。
「お願いします、騎士様!」
女は馬車の前に膝をついた。
髪は乱れ、頬には煤がつき、片腕には血が滲んでいた。
「子どもが、まだ中に。あの子たち、行く場所がなくて、倉庫に隠れていたんです。お願いします。お願いします、助けてください」
セシルは振り返った。
炎は大きくなっていた。
雨に濡れてなお、古い倉庫は赤く燃えていた。
中から、何かが崩れる音がした。
小さな悲鳴が聞こえた気がした。
セシルの足が、そちらへ向いた。
だが、上官の手が肩を押さえた。
「持ち場を離れるな」
「ですが」
「任務を忘れるな」
「まだ、子どもが」
「我々の任務は、この馬車の護送だ」
上官の声は低かった。
怒っているのではない。
冷静だった。
冷静に、正しかった。
「救助隊は別にいる」
「間に合いません」
「それを判断するのはお前ではない」
セシルは歯を食いしばった。
雨が頬を伝う。
それが雨なのか、汗なのか、自分でも分からなかった。
馬車の窓が開く。
中から、肥えた男が顔を出した。
貴族だった。
灰色の髭を整え、濡れぬように厚い外套をまとい、苛立ったように眉を寄せている。
「何をしている。早く進め」
女が顔を上げた。
「お願いです、旦那様。あそこには――」
「どけ」
男は、女を見なかった。
「この箱は王国にとって代えが利かぬ。そこらの浮浪児とは違う」
その言葉が、雨音の中で、妙にはっきり聞こえた。
セシルの中で、何かが音を立てた。
剣の柄を握る。
白い手袋が濡れていた。
「今、何と」
セシルが一歩前に出ようとした瞬間、上官が彼の腕を掴んだ。
強い力だった。
「やめろ」
「ですが、今の言葉は」
「やめろと言っている」
上官の声が、今度は少しだけ鋭くなった。
「ここでお前が剣を抜けば、救えるものも救えなくなる」
「では、我々は何を守っているというのですか!」
セシルの声は震えていた。
「人を守るための騎士ではないのですか」
上官は、しばらくセシルを見ていた。
そして、静かに言った。
「人を守るために、時には人以外のものを守らなければならない」
セシルは息を止めた。
その言葉も、やはり間違いではないように思えた。
家門印。
系譜書。
継承権。
秩序。
それらが失われれば、確かに争いが起こるのかもしれない。
より多くの人が死ぬのかもしれない。
だから、ここで馬車を守ることは正しいのかもしれない。
だが。
炎の奥から、声がした気がした。
「……たすけて」
セシルは動いた。
だが、半歩だった。
その半歩を、上官が止めた。
「セシル!」
怒号。
馬が嘶く。
セシルは躊躇した。
遠くで梁が落ちる。
炎が一瞬、雨を押し返すほど大きく膨らんだ。
女が叫んだ。
叫んで、立ち上がろうとして、泥の中に崩れた。
セシルは倉庫へ向かって踵を返そうとした。
その時。
馬車の扉に、黒い影が群がってきた。
火災に乗じた襲撃者たちが、鉄箱を奪おうとしている。
ただの暴徒ではない。
誰かが、この混乱を待っていた。
上官が二人を相手に剣を振るっていた。
だが、肩から血が噴き、膝をつく。
御者が倒れる。
馬車の中から、貴族が顔を出した。
青ざめた顔で、叫ぶ。
「箱を守れ! 箱だ! あれを奪われるな!」
その声は醜かった。うるさく、身勝手だった。
けれど、鉄箱が奪われれば。
本当に、灰鐘区だけでは済まないかもしれない。
上官の声が雨を裂いた。
「セシル!」
馬車の方で、鉄箱が奪われかける。
上官が地面に膝をついたまま、血の混じった声で叫ぶ。
「セシル、守れ!」
何を。
誰を。
セシルは、剣を握った。
