EP5 夜の公国ヴェスペラ 第34話 選択
「客人たちよ、あなた方が望むのであれば、明朝より場を整えます」
アルヴァロスの声は、静かだった。
命令ではない。
招待でもない。
ただ、告げる声だった。
長卓に、奇妙な沈黙が落ちる。
誰もすぐには答えなかった。
レインはアルヴァロスを見た。
それから、上座のユーフェミアを見る。
さっきまでの言葉が耳に残っている。
死に急ぎ。
本質が見えていない。
このままでは、遠からず死ぬ。
腹は立つ。
だが、否定できなかった。
ユーフェミアは、皿に残った料理を見下ろしながら、面倒そうに言った。
「今、答えんでよい」
レインの眉が動く。
「なんだよ。煽るだけ煽っといて」
「軽い返事で死地に立つなと言うておる」
その言葉に、フィアが顔をしかめた。
「死地って言った? 今、さらっと死地って言った?」
「言うた」
「…最悪なんだけど」
「知っておる」
フィアは深く息を吐いた。
「ほんっと腹立つわ、このちびっこ」
「…おぬしも似たようなもんじゃろうが」
ユーフェミアが睨む。
ノエルが小さく言った。
「ちびっこ」
「だまらんか…クソガキども」
わずかに空気が緩む。
けれど、すぐに戻った。
笑って済ませられる話ではない。
アルヴァロスは静かに続けた。
「今宵は休まれるとよいでしょう。返答は、明朝で構いません」
「断ったら?」
レインが問う。
アルヴァロスは迷わず答えた。
「お帰りいただきます」
「止めねえのか」
「止めません」
ユーフェミアが頬杖をついたまま、つまらなそうに言う。
「望まぬ者に施しを与えても、ろくなことにならぬ」
「さっき、壊すとか死ぬとか言ってたやつの台詞とは思えねえな」
「壊れるのは、おぬしらが望んで踏み込んだ場合じゃ」
「もっと悪いわ」
ユーフェミアは答えず、椅子から降りた。
その動きに合わせて、アルヴァロスが立つ。
四家当主も立った。
一拍遅れて、副官たちも動く。
カレラはテオドーラの肩に手を添え、眠りかけた主人を支えた。
ウルティマは記録板を抱えたまま、何かを書きたいのを必死に堪えている。
シアンはノアの椅子を引きながら、まだ上座の少女を見ないようにしていた。
ニルはオルフェリアの横で、視線を落としたまま小さく息を吐いている。
セリネだけが、立つべきか座っているべきか分からず、椅子の上で半端に固まっていた。
イヴェットが短く言う。
「セリネ」
「は、はい!」
「寝なさい」
「はい!」
セリネは立ち上がりかけて、ふらついた。
ラヴィニエがそっと手を添える。
「急がなくて大丈夫ですよ」
「す、すみません……」
「謝るほどのことではありません」
セリネは小さく頷いた。
それから、レインたちへ向き直る。
「あの……皆さん」
声が細い。
まだ顔色は薄い。
けれど、目は先ほどよりはっきりしていた。
「本当に、ありがとうございました」
レインは視線を逸らす。
「礼なら、もうもらってる。これ以上は、あっちに言え」
イヴェットの方を顎で示す。
セリネは困ったように笑った。
「でも、皆さんが運んでくださらなかったら、私はここにいませんでした」
「……」
「だから、何度でも、言わせてください」
レインは、答えなかった。
ノエルが代わりに小さく頷いた。
「うん」
「はい」
セリネはもう一度頭を下げた。
その姿が、どこか頼りなくて。
レインは、少しだけ奥歯を噛んだ。
助かった。
今回は。
ただ、それだけだ。
次もそうだとは限らない。
晩餐は、それ以上続かなかった。
ユーフェミアは振り返らずに部屋を出た。
アルヴァロスがその後に続く。
四家当主たちも、静かに席を離れる。
最後に扉が閉じると、部屋に残ったのは、料理の匂いと、答えのない問いだけだった。
◇
客間へ戻るまで、誰もほとんど喋らなかった。
案内役の眷属が退室し、扉が閉じる。
その音がやけに大きく響いた。
部屋には、レイン、ノエル、フィア、ラヴィニエ、セシルの五人だけが残る。
暖炉には火が入っている。
窓の外は夜だった。
ヴェスペラの夜は、王都の夜よりずっと深い。
フィアが椅子に腰を落とし、背もたれに沈んだ。
「……なに、あれ」
誰に向けたわけでもない声だった。
レインは壁にもたれたまま答える。
