EP5 夜の公国ヴェスペラ 第37話 孵化
泥犬たちが、低く唸る。
ラヴィニエはモーニングスターを構えた。
影の薄い荒野に、祈りの声はまだ響かない。
一匹目が跳んだ。
ラヴィニエは鎖を振る。
いつもなら、鉄球は手の延長のように走る。
祈りが筋肉を支え、魔素の流れが重さを殺す。
鉄塊は祈りに乗り、敵を砕く。
けれど、今は違った。
鎖が遅い。
わずかに。しかし、あきらかに。
けれど、その遅れが、泥犬の爪を許した。
「……っ」
肩口を裂かれる。
血が落ちる。
ラヴィニエは一歩下がった。
祈りを灯そうとする。
白い光は、指先に生まれた。
だが、光は淡かった。
傷を塞ぎきるには足りない。
いつもなら自然に身体の奥へ巡るはずの力が、途中で霧散する。
泥犬が、さらに迫る。
ラヴィニエは、今度は武器を振らなかった。
横へ退いた。
鉄球が地面を打つ。
外れたのではない。
あえて、地面へ落とした。
鈍い音。
乾いた大地が砕け、灰色の土が舞った。
ラヴィニエはその隙に、体を沈めた。
「……なるほど」
彼女は呟いた。
「普段より魔素が少ない環境というわけですか」
確かめるように。
泥犬が吠える。
二匹目が横から来る。
ラヴィニエはそれを見た。
速くない。
いや、速い。
だが、見えないほどではない。
問題は、こちらがいつも通りに動こうとしていたことだった。
なら、いつもと同じことをしなければよい。
ラヴィニエは踏み込まなかった。
半歩だけずれた。
鎖を束ねて短く持つ。
鉄球を振り回すのではなく、手元で返す。
泥犬の顎が空を噛む。
その首筋に、鉄球の側面が入った。
砕くには足りない。
だが、逸らすには足りた。
泥犬の身体が横へ流れる。
ラヴィニエはそのまま、三匹目の突進をかわす。
肩の傷が痛む。
足が重い。
息が浅くなる。
けれど、彼女は笑った。
楽しそう、というほどではない。
苦しそう、というほどでもない。
ただ、新しい楽器の音を聞いたような顔だった。
「薄い場所には、薄い場所の拍があるのですね」
誰に向けた言葉でもなかった。
泥犬が再び囲む。
ラヴィニエは、今度は祈らなかった。
祈らないのではない。
声にしなかった。
白い光は、大きく灯らない。
その代わり、彼女の身体の内側で、葉脈の細い筋のように巡り始めた。
足へ。
肩へ。
手首へ。
鎖へ。
一瞬だけ。
必要なところへ、必要なだけ。
ラヴィニエの足が動いた。
泥犬の爪が、今度は空を裂く。
鉄球が跳ねる。
重い。
だが、無理やり重さに逆らうのでなく、動作に合わせて鉄球を操る。
一匹の前脚が砕けた。
泥犬が転がる。
ラヴィニエはその反動に逆らわず、鎖を巻き取った。
鉄球を引き戻す力で、自分の身体も半回転させる。
二匹目の顎をかわす。
三匹目の胴へ、肘を入れる。
強くはない。
派手でもない。
けれど、先ほどより無駄がない。
「……神の思し召しです」
ラヴィニエは静かに言った。
泥犬たちは、まだ倒れきっていない。
荒野はまだ続いている。
三日は長い。
傷も増えるだろう。
眠る場所も探さなければならない。
食べられるものがあるのかも分からない。
それでも、ラヴィニエはもう、最初の一歩とは違っていた。
薄いなら、より効率よく。
少ないなら、最適な分配を。
強くできないなら、一瞬に。
無駄にしない。
泥犬の一匹が、再び跳んだ。
ラヴィニエは鉄球を振るう。
今度は、大きくない。
けれど、外れなかった。
鈍い音が、灰色の荒野に響いた。
◇
三日目。閉じられたその空間が虚ろの胎へつながる道を示した。
ラヴィニエは、歩いて戻ってきた。
衣服は裂けていた。
肩にも、腕にも、脚にも、細かな傷がある。
モーニングスターには泥がこびりつき、鎖の一部は歪んでいた。
淡い光が薄く、細く、彼女の身体の周囲を巡っている。
ユーフェミアは、黒い水面の上でそれを見た。
「戻ったか」
「はい」
ラヴィニエは微笑む。
