EP5 夜の公国ヴェスペラ 第35話 いざない
扉の向こうは、広間ではなかった。
どこをどのように通ったのか、わからない。長く歩いたようにも、あっという間に扉にたどり着いたようにも思える。城の中であったはずだが、方向感覚がなく、時間の感覚も狂っていた。
部屋、ではなかった。空間。壁はない。
天井もない。自分たちが踏んでいる地面の感覚が心もとなくなる。
歩くたびに、底のない水面を踏んでいるような感触が返ってくる。
視界の果てには大きな月のようなものが淡く燈っており、遠くに墓標のような黒い柱がいくつも浮かんでいた。
上下の感覚が曖昧になる。
足元に空があるようにも、頭上に地面があるようにも見えた。
レインは一歩踏み込んで、すぐに顔をしかめた。
「……なんだここ」
「光栄に思え。わらわがここに人を招くなど、滅多にないことじゃ」
ユーフェミアが言った。
「?」
「とはいえ、進むのはここまでじゃ。奥まで連れていけば、おぬしらの何人かは戻れなくなるかもしれんの」
「…今すぐ帰っていいか?」
「逃げるか?」
「…ちっ、確認しただけだ」
フィアが帽子を押さえながら、周囲を見回す。
「空気が変。広いのか狭いのか分かんない」
「空間の感覚がずれています」
セシルが低く言った。
手は剣に触れている。
ノエルは、黙って自分の手を握っていた。
ラヴィニエは、目を閉じるでもなく、ただ少しだけ首を傾げる。
「ここは、静かですね」
「静か?」
レインが言う。
「うん」
ノエルが小さく頷いた。
「でも、何かいる」
「…やめてくれ、こえぇから」
レインは即座に言った。
「そういうの、今いらねえ」
ユーフェミアは足を止めた。
その背後に、アルヴァロスが控える。
四家当主たちも、少し距離を置いて並んでいた。
「さて。ここいらでよかろう。わらわが呼んだもの以外は離れておれ」
ユーフェミアが振り返る。
「見せよ」
レインが眉を寄せる。
「何を」
「おぬしらが普段使こぉとるものじゃ。隠すな。できることを、そのまま見せよ。見立ててやろう」
その声は軽かった。
だが、誰も笑わなかった。
「小僧」
「俺からかよ」
「口が悪い順じゃ」
「ならフィアが先だろ」
「は?」
フィアが振り向く。
「レインにだけは言われたくないんだけど」
ユーフェミアが面倒そうに言った。
「まずは小僧じゃ。アル」
「はい」
アルヴァロスが一歩前へ出た。
ただ歩いただけだった。
それだけで、空気が重くなる。
レインは舌打ちした。
「王様が相手かよ…全力でやっていいんだな?」
「殺す気でやれ。もっとも無理じゃがな」
「俺が殺される可能性は考慮されてんのか?」
「しとらん。そのときはそのときじゃ」
ユーフェミアは当然のように頷いた。
「…あんまり、長くはできねぇぞ…」
レインは深く息を吐き、意識を集中する。
――レインの周囲に、煤が生まれた。
◇
続いて、ノエル、フィア、ラヴィニエが、アルヴァロス相手に術式やスキルを披露していく。
セシルは一礼し、剣を抜いた。
構えは美しかった。
無駄がない。
足運びも、呼吸も、視線も、剣先の角度も。
一つ一つが整っている。
セシルが踏み込む。
白い光が剣に沿い、刃の軌跡を強める。
次に盾。
光の壁が展開する。
美しい。
乱れがない。
さらに、剣へ戻す。
防御から攻撃への切り替えも速い。
レインは素直に思った。
練り上げられた基礎の上に技術が成立している。
やはり、こいつは強い。
フィアも黙って見ている。
ノエルは目で動きを追い、ラヴィニエはどこか楽しそうに微笑んでいた。
ユーフェミアは、最後まで黙っていた。
セシルが剣を下ろす。
「以上です」
「綺麗じゃな」
ユーフェミアが言った。
セシルはわずかに目を伏せる。
「ありがとうございます」
「褒めてはおらぬ」
「……そうですか」
