EP5 番外編 ヴェスペラ食文化紀行 ――血ではないと言われても。
ヴェスペラ公国の朝は、朝ではない。
夜が少しだけ薄くなる。
空の黒が、紫にほどける。
城の尖塔にかかる霧が、眠たげに揺れる。
それを、この国の者たちは「朝」と呼ぶらしい。
「いや、朝じゃねえだろ」
レインは窓の外を見て、率直に言った。
「空、暗いし」
「ですが、先ほど使用人の方が『朝餉の準備が整いました』と」
セシルが律儀に訂正する。
「朝餉って言われてもな」
フィアがあくびをしながら椅子に座った。
「夜じゃん。完全に夜じゃん。なんならここにきてから、ずっと夜じゃん」
「夜の公国ですから」
ラヴィニエが穏やかに言った。
「そこ納得するとこか?」
「神の御業です」
「絶対ちがう」
ノエルは窓の外をじっと見ていた。
「暗い朝」
「そうだな」
「嫌いじゃない」
「お前はそう言いそうだな」
そんな会話をしていると、扉が静かに開いた。
現れたのは、カレラだった。
完璧に整った姿勢。
隙のない服装。
眠気の欠片もない表情。
その背後には、銀の盆を持った眷属たちが並んでいる。
「皆様。ヴェスペラ式の朝餉をお持ちしました」
レインたちは、卓に並べられていく料理を見た。
黒いパン。
赤いスープ。
赤い果実。
赤いソース。
赤黒い何かの煮込み。
透明な杯の中で、やや赤い液体。
しばらく、誰も喋らなかった。
やがて、レインが言った。
「……確認していいか」
「はい」
「これ、血か?」
カレラは即答した。
「違います」
「全部?」
「全部ではありません」
「混ぜんな」
フィアが即座に身を引いた。
「待って。今、全部じゃないって言った? どれ? どれが違わないの?」
カレラは静かに卓を見た。
「こちらの《夜葡萄の煮詰め汁》は、血ではありません」
「ふむふむ」
「こちらの《紅根菜の冷製スープ》も、血ではありません」
「よしよし」
「こちらの《血香草の蒸し焼き》は、名前に血とありますが血ではありません」
「名前を変えろ」
レインが言った。
「そして、こちらの《血族風朝粥》には、少量の血が含まれます」
全員の視線が、一斉にその赤黒い粥へ向いた。
ノエルだけが首を傾げる。
「誰の?」
その問いに、場が止まった。
カレラは表情ひとつ変えずに答える。
「食用に調整された獣血です。多分。」
「ならまあ……いや、多分なのかよ!?」
レインが自分でも分からない顔をする。
セシルは真面目に頷いた。
「地域によっては、血を食材として用いる文化もあります。栄養価の観点からも――」
「セシル、今そういう冷静な解説いらない」
フィアが遮った。
「赤くてどろっとしてて名前に血ってついてる時点で、無理…」
ラヴィニエは器を覗き込んだ。
「命をいただくという意味では、どの食材も同じですね」
「やめろ…食えなくなるわ」
レインが言う。
その時、別の扉が勢いよく開いた。
「聞こえました! ヴェスペラ食文化に対する異文化圏客人の初期反応ですね!」
ウルティマだった。
片手に記録板。
もう片方に筆記具。
目が輝いている。
その後ろから、イヴェットが無表情で入ってくる。
「ウルティマ」
ウルティマは即座に席へ着き、そして嬉々として血族風朝粥を口に運んだ。
「んんっ! 懐かしい! この色! この鉄分! 幼少期を思い出します!」
「お前の幼少期、不穏だな…」
レインが呟いた。
そこへ、今度はノアがひょこっと顔を出した。
「朝ごはん? ぼくも食べる」
「ノア様、勝手に客人の食卓へ混ざらないでください」
シアンが後ろから現れる。
「いいじゃん。文化交流だよ」
「そう言えば何でも許されると思わないでください」
「だめ?」
「……だめ、ではありませんが」
「やった」
ノアは当然のように席へ座った。
シアンは深く息を吐き、隣に立つ。
フィアがそれを見てぼそりと言う。
「保護者だ」
「保護者ですね」
セシルが頷く。
シアンの眉が動いた。
「聞こえています」
「聞こえるように言ったし」
