EP5 夜の公国ヴェスペラ第33話 晩餐2
晩餐は、奇妙な沈黙から始まった。
皿は温かい。
肉は柔らかく、スープには香草の匂いがある。
果実を沈めた水は、薄く甘い。
普通なら、悪くない食卓だった。
普通なら。
レインは匙を手にしたまま、正面を見た。
上座の少女――ユーフェミアは、料理を見下ろしている。
食べる気があるのかないのか分からない顔だった。
その横で、アルヴァロスは一切の動作を急がない。
皿にも杯にも、自分からは触れない。
ただ、ユーフェミアの手元が動いた時だけ、必要なものがそこにあるように整える。
あまりにも自然な所作だった。
だから余計に、異様だった。
「……食べにくい」
フィアが小声で言った。
「同感だ」
レインも小声で返す。
「声が聞こえていますよ」
セシルがさらに小声で言った。
「聞こえるように言ってねえよ」
「聞こえるような声量でした」
「お前、こういう時だけ細けえな」
「こういう時だからです」
ユーフェミアが、ちらりとこちらを見た。
「小僧。飯時に騒ぐでない」
「だったら、もう少し飯を食いやすい空気にしろよ」
アルヴァロスの視線が、静かにレインへ向いた。
ただ、それだけだった。
殺気はない。
怒りもない。
圧もない。
しかし、レインの背筋は反射的に冷えた。
それだけで、空気が沈む。
だが、ユーフェミアは面倒そうに手を振った。
「よい。小僧の口が悪いのは見れば分かる」
フィアが口元を押さえる。
「レイン、初対面の偉そうな子どもにめちゃくちゃ相性悪いね」
「お前が言うな。お前の時も似たようなもんだったじゃねーか」
そのやり取りに、ノアが小さく笑った。
シアンはその横で、まだ納得できない顔をしている。
「ノア様」
「なに?」
「本当に、このまま食事を続けてよろしいのですか」
「いいんじゃない?」
「理由を」
「アルヴァロス陛下が止めてない。四家当主の誰もが止めてない。なら、今はそういう場」
シアンは黙った。
それは説明になっていないが、判断材料としては十分だった。
彼女は一度だけ上座を見て、すぐに視線を下げる。
「……承知しました」
ウルティマは、いまだに記録板を膝の上で抱えていた。
食事の席に記録板を持ち込むこと自体がおかしいのだが、誰も指摘しない。
指摘したところで、おそらく改善されないからだ。
ウルティマは小声でぶつぶつ言っている。
「上座に少女。陛下が下座。四家当主は既知反応。副官側は認識遅延。イヴェット様は当然のように沈黙。つまりこれは……これは……萌え…」
「ウルティマ」
イヴェットが名を呼ぶ。
「はい」
「食べなさい」
ウルティマは即座にパンを口へ運んだ。
セリネはまだ卓の端で小さくなっている。
皿の上の料理にもほとんど手をつけていない。
ラヴィニエがそれに気づき、そっと声をかける。
「召し上がれそうですか?」
「え、あ、はい。たぶん」
「無理はしなくて構いません」
「はい……ありがとうございます」
セリネは小さく匙を持ち、スープをひと口飲んだ。
その瞬間、目を丸くする。
「あ……温かい」
言ってから、本人が一番驚いたような顔をした。
「す、すみません。変なことを」
「変ではありませんよ」
ラヴィニエが微笑む。
「温かいものを温かいと思えるのは、とてもよいことです」
セリネは少しだけ俯いた。
「……そう、ですね」
その声は、細かった。
ノエルは、セリネをじっと見ていた。
セリネが気づき、慌てて視線を合わせる。
「あの……ノエルさん、でしたよね」
「うん」
「あなたにも、助けていただいたと聞きました」
「私は、あまり覚えていない」
「それでも」
セリネは小さく頭を下げる。
「ありがとうございます」
ノエルは返事に迷った。
迷って、短く言う。
「生きていてよかった」
セリネの表情が、くしゃりと歪んだ。
「……はい」
それを見て、レインは目を逸らす。
フィアは少しだけ帽子を深くかぶる。
セシルは背筋を伸ばしたまま、静かに息を吐く。
ユーフェミアは、その一連のやり取りを黙って見ていた。
赤い瞳が、ノエルに向く。
「おぬし」
ノエルが顔を上げる。
「なに?ちびっこ」
「…だれが、ちびっこじゃ!」
一瞬、場の空気が緩む。
だが、ユーフェミアの次の一言は卓の空気を明らかに変えた。
「沈みかけたな」
レインの手が止まる。
セシルの目が鋭くなる。
フィアの光彩が、帽子の陰でかすかに揺れる。
ラヴィニエは祈るように指を組んだ。
ノエルだけが、静かに首を傾げた。
「沈む?」
「覚えておらぬか」
「…あの時のことを言っているなら、…少しだけ」
ノエルは自分の手を見る。
「…私が私じゃないみたいだった。」
「…そうじゃろうな」
ユーフェミアは淡々と言った。
「おぬしは、自身の本質がみえておらぬ」
「本質?」
「うむ、それは、ぬし自身の在り方であり、また、力の話じゃ」
レインが眉を寄せる。
「おい、どういう意味だ」
「小僧にはまだ早い」
「勝手に決めんな」
「見ておった。エルミラージュとのじゃれ合いを」
ユーフェミアは頬杖をついたまま、レインを見た。