倉庫へ向けた足を、引き戻した。
その感触を、セシルは生涯忘れなかった。
戻れなかったのではない。
命令があったから。
任務があったから。
広く物を見るべきだと、言われたから。
セシルは剣を振るった。
襲撃者の刃を受ける。
右手の剣で、敵の腕を斬る。
浅い傷。初めて人を斬った感触だった。
襲撃者が悲鳴を上げ、鉄箱から手を離す。
別の影が馬車へ飛び乗る。
セシルは踏み込み、その足を払った。
血が雨に混じる。
馬が暴れる。
倉庫の奥では、もう声がしない。
やがて、襲撃者たちは退いた。
馬車は守られた。
鉄箱は奪われなかった。
セシルは立っていた。
雨に濡れ、煤に汚れ、剣を握ったまま。
正しいことをした。
少なくとも、そう言えるだけの理由はあった。
守ったものがあった。
失わせなかった秩序があった。
それでも。倉庫の奥の声は、その正しさの外側で消えていた。
馬車は進んだ。
鉄の車輪が、泥水を跳ね上げる。
セシルはその横を歩いた。
雨の音。
車輪の音。
女の泣き声。
燃える音。
そして、聞こえなくなった、小さな声。
それらを、全部背中に受けながら歩いた。
守った。
セシルは、その日、任務を果たした。
家門印は失われなかった。
系譜書も濡れなかった。
貴族は無事に王城へ入り、保管所の係官に鉄箱を渡した。
「ご苦労だった」
男はそう言った。
「若いのに、なかなか分別がある。何が大事か、よく分かっているようだ」
セシルは、何も答えなかった。
答えれば、何かを言ってしまいそうだった。
係官が鉄箱を開け、中身を確認した。
古い羊皮紙。
銀の印璽。
乾いた布に包まれた、家門の証。
それだけだった。
それだけのものが、無傷で残っていた。
その日の夕刻。
セシルは、ひとりで王都の外縁区へ戻った。
倉庫は焼け落ちていた。
雨はもう止んでいた。
濡れた灰が、靴の裏にまとわりついた。
救助隊の姿はなかった。
遅すぎたのだ。
瓦礫の端に、小さな木片が落ちていた。
焦げた木で作られた、粗末な騎士人形だった。
片腕がなく、顔も黒く焼けていた。
けれど、胸のところに、小さく白い布が巻かれていた。
白い騎士。
誰かが、そう見立てて遊んでいたのだろう。
セシルは、それを拾った。
指先が震えた。
煤が手袋に移る。
その黒が、ひどく落ちにくいもののように思えた。
背後で、女の声がした。
昼間、馬車の前に膝をついていた女だった。
彼女はセシルを見ていた。
泣き腫らした目で。
憎むでもなく。
責めるでもなく。
ただ、空っぽの目で。
「騎士様」
セシルは振り返れなかった。
「どうして…」
声が、静かだった。
静かすぎた。
「どうして、あの子たちより」
セシルは答えられなかった。
女は、それ以上何も言わなかった。
その沈黙の方が、罵倒よりも深く突き刺さった。
セシルは、焦げた木の騎士を握りしめた。
白い手袋が、黒く汚れた。
その時だった。
胸の奥に、初めて、はっきりとした怒りが生まれた。
貴族に。
上官に。
任務に。
秩序に。
人の価値を、紙と印で測る世界に。
そして。
剣を抜けなかった自分に。
何も守れなかった自分に。
命令に従い、正しくあり、任務を果たした自分に。
セシルは怒っていた。
だが、その怒りを、すぐに握り潰した。
騎士は、怒りで剣を振るうものではない。
公平であれ。
冷静であれ。
規律を守れ。
身分で人を軽んじるな。
出自で人を測るな。
誰も、軽く扱うな。
そう誓えば。
そう唱え続ければ。
あの日、守れなかったものの重さに、耐えられる気がした。
あの日、守ってしまったものの軽さを、見なくて済む気がした。