「よい荒野でした」
「よい荒野ってなんじゃ…」
「学びが多かったので」
「…やはり変な奴じゃ」
「よく言われます」
ユーフェミアは目を細めた。
「ふむ。
やはり天性、じゃの」
ラヴィニエは、自分の掌を見る。
そこに灯る白い光は、以前よりも小さい。
だが、揺れていなかった。
「魔素の運用効率じゃ」
「祈りです」
「おぬしのそのワード、万能すぎるじゃろ…」
ユーフェミアはそう言って、少しだけ顔をしかめる。
「よい。おぬしはそれでよい」
ラヴィニエは一礼した。
「神に感謝します」
「好きにせい」
ラヴィニエは本当に、好きにした。
そして、傷だらけのまま、静かに祈るような形で手を重ねた。
その白い光は、薄い。
けれど、確かにそこにあった。
◇
胸の奥で、白いものが揺れた。
そこへ沈めば、届く。
怖さも。
迷いも。
痛みも。
ぜんぶ遠くなる。
きっと、ユーフェミアに触れられる。
けれど。
それで触れたのは、誰なのだろう。
ノエルは膝をついたまま、自分の手を見た。
指先が、白い。
あの時と同じ色。
何も感じなくなる色。
何も迷わなくなる色。
私にもよくわからない力を奮える、色。
「……でも」
ノエルは、小さく呟いた。
「これも、私の中にある」
ユーフェミアの赤い瞳が、細くなる。
「ほう」
「私は、これになりたいんじゃない」
ノエルは、ゆっくり立ち上がる。
白いものは、まだ奥にある。
静かで、冷たくて、正しい。
そこに沈めばいいと、何かが囁く。
沈めば楽だと。
沈めば速いと。
沈めば迷わないと。
ノエルは首を横に振った。
「でも、いらないんじゃない」
白い気配が、わずかに揺れた。
「それは、私の力でもある」
声は小さかった。
けれど、今度は消えなかった。
「だから」
ノエルは、自分の胸に手を当てる。
「貸して」
白いものが、広がろうとする。
ノエルの瞳を染めようとする。
髪を浮かせようとする。
表情を消そうとする。
ノエルは、それを押し戻さなかった。
拒まなかった。
ただ、言った。
「全部はいらない」
白い光が止まる。
「私の声に、応えて」
その瞬間、足元に霜が咲いた。
広がらない。
世界を白く染めない。
ノエルの輪郭を消さない。
ただ、足元から一筋だけ、白い線が伸びる。
ユーフェミアが、一歩動いた。
その動きの先に、白が置かれる。
完全には止まらない。
だが、ほんの一拍、遅れた。
布の裾が、揺れるのを忘れたように。
ノエルは手を伸ばす。
今度は、白に引かれて動いたのではない。
自分で踏み込んだ。
怖い。
痛い。
届かないかもしれない。
それでも、手を伸ばす。
指先が、ユーフェミアの袖を掠めた。
ほんの少し。
触れた、と言うには軽すぎる。
けれど、確かに布の感触があった。
ノエルはその場に膝をついた。
息が荒い。
指先が震えている。
ユーフェミアは自分の袖を見る。
薄い霜が、ひとひらだけついていた。
「届いたの」
ノエルは顔を上げる。
「……うん」
ユーフェミアは、少しだけ、口角を上げた。
「ならば、半歩じゃ」
「半歩?」
「そうじゃ。今のおぬしは、力に呑まれず、力を呼んだ」
ノエルは黙って聞く。
「じゃが、まだ借りただけじゃ。使いこなしたとは言わぬ」
「うん」
ノエルは頷いた。
「でも、聞こえた」
「何がじゃ」
「私の声」
ノエルは自分の胸元に手を置いた。
「私が呼んだら、少しだけ応えた」
白い力は、まだ奥にある。
怖い。
でも、もうただ怖いだけではない。
自分の中にある、まだ知らない力。
ノエルは小さく息を吐いた。
「もう一回、できる」
ユーフェミアはくつりと笑った。
「よかろう」
そして、片手をひらひらと振る。
「では、もう一度じゃ。白い小娘」
「うん」
「次は、袖ではなくわらわに触れよ」
ノエルは立ち上がる。
足元に、薄い霜が咲いた。
白い静けさに呑まれぬように。
自分の声に応えた力を、もう一度呼ぶために。




