EP5 夜の公国ヴェスペラ 第36話 それぞれの試練
フィアの道は、途中で消えた。
正確には、足元にあったはずの赤黒い線が、ふっと途切れた。
「……え?」
次の瞬間、何も見えなくなった。
完全な暗闇。
帽子のつばも、手のひらも、足元も見えない。
フィアは反射的に手を上げた。
「ミラ」
返事はない。
光も灯らない。
「……ミラ?」
もう一度呼ぶ。
何もない。
胸の奥が、嫌な音を立てた。
フィアは唇を噛む。
「なにこれ。趣味悪すぎでしょ」
声が、闇に吸われる。
魔素を探る。
術式を組もうとする。
だが、感覚が返ってこない。
見えない。
掴めない。
流れない。
フィアは舌打ちした。
「…はいはい。そういうやつね」
軽く言った。
軽く言わないと、少し怖かった。
―
――――
――遠くで、声がした。
――気味が悪い。
フィアの表情が止まる。
闇の奥で、誰かが囁いている。
――同じエルフなのに。
――あれは違う。
――見ない方がいい。
フィアは、拳を握った。
「……うるさい」
声は止まらない。
見えないはずなのに、確かに見られている。
たくさんの目。
たくさんの囁き。
フィアは帽子を押さえようとして、そこに帽子の感触がないことに気づいた。
「……は?」
何もない。
服も、杖も、ミラも。
自分を飾っていたものが、すべて闇に溶けている。
ただ、光彩だけが。
自分の目の奥にある光だけが、消えずに燈っていた。
「…最悪!」
フィアは笑おうとした。
けれど、うまく笑えなかった。
深淵が、さらに深さを増した。
◇
ラヴィニエが踏み出した先には、灰色の荒野が広がっていた。
空は低い。
風は乾いている。
大地は白く割れ、ところどころに黒い枯れ木が突き出していた。
ヴェスペラの夜の美しさは、そこにはない。
ラヴィニエは一歩歩いて、首を傾げた。
「……あら」
身体が重い。
モーニングスターを担ぐ肩に、いつもよりずっしりとした重みが乗る。
手を開く。
祈りを灯す。
白い光は出た。
だが、弱い。
いつものような厚みがない。
薄い布を通した月明かりのように、頼りなく揺れている。
ラヴィニエはそれを見て、少しだけ微笑んだ。
「なるほど」
周囲の魔素が薄い。
ないわけではない。
ただ、薄い。
遠くで、低いうなり声がした。
灰色の獣が、枯れ木の影から現れる。
一匹。
二匹。
三匹。
痩せた犬のような魔物だった。ただし、体表が泥のようなもので構成されていて、目だけが異様に光っている。
ラヴィニエはモーニングスターを持ち直した。いつもなら、重さなど感じない。
初撃で砕だろう。
けれど、今は違う。
鎖が重い。
足場も悪い。
祈りも薄い。
ラヴィニエは、静かに言った。
「…三日、でしたね」
泥犬が跳んだ。
ラヴィニエは避けた。
避けたつもりだった。
爪が肩を掠める。
布が裂け、血が滲む。
「……くっ」
痛みが、いつもより深く届いた。
ラヴィニエは、その痛みを少し不思議そうに見た。
それから、微笑む。
「…これは、学びが多そうです」
泥犬たちが、低く唸る。
ラヴィニエはモーニングスターを構えた。
薄い荒野に、祈りの声はまだ響かない。
どこかで、それを見つめる視線があった。
◇
セシルの道の先には、静かな水面があった。
いや、水面のように見える床だった。
蒼黒く、平らで、どこまでも澄んでいる。
水面が揺れる。
そこに、セシルの姿が映った。
鎧。
剣。
整った姿勢。
いつもの自分。
そう思った瞬間、水面の中のセシルが、笑った。
セシル本人は笑っていない。
映った方だけが、口元を歪めていた。
水面が盛り上がる。
映っていた影が、ゆっくりと床の上へ立ち上がった。
同じ顔。
同じ背丈。
同じ剣。
だが、違う。
目が違う。
その影は、セシルを見て、薄く笑った。
「ずいぶん綺麗な顔をしているな」
セシルは剣を抜いた。
「…あなたは、誰ですか」
影は笑う。
「それを聞くのか」
剣先が、セシルへ向く。
「貴様、だよ」
セシルの手に、力が入った。
水面の上で、二人のセシルが向かい合う。
そして、影の方が先に踏み込んだ。
剣筋は荒い。
だが、速い。
セシルは受けた。
重い。
怒りそのものを叩きつけられたような一撃だった。
セシルの足が、半歩沈む。
影が笑う。
「ほら」
刃が、再び振り下ろされる。
「受け止めてみろよ、平等な騎士様」
セシルの表情が、わずかに揺れた。
その一瞬を、影は見逃さなかった。
剣が、さらに深く踏み込んでくる。
セシルは歯を食いしばり、剣を押し返した。
