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EP5 夜の公国ヴェスペラ 第38話 フィアリア


密度の濃い夜の中で、黒い火がまた灯る。

だが、黒炎はすぐに暴れた。

火種が、全身へ廻る。

喉の奥に煤の味が広がる。

骨の内側に、焼けた痛みが走る。

燃やせ。

壊せ。

全部、灰にしろ。

その声が、また奥から湧いた。

「させねえ……っていってんだろ!」

レインは歯を食いしばり、火を押し留める。

絞る。

短剣の刃にだけ、黒炎を乗せる。

黒い岩へ踏み込む。

刃が、触れた。

甲高い音が鳴る。

火花のように黒い煤が散り、反動が腕を逆流した。

「ぐ、っ……!」

レインの肩が跳ねる。

岩の表面に、細い傷が入っている。

傷。

ただ、それだけ。

腕が震えていた。

皮膚の下で、熱がまだ暴れている。

「…もう一回…だ」

時間の感覚がない。

何度も黒炎を励起させた。

そのたびに身体が焼ける。

精神が、黒い衝動に染まっていく。

反動。

痛み。

煤の味。

それでも、まだ立つ。

「っ――!」

視界が、一瞬、黒く歪んだ。

膝が落ちる。

「……くそ」

岩は、まだ壊れていない。

足りないなら、全部使え。

壊せ。

燃やせ。

もはや内なる声はレインの声なのか、そうでないのか、わからなくなっていた。

その時、足元に赤い線が走った。

空間の端が、薄く開く。

そこから、イヴェットが現れた。

続いて、ウルティマ。

「うわっ、レインさん、駄目です! 熱傷が深部まで達しています! 皮膚、筋線維、部分的には骨膜近くまで……イヴェット様、これは――」

イヴェットはレインの前に膝をついた。

無表情のまま、焼けた腕を見る。

「動かないで」

「……イヴェット?」

「処置よ」

「…まだ終わってねえ」

「その身体ではあなたが先に終わってしまうわ」

レインは黙った。

イヴェットの指先に、赤い光が灯る。

血の匂いがした。

だが、嫌な匂いではない。

温かく、濃く、傷口を内側から縫うような感覚。

焼けた皮膚が、少しずつ戻っていく。

焦げた筋が、引き寄せられる。

奥で軋んでいた痛みが、ゆっくりと遠ざかる。

レインは息を吐いた。

「……やっぱり、あんたもすげえな」

イヴェットは短く言う。

「こんなものは応急処置でしかないわ。熱傷もそれなりにひどいけれど…」

「…なんだ」

「…眼」

赤い瞳が、正面からレインを直視する。

「肉は戻る。血も巡る。骨も再骨化させられる」

そこで、イヴェットは少しだけ目を細めた。

「でも…あなたの中のそれは、完全には取り除けない」

レインは眉を寄せる。

「中?」

「名前は知らない。なにかもわからない。でも、その術式を使うとあなたの中のそれが少しずつ溜まっていっているように感じる」

イヴェットは治療を続けながら言った。

「血に混じらない。傷でもない。だから、私では完全には洗えない」

ウルティマが小声で震える。

「イヴェット様の処置不能領域……! これは非常に貴重な――」

「ウルティマ」

「はい。すいません」

イヴェットは淡々と続ける。

「あなたが使うたびに、それは濃くなる。肉体だけ治して繰り返せば、先にそちらがあなたを削る」

レインは、黒い岩を見る。

「じゃあ、どうしろってんだよ」

「知らないわ」

「おい」

「私は医療者。あなたの戦い方までは知らない」

イヴェットは最後に、焼けた腕を押さえた。

「ただ、ひとつだけ」

「なんだ」

「傷を治すにしろ、回帰させるにしろ、私はイメージするわ。直す対象を。詳細に。どんな傷なのか、どんな深さなのか、なぜそうなったのか?状態は?経過は?」