フィアは悪びれなかった。
やがて、卓の向こう側から小さな声がした。
「なんじゃ、騒がしいのう」
ユーフェミアだった。
アルヴァロスが当然のように後ろに控えている。
ユーフェミアは眠たげに歩き、上座に座る。
アルヴァロスは彼女の前に、赤い果実を切り分けた皿をそっと置いた。
レインはそれを見て、思わず言った。
「お前も食うのか」
「食うわ。何じゃその顔は」
「いや、なんか食事するイメージがない」
「失礼な小僧じゃな」
ユーフェミアは果実を一切れ摘まんだ。
そして、じっと見る。
「……アル」
「はい」
「種が多い」
「取り除きます」
アルヴァロスは何の疑問もなく果実を受け取り、種を取った。
レインはそれを見た。
フィアも見た。
セシルも見た。
ノエルも見た。
ラヴィニエも見た。
ユーフェミアは堂々としていた。
「何じゃ」
フィアが言った。
「ちびっこ……」
「ちびっこじゃは貴様じゃろうが!」
「いや、種取ってもらってるし」
「王ならば種くらい取らせるものじゃ」
「王なの?」
ユーフェミアは胸を張った。
「偉いからの」
アルヴァロスは静かに言った。
「ユーフェミア様は、酸味の強いものと種の多いものを好まれません」
「アル」
「はい」
「余計なことを言うでない」
「申し訳ありません」
「あと、この果実は甘い方がよい」
「蜂蜜を」
「うむ」
フィアが肩を震わせている。
ノエルは真顔で言った。
「甘いのが好き」
「悪いか」
「悪くない」
ノエルは少し考えた。
「私も好き」
ユーフェミアは一瞬だけ言葉に詰まった。
「……そうか」
ノエルは自分の皿の赤い果実を見た。
それから、一切れをユーフェミアの方へ差し出す。
「食べる?」
場が止まった。
アルヴァロスの視線が、音もなくノエルへ向く。
セシルの背筋が伸びる。
シアンが硬直する。
カレラがわずかに目を伏せる。
ウルティマが記録板を握りしめる。
ユーフェミアは、差し出された果実を見た。
ノエルを見る。
また果実を見る。
「……種は」
「取ってある」
ノエルは真面目に答えた。
ユーフェミアは少しだけ黙った。
そして、受け取った。
「ふん」
口に運ぶ。
「まあまあじゃ」
ノエルは頷く。
「よかった」
レインは小声で言った。
「なにこの空気」
フィアも小声で返す。
「分かんない。でも今、たぶん歴史が動いた」
その後、ようやく食事が始まった。
レインは黒いパンをちぎり、いや、ちぎれなかったのでそのまま匂いを嗅いだ。
「これは血じゃないんだよな」
カレラが答える。
「黒麦です」
「黒麦」
「日照の少ない土地で育つ麦です。やや酸味があり、保存性に優れています」
「へえ」
レインは一口食べた。
固い。
思ったより固い。
「……石か?」
「パンです」
「石だろ…これ」
ノエルが興味深そうにパンをかじった。
がりっ、と音がした。
「固い」
思わず口を離す。
「でも、…おいしい」
「くえてねぇだろ!」
ラヴィニエも一口食べる。
…がりっ
「…素朴ですね」
「お前も噛めてねぇよ!これ、パンの固さか?」
セシルは真面目に黒麦パンを見つめた。
「携行食としては優秀かもしれません。水分と合わせれば――」
「いや、誰も食べれてないじゃん…」
フィアは赤いスープに匙を入れた。
「これ、ほんとに血じゃないんだよね?」
カレラが頷く。
「紅根菜です」
フィアは恐る恐る口に運んだ。
そして、少しだけ目を丸くする。
「……おいしい」
レインも飲む。
甘みがある。
酸味もある。
香草の香りが強いが、嫌ではない。
「普通にうまいな」
「血ではない料理もございます」
カレラは淡々と言った。
「言い方が怖いんだよ」
ウルティマが横から身を乗り出す。
「ちなみに血を使う料理にも多様な系統がありまして! 保存血、香草漬け、凝血、焼き固め、煮込み、発酵――」
ウルティマはまた粥を食べた。
ラヴィニエは血族風朝粥をじっと見ていた。
レインが止める。
「無理しなくていいぞ」
「なぜです?」