「知るか」
「ちびっこなのに偉そうだし、偉いのに性格悪いし、性格悪いのに、たぶん…一番怖い…」
「たぶんじゃねえだろうな…」
「そこは分かってる」
フィアは帽子を外し、膝の上に置いた。
その奥の光彩は、まだわずかに揺れている。
「エウレカの末、だって」
小さな声だった。
「…意味分かんない」
誰も答えなかった。
フィア自身も、答えを求めて言ったわけではないのだろう。
ただ、その言葉を口にしてみたかっただけ。
ノエルは自分の掌を見ていた。
晩餐の席でも、ずっとそうしていた。
その手が何をしたのか、彼女自身が一番分かっていない。
「私は、受ける」
最初に言ったのは、ノエルだった。
レインが顔を上げる。
「お前、分かって言ってんのか」
「分かってない」
即答だった。
「でも、あのままの方が怖い」
レインは黙った。
ノエルは手を握る。
「戻れた。たぶん、みんなが呼んでくれたから」
その声は、淡々としていた。
けれど、かすかに震えていた。
「でも、また同じになったら、戻れるか分からない」
「……」
「私は、ここにいたい」
ノエルは顔を上げた。
「戻る場所ができたから。だから、守りたい」
その言葉に、レインは何も言えなかった。
フィアも口を閉じる。
ラヴィニエは静かに目を伏せる。
セシルは、背筋を伸ばしたまま、ノエルを見ていた。
暖炉の火が小さく鳴る。
次に口を開いたのは、フィアだった。
「じゃあ、あたしも」
レインが眉を寄せる。
「軽いな」
「軽くないし」
「軽いだろ」
「重く言えばいいってもんじゃないでしょ」
フィアは口を尖らせた。
それから、少しだけ目を伏せる。
「……あのちびっこ、あたしのこと知ってるみたいな顔してた」
「ユーフェミア殿のことですか」
セシルが確認する。
「他にいないでしょ」
フィアは帽子の縁を指でなぞる。
「エウレカとか、意味分かんないこと言われて。しかも、知らないくせに分かるとか、ほんと腹立つ」
「腹が立つから受けるのか」
レインが言う。
「それもある」
フィアは正直に頷いた。
「でも、……あたし、自分のこと知りたいんだ」
その言い方は、どこか投げるようだった。
深刻に見せたくない。
けれど、軽くもない。
そういう声。
「話してなかったけど、ってか、詳しく話すつもりもないけど…あたし、自分が何者なのか、とか。なんで里であんな扱いだったのか、とか。そういうの」
そこまで言って、フィアは小さく笑った。
「まあ、聞き出せるかは知らないけど」
「聞き出す相手、悪すぎねえか」
「…まあね」
フィアは肩をすくめた。
その目は、笑っていなかった。
セシルは、しばらく沈黙していた。
全員の視線が自然と向く。
彼は少しだけ間を置いて、口を開いた。
「私も、受けます」
その声は静かだった。
レインが言う。
「お前は、まあ言うと思ったけどな」
「そうですか」
「真面目だからな」
「真面目であることは、理由にはなりません」
セシルは首を横に振る。
それから、言葉を探すように少し視線を落とした。
「私は、この世界の理不尽が許せないのです。誰かを軽く扱う側には立ちたくはない」
短い言葉だった。
だが、部屋の空気がわずかに変わった。
「身分であれ、出自であれ、力の有無であれ。そうしたもので、人の価値を測る側には立ちたくない」
セシルの指が、膝の上でかすかに動く。
「ですが、そう在りたいと願うだけでは、届かないことがある」
レインは、黙って聞いていた。
セシルは顔を上げる。
「ならば、その思いを通せるだけの力が要ります」
誰も、すぐには茶化さなかった。
フィアでさえ、黙っている。
セシルは淡々としていた。
だが、その奥にあるものが、ほんの一瞬だけ見えた気がした。
怒りではない。
悲しみでもない。
もっと硬く、長く沈んだもの。
ラヴィニエが、そこでにこりと微笑んだ。
「では、わたしも行きます」
レインが顔を向ける。
「お前は理由あんのか」
「神の思し召しです」
即答だった。
フィアが目を細める。
「それ、理由?」
「理由です」
「本当に?」
「はい」
「何も考えてないわけじゃなくて?」
「考えていますよ」
「何を?」
ラヴィニエは少し首を傾げた。