「騎士崩れ。おぬしには、おぬしをぶつける」
セシルの表情が、わずかに固まった。
「私を?」
「そうじゃ」
「意味が分かりません」
「分からぬまま受けよ」
セシルは黙った。
そして、五人を改めて見る。
「見立ては終わりじゃ」
その声が、虚ろの胎の端に響く。
「小僧は、特殊術式の制御。自分を壊さぬように」
レインが顔をしかめる。
「白い小娘は、わらわが見る」
ノエルは小さく頷いた。
「エウレカの末には、ひとつ術を施す。せいぜい足掻け」
フィアが嫌そうな顔をする。
「やな感じ…」
「そこのおかしな聖職者は、サバイバルじゃな。祈りが通ずるなら戻ってこられるじゃろう」
「はい」
ラヴィニエは普通に頷いた。
「騎士崩れは、己を見よ。見てなお立てるなら、新たな境地に立てるかもしれん」
セシルは静かに一礼する。
「承知しました」
その横で、レインが小さく言う。
「……お前の試練も嫌な感じだな」
「あなたに言われるとは思いませんでした」
「俺のも嫌な感じだからな」
「それは否定しません」
フィアが深く息を吐く。
「結局、全員最悪じゃん」
「今さらじゃ」
ユーフェミアが言い、満足したように息を吐いた。
「では、始めるか」
ユーフェミアは面倒そうに手を振った。
その瞬間、足元の黒い水面めいた床に、五つの細い光が走った。
光、と言っても明るくはない。
夜の底に爪を立てるような、赤黒い線。
それぞれが別の方向へ伸びていく。
「道を分ける」
レインが顔を上げる。
「全員ばらばらかよ」
レインは短剣を握り直す。
ノエルは手を胸元で重ねる。
フィアはミラの光を横目で見た。
ラヴィニエは祈らない。
セシルは剣を鞘に戻した。
その音を合図にしたように、五つの道が、それぞれ淡く脈打った。
レインは舌打ちをして、最も赤黒く濃い道へ向かう。
ノエルは、ユーフェミアの前に残った。
フィアはミラを肩に浮かべたまま、暗い道へ足を向ける。
ラヴィニエは、何も持たずに歩き出しかけ、途中で思い出したようにモーニングスターを担いだ。
セシルは、一度だけ皆を見る。
「無事に戻りましょう」
「お前もな」
レインが言った。
「はい」
ノエルが小さく頷く。
「戻る」
フィアは帽子を押さえて笑った。
「じゃ、あとで。誰か死んでたら怒るから」
ラヴィニエが微笑む。
「では、皆さまに神のご加護を」
「不吉なフラグ立てるんじゃねぇ!」
レインが言った。
それぞれが、それぞれの道へ入る。
背後で、ユーフェミアの声が落ちた。
「よいか」
五人が、同時に足を止める。
「死なぬようにな」
短い言葉だった。
レインは振り返らずに言う。
「言われなくても」
レインは歩き出した。
黒い道が、彼を飲み込む。
それぞれが、それぞれの夜を見る。
虚ろの胎の奥で。
五つの試練が、静かに口を開けようとしている。
◇
レインが踏み込んだ先は、熱かった。
いや、熱いというより、密度が濃い。
空気そのものが重い。
息をするたびに、肺ではなく、全身の傷口から何かが流れ込んでくるような感覚があった。
レインは一歩進んだだけで、顔をしかめた。
「……なんだ、これ」
眼前には、巨大な黒い岩が転がっていた。
岩、というには不自然だった。
表面に赤い線が走り、内側で何かが脈打っている。
ただの鉱石ではない。
まるで、夜の心臓のような塊だった。
その前に、ユーフェミアの声が響いた。
姿は見えない。
だが、声だけが近い。
『小僧』
「どこから喋ってんだ」
『それを壊せ』
「説明しろ」
『壊せばよい』
「だから説明しろって言ってんだよ」
『おぬしの黒い火か荊でなければ、壊れぬ強度じゃ』
声は、少しだけ楽しそうだった。
レインは岩を見る。
「なんだかわかんねーが、岩の一つや二つ。試練ってのは思ったよりちょろいのか?」
レインは集中し、獄炎装の術式を発動させようと――
