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EP5 夜の公国ヴェスペラ 番外編 血王の執務


アルヴァロス=ブラッドベインは、ヴェスペラ公国の王である。

表の王。

夜の公国を統べる血族の頂点。

四夜公家を束ね、眷属たちの秩序を保ち、外界との均衡を維持する者。

そう書くと、たいへん威厳がある。

実際、彼は威厳に満ちていた。

長い髪。

静かな赤い瞳。

黒衣に包まれた長身。

一言発するだけで場の空気が沈むような存在感。

ただし。

内心は、だいたいこうだった。

――ユーフェミア様は、果実を気に入られただろうか。

その一点である。

「陛下」

執務室に、カレラが書類束を持って現れた。

アルヴァロスは顔を上げる。

「何でしょう」

「本日の内政案件です」

「置いてください」

「外交案件もございます」

「置いてください」

「四家間調整案件もございます」

「置いてください」

「ユーフェミア様の果実納入経路についての相談もございます」

アルヴァロスの視線が、明らかに変わった。

「それは先に」

カレラは一礼した。

「承知しました」

執務室の空気が、少しだけ引き締まる。

隣に控えていたニルは、内心で思った。

そこからなんだ。

国政より先に果実なんだ。

けれど、口には出さなかった。

なぜなら、アルヴァロスが真剣だったからである。

カレラは一枚の報告書を広げた。

「ユーフェミア様が先日召し上がった薄灯果ですが、種が少なく酸味も控えめであったため、比較的好評でした」

「比較的」

アルヴァロスは静かに反芻した。

「はい。『まあまあじゃ』とのことです」

「最高評価に近いですね」

ニルは思わず顔を上げた。

最高評価?

あれが?

カレラは淡々と続ける。

「ただし、今季は黄昏の森側の霧濃度が上がっており、納入量が三割ほど減少する見込みです」

アルヴァロスの瞳が細くなる。

「対策は」

「第一案。輸送路を東側へ変更。ただし魔物の発生率が上がります」

「護衛を増やしてください」

「第二案。温室区画の増設」

「許可します」

「第三案。代替果実として夜葡萄を加工」

「種は」

「除去可能です」

「酸味は」

「蜂蜜で調整可能です」

「それで構いません」

決定は速かった。

国家予算が動いた瞬間だった。

ニルは資料を抱えながら、静かに震えた。

果実で、温室区画が増えた。

しかし、反論はできない。

ユーフェミア様案件だからである。

 ◇

「では、次に内政案件です」

カレラが資料をめくる。

「南街区の夜灯りが老朽化しています。修繕費用の申請です」

「通してください」

「即決ですね」

「灯りが消えれば治安が落ちます」

「承知しました」

アルヴァロスは、淡々と判を押す。

「次に、血療院の薬草備蓄についてです。ロゼノワール家より、冬期備蓄を例年の一・二倍へ引き上げる提案が」

「通してください」

「理由を確認されますか」

「イヴェットが提案したのでしょう」

「はい」

「では、必要なのでしょう」

「承知しました」

ニルは、少し感心した。

雑に見えて、判断の筋は通っている。

専門家が専門分野で必要と言うなら通す。

王が細部に口を出して遅らせない。

これは、合理的だった。

そこへ、扉が勢いよく開いた。

「陛下! ロゼノワール家副官ウルティマ、記録補足に参りました!」

「入りなさい」

ウルティマは記録板を抱えて飛び込んでくる。

「血療院の備蓄増量についてですが、イヴェット様の判断は完璧です! 昨季の夜冷えによる血流停滞症例が微増、加えて外界交流が増加した場合、異種体質者の救護対応が必要となる可能性があり、事前備蓄は極めて妥当! つまり、イヴェット様は未来を見ています!」