「いや、見た目が」
「いただきます」
ラヴィニエは普通に口に運んだ。
全員が見守る。
ラヴィニエはしばらく味わうように目を閉じた。
そして、微笑む。
「濃いですね」
「感想それ?」
「命の味がします」
「やめろ」
フィアが匙を置いた。
「今、全員の食欲が一段階下がった」
ノエルが朝粥を見つめる。
「命の味…」
レインが止める。
「無理に食べなくていいぞ」
ノエルは一口食べた。
「しょっぱい」
「お前の食に対する好奇心はなんなんだ…」
セシルも少しだけ試した。
「……確かに、塩気と香草が強いですね。保存食由来でしょうか」
ウルティマが即座に顔を上げる。
「正解です! 元々は夜巡りの兵が少量で栄養を取るために――」
イヴェットは自分の皿の肉を静かに切っていた。
フィアがふと尋ねる。
「イヴェットは何が好きなの?」
イヴェットの手が止まる。
「……」
「え、そんなに答えにくい?」
ウルティマが震えた。
「イヴェット様の好物……! 世界が知りたい情報です……!」
「黙りなさい」
イヴェットは少しだけ間を置いて答えた。
「薄味のもの」
ウルティマが胸を押さえた。
「薄味……! イヴェット様の冷静さと内に秘めた優しさを象徴する味覚……!」
「違うわ」
「違うのですか!?」
「濃いと疲れる」
「食事以外の感想じゃない?」
フィアが吹き出した。
レインも少し笑った。
セシルは咳払いをする。
ラヴィニエは微笑む。
ノエルは真面目に頷いた。
食事は進んだ。
奇妙な赤い料理も。
固い黒麦パンも。
薄甘い夜葡萄の水も。
最初は警戒していたレインたちも、少しずつ手を伸ばすようになった。
もちろん、フィアは赤黒い粥には最後まで手をつけなかった。
「命の味ではなかった」
「それはラヴィの感想がへん」
ラヴィニエは不思議そうに首を傾げる。
「そうでしょうか」
「そうだよ」
ユーフェミアは蜂蜜をかけた果実を食べながら、そんな彼らを見ていた。
退屈そうで。
少しだけ面白そうで。
レインがそれに気づく。
「なんだよ」
「別に」
「笑ってただろ」
「笑っておらぬ」
「いや、今ちょっと笑ってた」
「小僧。食事中に人の顔を見るでない」
「お前ずっとこっち見てただろ」
「わらわはよい」
「理不尽だよな」
ユーフェミアは果実をもう一切れ摘まんだ。
「ここは夜の国じゃ。理不尽くらい、料理の付け合わせじゃ」
フィアが匙を置いた。
「迷言…出た」
セシルが真面目に言う。
「付け合わせに出されるのは困りますね」
「そこ拾う?」
ノエルは赤い果実を見つめていた。
そして、ぽつりと言った。
「でも、ごはんはおいしい」
その一言に、妙な沈黙が落ちる。
レインは、少しだけ笑った。
「まあ、それはそうだな」
フィアも肩をすくめる。
「うん。思ったより、だいぶおいしい」
ラヴィニエは両手を重ねる。
「よき食卓でした」
セシルは姿勢を正し、カレラへ向いた。
「ご馳走様でした。大変興味深い食文化でした」
「お口に合ったのであれば幸いです」
「一部、口に合う前に精神的な確認が必要でしたが」
「ヴェスペラではよくあることです」
「よくあってよいのでしょうか」
カレラは答えなかった。
その代わりに、静かに一礼した。
フィアが笑った。
ユーフェミアは最後の果実を口に入れた。
そして、何でもないことのように言う。
「次は昼餉じゃな」
レインたちの動きが止まった。
「……昼、あるのか」
「あるに決まっておろう」
「夜の国なのに?」
「食事に空の明るさは関係なかろう」
フィアが恐る恐る聞く。
「昼餉も赤い?」
ユーフェミアは笑った。
「楽しみにしておれ」
その笑みは、今日一番、楽しそうだった。
レインは黒麦パンを見つめた。
ノエルは果実をもう一つ取った。
フィアは本気で逃げ道を探した。
セシルは昼餉という言葉に律儀に頷いた。
ラヴィニエは微笑んだ。
「神の思し召しですね」
「違う」
ユーフェミアとイヴェットの声が、珍しく綺麗に重なった。