――膨大なエネルギーの奔流が。レインの中に一気に流れ込んできた。
瞬間。
爆発的に煤が生じ、同時に黒炎がレインを包んだ。
全身の内外が、焼けた。
「っ、が……!ぐあ!」
レインの膝が落ちた。術式の発動を中断する。
だが、生じた黒炎はなおもレインを焼き続ける。
痛い。
だが、痛いだけではない。
怨嗟の念がレインを支配しようとする。
レインは歯を食いしばる。己を保とうとするが、痛みと、自分のうちから生じた衝動に、ままならない。
燃やせ。
壊せ。
砕け。
全部、灰にしろ。
そんな声が、自分の奥から湧いてくる。
「……っ、黙れ」
誰に向けた言葉だったのか、レイン自身にも分からなかった。
黒炎は消えていない。
いや、消したはずだった。
術式は切った。
意識も外した。
なのに、身体の奥に入り込んだ火だけが、まだ残っている。
皮膚を焼く。
骨を焼く。
意識を焼く。
喉の奥に、黒い煤の味がこびりつく。
膝をついたまま、レインは黒い岩を睨んだ。
「……なん、なんだ?」
声は掠れていた。
どこからともなくユーフェミアの声が響いた。
『やはりな。そのまま続ければ、岩を壊す以前に、小僧が燃え尽きるじゃろう』
「…」
『自覚したか。なぜそうする』
「……」
レインは答えられなかった。
なぜ。
そんなもの、考えたことがなかった。
必要だから使った。
それだけだ。
ずっとそうしてきた。
「……壊すには、使うしかないんだろ?」
『違う』
ユーフェミアの声は短かった。
『小僧。おぬしは、力を使っておるのではない』
「じゃあ、なんだよ」
『力に吞まれておるのじゃ』
レインは眉を寄せた。
「……意味分かんねえ」
『分からぬなら、そこで焼かれておれ』
声が消えた。
「おい」
返事はない。
レインは舌打ちし、よろめきながら立ち上がった。
身体が重い。
重いのに、内側だけがやけに熱い。
自分の輪郭が、熱の中でほどけていく。
黒炎を使った後の感覚は、いつもこうだった。
そして、今も。
だが、ここは濃すぎる。
周囲に満ちるエネルギーが、皮膚の外側でうねっている。
大気のようにある。
触れた瞬間、こちらの隙間へ入り込んでくる。
「……」
黒炎を出そうとする。
瞬間、また奔流が来る。
「っ……!」
すぐに切る。
黒い煤が散り、レインの腕を焼いた。
「ぐ、っ……!」
また膝が折れかける。
だが、今度は倒れなかった。
レインは奥歯を噛み、息を吐く。
「……わかん、ねぇ…」
口にして、ようやく分かった。
考えたこともなかった。
これまで、自分自身ができることを必死にやってきた。
これ以上、取りこぼさないために。失わないために。
伸ばした手を届かせるために。
その後に自分がどうなるかなんて、考えていなかった。
考えないようにしていた。
「……もう」
レインは顔を上げる。
「失いたくないんだよ」
誰に言ったわけでもない。
けれど、その言葉は、自分の中へ落ちた。
守りたいものが目の前にあっても、身体が動かなければ意味がない。
必要なのは。
生きて、その先に繋ぐための力だ。
黒炎を呼ぶ。
奔流が来る。
怒りでもない、痛みでもない何かが、胸の奥で跳ね上がる。
その瞬間、レインはそれを押し返そうとした。
違う。
押し返すのではない。
全部を拒むのでもない。
全部を受けるのでもない。
「……っ」
黒い火種が生まれた。
だが次の瞬間、火種は暴れ、腕へ広がろうとする。
レインは歯を食いしばった。
「させねぇ!」
火は暴れる。
もっと燃えようとする。
もっと壊そうとする。
もっと喰おうとする。
自分に言い聞かせるように、レインは叫んだ。
黒炎が震えた。
骨の奥が焦げるような痛みは残る。
喉には煤の味がある。
「……は」
笑いが漏れた。
レインは額の汗を拭った。
腕は震えている。
身体中が痛い。
濃すぎる夜の中で、黒い火がまた灯る。