「見てはいません」

いつの間にか、イヴェットも部屋に入っていた。

「計算しただけ」

「計算で未来を捉える! それを人は叡智と呼びます!」

「呼ばないわ」

アルヴァロスは二人を見た。

「備蓄増量は承認しました」

イヴェットは短く頷く。

「感謝します」

ウルティマは胸を押さえた。

「陛下! この御恩、ロゼノワール家記録部門は永遠に――」

「ウルティマ」

アルヴァロスは何も言わなかった。

この国は、だいたいこれで回っている。

 ◇

「次は外交案件です」

ニルが資料を差し出した。

「隣接する人間領の商会から、夜光石の輸出量増加について打診が来ています」

アルヴァロスは資料に目を通す。

「条件は」

「銀貨決済、黒麦輸入枠の拡大、通行税の一部減免を求めています」

「却下」

即答だった。

ニルが瞬きをする。

「理由をお伺いしても?」

「夜光石は灯りだけでなく、境界標識にも使います。輸出量を増やしすぎれば、こちらの街道整備に支障が出ます」

「はい」

「黒麦輸入枠は拡大して構いません。通行税は減免しません。代わりに輸送護衛の共同負担を提案してください」

「承知しました」

「あと、文面は柔らかく」

ニルは目を丸くした。

「柔らかく、ですか」

「人間領は、こちらが少し断るだけで威圧と受け取ることがあります」

「……確かに」

「『貴商会との長き交流を重んじ』から始めるとよいでしょう」

ニルは慌てて書き留めた。

「意外です」

「何がでしょう」

「いえ……陛下は外交文面までご覧になるのですね」

アルヴァロスは静かに答えた。

「外に向ける言葉は、刃より長く残ります」

ニルは息を呑んだ。

やはり、この方は王なのだ。

冷静で、視野が広く、国を見ている。

そう思った瞬間、アルヴァロスはカレラへ向いた。

「ところで、ユーフェミア様への夜葡萄加工案ですが」

ニルはうつむいた。

戻った。

国政から果実へ。

いや、でも国政もちゃんと見ていた。

見ていた上で戻った。

これはこれで、すごいのかもしれない。

 ◇

次に入ってきたのは、ノアだった。

「やあ、陛下。ご機嫌麗しゅう。街道の舗装路、直しておきましたよ」

「ありがとうございます」

「でも、東側の森道はしばらく閉鎖した方がいいかも。変な穴が増えてる」

「どの程度ですか」

ノアは指を三本立てた。

「馬車が半分消えるくらい」

ニルの顔が青くなった。

「重大事故では!?」

ノアは首を傾げる。

「半分だから、まだ戻せるよ?」

シアンが後ろから即座に言った。

「ノア様。一般的には、馬車が半分消える時点で重大事故です」

「そっか」

「そうです」

アルヴァロスは少し考えた。

「東側森道を一時閉鎖。迂回路を周知してください。商会には遅延補償を認めます」

ニルが頷く。

「はい」

「ノア」

「なに?」

「穴は塞げますか」

「塞げるけど、三日くらいかかる」

「必要な人員は」

「シアン」

「ノア様」

「あと、寝床」

「作業計画を出してください」

シアンが即座に一礼する。

「本日中に提出します」

ノアは笑った。

「シアンが出すって」

「あなたも確認してください」

「えー」

「ノア様」

「はい」

アルヴァロスは判を押した。

「それで構いません」

その一言で、街道封鎖と補償と修復が決まった。

ニルはまた思った。

それで構いません、が強すぎる。

 ◇

次は、オルフェリアだった。

ニルの肩が、目に見えて強張った。

「姉さま……」

「まあ、そんな顔をしなくても」

オルフェリアは扇を開き、優雅に微笑んだ。

「わたくしは本日、真面目な提案を持ってきましたの」

ニルは警戒を解かなかった。

「内容は」

「観光資源の活用ですわ」

レインたちを観光案内したことが、どうやら彼女の中で何かに火をつけたらしい。

オルフェリアは資料を差し出す。

「外界向けに、ヴェスペラの夜景、夜光花、黒麦菓子、血療文化の一部を公開する観光導線を整えるのはいかがかしら」

ニルは目を瞬かせた。

「……まともです」

「失礼ですわね」

「いえ、本当にまともなので驚きました」

「ニル?」

オルフェリアは微笑んだまま声だけを甘くする。

ニルは背筋を伸ばした。

アルヴァロスは資料を見る。

「悪くありません」

「でしょう?」

「ただし、落涙崖、血井戸、骨灯りの地下道は除外してください」

オルフェリアは残念そうに扇を伏せた。

「目玉ですのに」

「事故になります」

「少しですわ」

「事故は少しでも事故です」

ニルは小さく頷き続けた。

その通りです。

本当にその通りです。

アルヴァロスは続ける。

「夜景回廊、眠り薔薇の庭の外縁部、市場、記憶堂。この四箇所なら許可します」