レインは、イヴェットを見た。

「……それ、治療の話か」

「ええ」

イヴェットは立ち上がる。

熱傷はほとんど元に戻っていた。

「あんがとな、イヴェット、…さん」

「セリネの借りを返しに来ただけよ」

そう言って、イヴェットは踵を返す。

ウルティマも慌てて続いた。

「レインさん! 肉体的には応急修復済みですが、精神の汚染は完全に除去できてませんので。 無茶をすると非常に記録しがいのある悪化を――」

「ウルティマ。悪趣味」

「てへっ」

二人の姿が、赤い線の向こうへ消える。

空間が閉じた。


レインは息を吐き、右手の感覚を確かめる。

先ほどまでの激しい火傷が嘘のようだった。

だが、胸の奥にはまだ残っている。

黒い熱。

煤の味。

壊せと囁く声。

完全には、消えていない。

「……イメージ、か」

イヴェットの言葉が、頭をよぎる。

レインは目を閉じ、深く息を吸った。

これまでは、流れ込むものを拒もうとしていた。

絞ろうとしていた。

だが、それだけではない。

拒んでも、入ってくる。

絞っても、溢れる。

そして、余ったものが身体の内側で燻る。

「……余らせてたのか」

レインは呟いた。

内側で声がした。

燃やせ。

すべて。

「……ああ」

レインは、目を開いた。

「そうだな」

使いきれていなかった。

ただ受け入れていた。

ただぶつけていた。

違う。

正しく変えろ。

黒い火へ。

荊の圧へ。

身体を焼く前に。

心を汚す前に。

全部、術式へ流し切る。

「余分を、残さねえ」

黒炎を呼ぶ。

奔流が来る。

今度も多い。

やはり多い。

だが、レインはそれを押し返さなかった。

全身へ散らさない。

胸の奥に溜めない。

一本の道を作る。

自身の腕の先、短剣の刃へ。

「全部、ここで使う」

黒炎が、爆ぜた。



闇が、さらに深くなった。

フィアは、自分の手を見ようとした。

何も見えない。

帽子もない。

杖もない。

ミラもいない。

声だけがある。

――気味が悪い。

――同じエルフなのに。

――あれは違う。

闇の奥から、昔の声が滲み出してくる。

誰の声かは、もう覚えていない。

覚えていないはずなのに、知っている。

里の誰か。

同じ年頃の誰か。

大人の誰か。

優しいふりをして距離を取った誰か。

声は、輪郭を持たない。

けれど、視線だけはある。

たくさんの目が、見えない闇の向こうからフィアを見ていた。

「……うるさい」

フィアは言った。

軽く言うつもりだった。

いつものように。

鼻で笑って、肩をすくめて、くだらないと言うつもりだった。

けれど、声は思ったより低かった。

闇が揺れる。

今度は、別の声がした。

――あの光、閉じられないの?

――見ていると落ち着かない。

――きれいだけど、少し怖い。

フィアは反射的に帽子を押さえようとした。

そこに帽子はない。

隠すものがない。

光彩だけが、目の奥で燃えている。

消えない。

どれだけ闇が濃くなっても、そこだけが消えない。

だから見られる。

だから言われる。

だから、自分は違うものにされる。

「……だから、なに」

フィアは呟いた。

闇が答えるように広がる。

足元も、空も、距離もない。

まるで、自分の輪郭だけが削られていくようだった。

――あなたは何?

声がした。

今度は、誰の声でもなかった。

里の声ではない。

ユーフェミアの声でもない。

仲間の声でもない。

もっと内側から響く声。

――何の血?

――何の末?

――何のために、その光を持っている?

フィアは、唇を噛んだ。

「知らない」

声は追いかけてくる。

――自分のことなのに?