「おぬしらは全員、未熟じゃ。それぞれに面白い素質あり、また気骨も買おう。じゃが、その未熟さゆえに命を縮めておる」
沈黙。
「言い換えてやろう。このままではいずれ遠からず、死ぬじゃろう。願を果たせず、探し物は見つからず、ただただ土に還るであろうよ。」
レインが顔をしかめる。
「……あ?」
ユーフェミアは匙で皿の縁を軽く叩く。
小さな音が鳴った。
「聞こえなんだか。ぬしらは揃って死に急ぎじゃと言った。」
「…どういう意味だ」
「心当たりがあるじゃろう」
ユーフェミアの視線が、レインたちに注がれる。
誰も何も言わない。
「例えば、小僧。…貴様も白い小娘と同じじゃな。己の力の本質が見えておらぬ」
レインの表情が止まった。
「……どういう意味だ。わかるように言ってくれ」
「ふむ。良いじゃろう。しばしの停滞に退屈をしておったところじゃ。じゃが今は待て」
「…わかった」
レインはそれ以上食って掛からなかった。
腹は立つ。
言い返したい。
だが、ユーフェミアの言葉が妙に胸に引っかかった。
次に、フィアを見る。
「エウレカの末」
「またそれ…なんなのよ、その、エウレカとかっての?」
「…しらぬか。無理もないの。おぬしは、こ奴らとまた別種で少々特殊なのじゃ。少なからず覚えがあろう」
フィアの動きが止まった。
「……えっ!?…なんで…」
「わらわにはわかるのじゃ。言わずともよい」
フィアの目が細くなる。
「…知らないくせに」
「知らぬこともある」
ユーフェミアは、あっさり認めた。
「じゃが、おぬしが焦っておることは分かる」
フィアは黙った。
帽子のつばを下げる。
その奥で、光彩が一瞬だけ強く揺れた。
ラヴィニエが、静かにその様子を見る。
ユーフェミアの視線が、今度は彼女へ向いた。
「次はそこの…うーむ、変な聖職者」
「はい」
「…返事をするのじゃな」
「呼ばれましたので」
「おぬしは、俗にいう、天才じゃな。主らの認識にある、魔素。その感応度が異常に高い。おそらく術式も独自のものじゃろう。凡人が作った型を必要としておらん。また、その常人をはるかに凌駕するフィジカルよ。知ってか知らずか、魔素を全身に還流させておる。膂力も肉体的な頑健さも、比較にならん」
ラヴィニエは瞬きをした。
「祈りの力ではないのですか?」
「…祈りでもあろうよ」
ユーフェミアは面倒そうに言う。
「じゃが、それだけではない。周りと違うことに少なからず自覚があろう」
「信仰では?」
「…面倒な奴よ」
「そうでしょうか」
「そうじゃ」
ラヴィニエは少しだけ微笑んだ。
「では、やはり信仰の力ということです」
「おぬし、…わざとか」
「何がでしょう」
「……」
フィアが小さく呟く。
「ラヴィ、負けてないね」
セシルが静かに言う。
「ラヴィニエさんはいろいろな意味で規格外ですね…」
「騎士崩れ」
ユーフェミアが呼んだ。
セシルの言葉が止まる。
「……はい」
「おぬしは、逆に凡人じゃな」
一瞬、空気が止まった。
セシルの眉が、わずかに動く。
「……凡人、ですか」
「才はある。鍛錬もある。判断も悪くない。人の世であれば、十分に突出しておろう」
ユーフェミアは淡々と言った。
「じゃが、おぬしは人の器の内に収まっておる」
セシルは黙った。
貶められているのではない。
そう分かる。
だが、言葉は鋭かった。
「それは、劣っているという意味でしょうか」
「違う」
ユーフェミアは即答した。
「あやつらとは、性質が違うという意味じゃ」
「性質」
「おぬし以外の四人は、それぞれ魔素に対して妙な歪みを持っておる。先天であれ、後天であれな」
赤い瞳が、セシルを見た。
「じゃが、おぬしは違う」
セシルは、息を止めた。
「…私は」
「そうじゃ。じゃが、頂に届かぬというわけではない。己の本質を見極めよ」
その声は、静かだった。
「積める者は強い。時に天性に勝る」
セシルは、目を伏せる。
「……それは、評価として受け取ってよろしいのでしょうか」
「好きにせい」
ユーフェミアは言った。
「ただし、見失うな。おぬしがあやつらの真似をすれば、ただ壊れる」
テオドーラが、半分眠ったままぽつりと言った。
「……この方は、磨きがいがありそうですね」
テオドーラは目を半分閉じたまま、匙を持っていた。
まだスープを一口も飲んでいない。
「……私は…」
セシルは困惑したように目を伏せた。
「さて、一通り、見立てたぞ」
ユーフェミアは淡々と告げた。
「おぬしらが、何を選ぶのかはおぬしら次第じゃ。じゃが、セリネの件で借りもできた。おぬしらが望むのであれば、ほんの少し、道を示してやろう」
その声には、ほんのわずかに、ぬくもりと呼べるものがこもっているように感じられた。
ノエルは自分の掌を見る。
レインは奥歯を噛む。
フィアは帽子の陰に目を隠す。
ラヴィニエは祈りの形を作らないまま、指を重ねている。
セシルは背筋を伸ばしたまま、沈黙していた。
一拍。
「…めちゃくちゃ偉そうだな」
「偉いのでな」
ユーフェミアが即答した。
レインは言葉に詰まった。
アルヴァロスが、静かに口を開いた。
「客人たちよ、あなた方が望むのであれば、明朝より場を整えます」