「資料庫は?」

「一般公開しません」

「つれませんわね」

「読んだ者が戻れない詩集がある場所を公開する気ですか」

「禁閲覧棚に入れれば」

「鍵を開ける者がいるでしょう」

全員が、ゆっくりテオドーラの方を見た。

テオドーラは執務室の隅で寝ていた。

なぜいるのかは、誰にも分からない。

カレラだけが平然としていた。

「テオドーラ様は、本日も通常です」

「通常とは」

ニルは小声で呟いた。

アルヴァロスは判を押す。

「観光導線整備は許可。ただし、安全管理責任者はニルとします」

「私ですか!?」

ニルが声を上げる。

オルフェリアは嬉しそうに笑った。

「よかったですわね、ニル」

「よくありません! 姉さまを止める役ではありませんか!」

「適任です」

アルヴァロスが言った。

ニルは何も言えなくなった。

適任。

それは、否定できなかった。

 ◇

次に、テオドーラが目を開けた。

正確には、半分だけ開けた。

「……陛下」

「何でしょう」

「眠り薔薇の庭の、寝台を増やしてください」

ニルが頭を抱えた。

「公共事業に私用寝台を混ぜないでください……」

テオドーラは首を傾げる。

「……観光客も眠れます」

「眠らせないでください!」

カレラが静かに補足する。

「実際、庭園外縁部に休憩所を設ける案は有用です。睡眠香の影響を受けた来訪者の一時退避場所として機能します」

ニルは止まった。

「……まともな理由がついてしまいました」

アルヴァロスは頷く。

「休憩所の設置を許可します。ただし、深眠区画からは離してください」

「……残念」

テオドーラが言う。

「深眠区画とは何ですか」

ニルが聞く。

カレラが答える。

「起きるのに通常二週間ほどかかる区域です」

「観光地に入れないでください!」

「入れません」

「ならよかったです!」

テオドーラはまた眠った。

提案は通った。

ニルは、なぜか負けた気持ちになった。

 ◇

執務は続く。

黒麦税の調整。

夜灯り職人への補助。

血療院の人員配置。

黄昏の森の境界巡視。

人間領との交易文書。

眷属化に関する古い規則の改訂。

市場に出回る怪しい赤い瓶詰めの規制。


アルヴァロスは判を押す。

ニルは資料に記入する。

国の法とは、こうして定められていくのだとわかった。

 ◇

やがて、すべての案件が終わった。

書類の山はなくなり、判の押された文書が整然と積まれている。

ニルは疲れ切っていた。

カレラは変わらない。

イヴェットも変わらない。

ノアは途中で一度寝かけ、シアンに起こされた。

オルフェリアは楽しそうだった。

テオドーラは結局ずっと寝ていた。

ウルティマは三回黙らされ、四回記録を再開した。

アルヴァロスだけは、最初から最後まで姿勢を崩さなかった。

ニルは、少しだけ尊敬の目で彼を見る。

やはり、この方は王なのだ。

関心が薄く見えても、判断は速い。

任せるべき相手を間違えない。

止めるべきものは止める。

通すべきものは通す。

ヴェスペラという特殊すぎる国が崩れないのは、この王がいるからなのだろう。

そう思った時。

アルヴァロスが、ふとカレラに尋ねた。

「ところで、ユーフェミア様の昼餉は」

ニルは静かに天を仰いだ。

戻った。

やっぱり戻った。ユーフェミア様に。

カレラは即答した。

「果実を使用した冷製菓子を予定しております。種は除去済み。酸味は抑え、夜蜜を添えています」

アルヴァロスは、ほんのわずかに表情を和らげた。

「それで構いません」

今日一番、満足そうだった。

その瞬間、扉が開いた。

ユーフェミアが入ってくる。

「アル」

「はい」

アルヴァロスは即座に立った。

「甘いものはまだか」

「すぐに」

執務室の全員が見た。

国を動かしていた王が、今この瞬間、完全に別の生き物になった。

アルヴァロスは自ら皿を受け取り、ユーフェミアの前に置く。

「種は取り除いてあります」

「うむ」

「酸味も抑えてあります」

「よい」

「夜蜜は別添えです」

「分かっておるではないか」

ユーフェミアは満足そうに菓子を食べた。

アルヴァロスは、その様子を静かに見ている。

ニルは思った。

この国は、意外とちゃんと回っている。

ただし、中心には政治理念ではなく、甘い果実を食べる小さな真祖がいる。

それでいいのだろうか。

いや。

たぶん。

ヴェスペラでは。

それで構いません、なのだ。

ユーフェミアが菓子を一口食べて言った。

「まあまあじゃ」

アルヴァロスは深く頷いた。

「最高評価に近いですね」

ニルは、もう何も言わなかった。


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