「神が」
「だめだ、会話にならない」
フィアが額を押さえた。
ラヴィニエは涼しい顔をしている。
「祈りとは、必ずしも説明可能なものではありません」
「…おまえは、ほんと変わんねぇな。命がけ、だぞ?」
レインが呟く。
「神様に近づける気がしますね」
「それ、死にかけてんじゃねぇか…」
ラヴィはわからん。
誰もがそう思ったが、誰も言わなかった。
ラヴィニエは本気なのか、冗談なのか、分からない。
けれど、受けると決めた声に迷いはなかった。
最後に、全員の視線がレインへ向いた。
レインは顔をしかめる。
「なんで見る」
「最後だから」
フィアが言う。
「リーダーっぽいし」
「誰がリーダーだ」
「違うの?」
「違う」
ノエルが小さく言う。
「でも、レインが行くなら、安心する」
レインは言葉に詰まった。
やめろ、と言いたかった。
そんなことを言うな、と。
自分は、安心させられるような人間ではない。
間に合わなかったことの方が多い。
助けられなかった顔の方が、脳裏によぎる。
白い墓地。
名もない少年。
馬車の中のセリネ。
闘技場のノエル。
もっと奥には。
小さな影。届かないとわかっていて、未だに手を伸ばし続けている。
――シラ
レインは壁から背を離した。
「……俺は」
声が少し掠れた。
「死ぬ気で強くなりたいわけじゃねえ」
誰も口を挟まない。
「命がけの試練とか、正直、馬鹿じゃねえのって思ってる」
「それは同意」
フィアが小さく言う。
レインは続けた。
「でも」
そこで、一度言葉を切る。
暖炉の火が揺れた。
「次は、間に合わせたい」
それだけだった。
それ以上、うまく言えなかった。
誰かが倒れる前に。
誰かが消える前に。
誰かが、自分の手の届かない場所へ行く前に。
次は。
間に合わせたい。
ノエルが静かに頷いた。
「うん」
フィアも、小さく息を吐く。
「じゃあ、決まり?」
セシルが答える。
「決まりですね」
ラヴィニエは両手を重ねた。
「では、祈りましょうか」
「やめとけ」
レインが即座に言う。
「なんでですか」
「今祈られると、本当に死地に行く感じがする」
「実際、近いのでは?」
「言うな」
ラヴィニエは少しだけ楽しそうに笑った。
その笑みだけは、いつものままだった。
◇
翌朝。
夜の国には、朝らしい朝がない。
窓の外は相変わらず薄暗く、遠くの空に淡い紫が滲んでいるだけだった。
五人が案内されたのは、城の奥へ続く長い廊下だった。
黒い石壁。
赤紫の燭火。
足音が妙に長く響く。
廊下の先に、アルヴァロスが立っていた。
その後ろには、四家当主と副官たちがいる。
オルフェリアは楽しそうに微笑み、ニルは明らかに緊張している。
イヴェットは無表情。ウルティマはなぜか小刻みに震えている。
ノアは軽く手を振り、シアンはその横で姿勢を正していた。
テオドーラは半分眠っており、カレラが当然のように支えている。
そして、その中央。
ユーフェミアがいた。
昨日と同じ小さな姿で。
昨日よりも、少しだけ退屈そうに。
「逃げる者はおらぬか」
誰も答えなかった。
ユーフェミアは五人を順に見る。
レイン。
ノエル。
フィア。
ラヴィニエ。
セシル。
赤い瞳が、細くなる。
「よい顔じゃ」
「褒めてんのか?」
レインが言う。
「少しだけな」
「珍しいな」
「今のうちに聞いておけ」
「…なんか、うちらほんとに死にそうなんだけど…」
フィアが呟く。
ユーフェミアはくつりと笑った。
「では、始めようか」
その声に、廊下の奥の扉が開く。
冷たい風が流れ出した。
風ではない。
もっと古いもの。
もっと深いもの。
虚ろの胎へ続く、夜の底の匂いだった。
ユーフェミアは歩き出す。
「まずは、見せてもらう」
レインが眉を寄せる。
「何をだよ」
「おぬしらの力じゃ」
ユーフェミアは振り返らない。
「言葉で聞くより、見た方が早い」
ノエルが、自分の手を握った。
フィアの光彩が、帽子の陰でわずかに揺れる。
セシルは息を整え、ラヴィニエは祈りの形を作らず、ただ静かに歩いた。
レインは一度だけ、背後を見た。
戻る道は、まだそこにある。
だが、誰も戻らなかった。
「……行くか」
そう言って、レインも夜の底へ足を踏み入れた。