だが、水面の上に残った波紋は、しばらく消えなかった。
◇
ノエルの前には、何もなかった。
黒い床。
遠くに浮かぶ墓標のような柱。
そして、小さな少女。
ユーフェミアは、ただそこに立っていた。
構えもない。
術式の気配もない。
手には何も持っていない。
それなのに、ノエルは一歩目を踏み出せなかった。
近い。
少し踏み出して、手を伸ばせば届きそうな距離にいる。
だが、その距離が、どこまでも遠く感じられた。
「白いの」
ユーフェミアが言う。
「わらわに触れよ。追いかけ鬼じゃ」
ノエルは瞬きをした。
「触れる?」
「そうじゃ。一度届けば、それでよい」
「……それだけ?」
「それだけじゃ」
簡単なように聞こえた。
だが、簡単なはずがなかった。
ノエルは自分の手を見る。
「ただし」
ユーフェミアの赤い瞳が、細くなる。
「制限時間は一刻」
ノエルの指が、かすかに動いた。
「……うん」
「時が過ぎれば、その時点で終わりじゃ。覚悟せい」
ユーフェミアは、ノエルの力を使わせようとしている。
制限時間を設けたことからもそれは読み取れる。
その時点で、終わり。というのは、ノエルの無事を保証しない。
焦れば、奥にある白いものへ手を伸ばしたくなる。
「…分かった」
本当は、分かっていない。
あの力が何なのか、ノエルには、まだ分からない。
それでも、やると決めた。
足元に、霜が走った。
黒い床の上を、白い線が静かに這っていく。
ノエルはその上を滑るように踏み込んだ。
手を伸ばす。
ユーフェミアは動かない。
届く。
そう思った瞬間、ユーフェミアは一歩だけ横へずれていた。
本当に、一歩だけ。
それだけで、ノエルの指先は空を掴んだ。
「……」
「遅い」
ユーフェミアの声は淡々としていた。
ノエルはもう一度踏み込む。
霜を広げる。
床を凍らせる。
ユーフェミアの足元を止めようとする。
だが、止まらない。
凍るより早く、そこにいない。
ノエルは手を伸ばす。
冷気を重ねる。
足元から霜を伸ばす。
届かない。
何度やっても、届かない。
ユーフェミアは攻撃してこない。
避けるだけ。
それなのに、ノエルの息は少しずつ乱れていった。焦りに似た感覚に支配される。
「今のままでは永遠にわらわに触れることはかなわんな」
ユーフェミアが言う。
「……うん」
分かっている。
分かっている。
胸の奥で、白いものが揺れた。
静かな場所。
そこへ沈めば、もっと見える。
もっと速く動ける。
もっと正確に、届く。
怖さも。
迷いも。
痛みも。
全部、遠くなる。
ノエルの瞳の奥が、わずかに白く濁る。
「ほう」
ユーフェミアの声が、落ちた。
指先が軽く弾かれる。
小さな音。
次の瞬間、ノエルの足元に広がっていた霜が、砕けた。
「その感覚を覚えよったか」
「……っ」
ノエルは膝をつく。
痛くはない。
けれど、胸の奥にあった白いものを、乱暴に引き剥がされたような感覚があった。
ユーフェミアは、ノエルを見下ろしている。
「じゃが、それだけでは、半分じゃ。それでは、おぬしではない」
ノエルは、自分の手を見る。
まだ白い。
ほんの少しだけ。
指先に、冷たい色が残っている。
「でも」
声が漏れた。
「届かない」
「届かぬな」
「白くなれば、届くかもしれない」
「かもしれぬ」
ユーフェミアは否定しなかった。
「白化、とでも名付けようか。確かに、今のおぬしがわらわに触れる可能性があるのは、それ、じゃろう。じゃが、再び戻ってこれるのか」
ノエルは答えられなかった。
誰。
自分。
違う。
たぶん、違う。
あの白い静けさに沈んだ自分は、強い。
迷わない。
間違えない。
けれど。
戻ってこられるのか、分からない。
「守りたいのじゃろう」
ユーフェミアが言った。
ノエルは小さく頷く。
「うん」
「どこへ帰る」
その問いに、ノエルの手が止まった。
帰る。
レインがいる。
フィアがいる。
ラヴィニエがいる。
セシルがいる。
名前を呼んでくれる場所がある。
怒る声。
笑う声。
変なことを言う声。
静かに隣に立つ気配。
そこへ、戻りたい。自分も、そこにいたい。
ノエルは、ゆっくりと立ち上がった。
白いものは、まだ奥にある。
沈めば楽になる。
届くかもしれない。
「私は」
ノエルは、小さく呟いた。
「戻る」
ユーフェミアの口元が、ほんの少しだけ動いた。
「ならば、来い」
ノエルは頷き、一歩、踏み出した。
白いものは、まだ奥にある。
けれど、ノエルは沈まなかった。
一歩。
その足元に、薄い霜が咲いた。