だからセシルは、正しい騎士になろうとした。
誰よりも正しく。
誰よりも公平に。
誰よりも、冷静な顔で。
◇
蒼黒い水面に、波紋が戻る。
目の前で、影が笑っていた。
「思い出したか」
セシルは、剣を握った。
指先が震えていた。
「お前はあの日、選んだ」
影が言う。
「箱を守った。子どもを見捨てた。命令を守った。女の声を置いていった」
「……違う」
「違わない」
影は踏み込む。
「お前は正しかった。任務を果たした。秩序を守った。より大きな混乱を防いだ。そう言えば、少しは楽か?」
セシルの喉が鳴る。
「……黙りなさい」
「だが、お前は知っている」
影の声が低くなる。
「あの箱より、あの声の方が重かった」
セシルの剣の、白い光が鈍くなっていく。
ひどく痛そうに。
「だからお前は、平等を語る」
影は笑った。
「二度と、人の重さを間違えたくないから」
剣が振り下ろされる。
セシルは受けた。
衝撃。
腕が痺れる。
水面に、焼け落ちた倉庫の影が揺れる。
「だが、綺麗な言葉で覆っても同じだ」
影の剣が、さらに重くなる。
「お前は選ぶ。いつも選ぶ。規範と、正義と、秩序を」
セシルは、押し返せなかった。
雨の匂いがする。
煤の匂いがする。
焦げた木の騎士の感触が、掌に蘇る。
影が囁いた。
「お前はそれを平等と呼ぶのか、セシル」
セシルは、答えられなかった。
影の言葉は、ただの悪意ではなかった。
正しかった。
少なくとも、完全には否定できなかった。
セシルには、全員を救えない。
どれほど願っても。
どれほど正しくあろうとしても。
手は二本しかない。
剣は一本しかない。
届く距離には限りがある。
影は、さらに近づく。
「お前は怒っている」
セシルの呼吸が、わずかに乱れた。
「理不尽に。身分で人を踏む者に。力で黙らせる者に。救えない世界に。選ばなければならない自分に」
「……黙りなさい」
「その怒りを、規律だの公平だのという言葉で包んでいるだけだ」
「黙りなさい」
セシルの剣に、初めて力がこもった。
影は笑う。
「ほら」
その声は、嬉しそうですらあった。
「あるじゃないか」
影の剣が弾かれる。
セシルは一歩踏み込もうとした。
だが、途中で止まる。
攻めていいのか。
この相手は、自分だ。
己の怒り。
己の影。
己の中にある、見たくなかったもの。
それを斬っていいのか。
否定していいのか。
受け入れるべきではないのか。
迷いが、足を止めた。
影は、その一瞬を笑った。
「だから綺麗なんだよ、お前は」
剣が、セシルの胸甲を打った。
衝撃。
セシルの身体が後ろへ滑る。
水面に膝がついた。
波紋が、大きく広がる。
影は剣を肩に担ぐ。
「受け入れる? 認める?」
嘲るような声。
「そんな綺麗なやり方で、お前は自分の汚さをごまかすつもりか」
セシルは顔を上げる。
影は、セシルと同じ顔で笑っていた。
「甘いんだよ」
その言葉が、水面に落ちた。
波紋が広がる。
セシルは、立ち上がろうとする。
だが、足が重い。
影の言葉が、胸に沈んでいた。
平等。
公平。
誰も軽く扱わない。
その言葉の裏に、救えない誰かがいる。
選ばざるを得ない現実がある。
怒りがある。
暴力がある。
自分は、それを綺麗な言葉で覆っていただけなのか。
セシルは剣を握る。
白い光は、弱い。
水面に映る自分の顔が見えた。
整った姿勢。
崩れない表情。
正しい騎士の顔。
その奥で、影が笑っている。
「さあ」
影が剣を向ける。
「まだ続けるのか、平等な騎士様」
セシルは、何も答えられなかった。