「知らないって言ってるでしょ」

――知らないなら、何者でもない。

闇の中で、フィアの足元が沈む。

膝まで。

腰まで。

見えない闇が、身体を飲み込もうとする。

フィアは術式を組もうとした。

炎を呼ぼうとする。

風を呼ぼうとする。

反応しない。何も返ってこない。

魔素の感覚がない。

視界もない。


いつもなら、見える。

魔素の流れ。

光のゆらぎ。

術式の線。

ミラがそばで瞬く感覚。

それが全部ない。

「ミラ」

呼ぶ。

返事はない。

「……ミラ」

もう一度。

何もない。

胸の奥が、ひどく冷えた。

自分の中にあると思っていたものが、実は何一つ自分だけのものではなかったような気がした。

見える目。

光彩。

ミラ。

里で異質だった理由。

ユーフェミアが言った、エウレカという意味不明な言葉。

全部、知らない。

全部、分からない。

では、自分は何なのか。

闇が囁く。

――教えてあげようか。

フィアの動きが止まる。

声は優しかった。

優しすぎるほどに。

――知りたいのでしょう。

――あなたが何なのか。

――なぜ、その光を持っているのか。

――なぜ、あの里で違ったのか。

フィアの喉が鳴った。

知りたい。

それは本当だった。

自分が何者なのか。

なぜ違っているのか。

どこから来て、どこへ行くのか。


ずっと知りたかった。

だから、ここまで来た。

ユーフェミアが何かを知っているなら、聞き出すつもりだった。

そのはずだった。

闇が、さらに近づく。

――知れば、楽になる。

――名前があれば、迷わなくて済む。

――血筋があれば、理由になる。

理由。

その言葉に、フィアの胸が少しだけ揺れた。

理由がほしかった。

自分が変だった理由。

里の皆が自分を避けた理由。

ミラがそばにいた理由。

この光が消えない理由。

それがあれば、きっと納得できる。

受け入れられる。

そう思っていた。

けれど。

「……それが、ほんとうにあたしが欲しいもの?」

フィアは呟いた。

闇の声が止まる。

フィア自身も、自分の言葉に少し驚いた。

欲しい。

知りたい。里をでてからこれまで、それを探してきた。

でも、それだけか。

もし、誰かが言ったとして。

お前はこういう血だ。

こういう役割だ。

こういう理由で生まれた。

それで。

自分は納得するのか。

そうですか、とそれに従うのか。

「…あたしが何かを、あんたが決めるの?」

闇が、ゆっくり歪む。

――あなたは知らない。

「知らないよ」

フィアは言った。

「あたし、自分のこと全然知らない」

闇の中で、光彩が揺れる。

「違うとか、血筋とか言われても知らない。エウレカとか言われても知らない。ちゃんと知らない」

言葉にすると、少しだけ怖かった。

知らないものばかりだ。

自分の中にあるものなのに、分からない。

知らない自分は皆に受け入れられない。

でも。

「だからって」

フィアは、闇の中で拳を握った。

「知らない誰かに、決められる筋合いはない」

闇が沈む。

声が変わる。

――なら、あなたは何?

フィアは答えようとして、止まった。

分からない。

まだ、分からない。

でも、それでいいのかもしれない。

レインが、面倒そうに文句を言う顔が浮かぶ。

ノエルが、真顔で変なことを言う顔が浮かぶ。

ラヴィニエが、何も分かっていなさそうで、全部分かっていそうに笑う顔が浮かぶ。

セシルが、真面目に眉をひそめる顔が浮かぶ。

王都の宿。

食卓。

喧嘩。

くだらない会話。

少しうるさい日々。

そこにいる自分は、何者だったか。

里で浮いていた子でもない。

光彩のせいで見られる誰かでもない。

ただ。

「フィア」

自分で、自分の名前を呼んだ。

闇が震えた。

「あたしがなにか、は、あたしが決める!」

声は小さかった。

けれど、闇に吸われなかった。

「全部は知らない。まだ知らない」

フィアは顔を上げる。

見えないはずの闇の中で、自分の光彩だけが、少し灯りを増している気がした。

「でも、あたしはフィア!あたしは…フィアリア!」

その瞬間。はっきりと、フィアリアの瞳の光彩が紋様を形どった。

闇の中で、光彩が輝く。

同時に、遠くで小さな光が瞬いた。

フィアは息を呑む。

「ミラ?」

返事はない。

けれど、光は消えない。

闇の奥で、ふるりと揺れる。

いつものような、淡い粒の光。

フィアは手を伸ばしかけて、止めた。

「ミラ」

フィアは、今度は静かに呼んだ。

「来て」

命令ではなかった。

助けて、でもなかった。

光が、応えた。

小さな粒が、闇を渡る。

フィアの肩口に、ふわりと灯る。

その瞬間、胸の奥で何かが噛み合った。

フィアは息を吐いた。

「…分かった」

彼女は、自分の中の光彩を閉じなかった。

今の自分が、戻りたい場所を知っている。

「行くよ、ミラ」

瞬間、光が瞬いた。

闇はまだ晴れない。

けれど、もう完全な暗闇ではなかった。

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