EP5 夜の公国ヴェスペラ 第33話 晩餐
何度目かの食事の支度は、すでに整えられていた。
黒檀の長卓。
銀の燭台。
深い赤の卓布。
切り分けられた肉料理と、湯気の立つスープ。
果実を沈めた硝子の杯。
晩餐、と呼ぶには静かすぎた。
給仕たちは配膳だけを終えると、一礼して部屋を出ていった。
扉が閉じる。
それきり、誰も入ってこない。
残されたのは、招かれた者たちだけだった。
レインは部屋に入ってすぐ、顔をしかめた。
「……なんか、飯の席って感じじゃねえな」
「同感です」
セシルが低く答える。
彼の視線は、卓の奥へ向いていた。
上座。
そこに、少女が座っていた。
銀白の長い髪。
小さな身体。
幼さと美しさが調和した顔。
赤い瞳。
古びた形式の衣を、どこか無造作に着崩している。
外見だけなら、十歳ほどの子どもに見える。
だが、その小さな外観とは裏腹に、夜を凝縮したような濃厚な気配があった。
そして、
その席は子どもの座る場所ではなかった。
王が座る席だった。
本来そこに坐するはずの王は、その右手、
一段低い席に、アルヴァロス=ブラッドベインは座っている。
血族の王。
この夜の公国において、頂点に立つ者。
その男が、上座にいない。
「……おい」
レインが小声で言う。
「王様って、あっちじゃねえのか」
セシルは答えなかった。
ただ、視線だけで卓の奥を測っていた。
フィアが帽子のつばを少し下げる。
「ちょっと待って。あの子、何者?」
「ただの子ども、ではなさそうですね」
ラヴィニエが静かに言った。
「神聖、という感じでもありません。ですが……祈る前に、膝を折るべきものを見たような気がします」
「それ、よくわかんないや、いや、でもなんか…わかるかも…」
フィアが顔を引きつらせる。
ノエルは、何も言わなかった。
ただ、銀白の少女を見ていた。
少女もまた、ノエルを見ていた。
その視線は、レインたちに送るものとは少しだけ違っていた。
測るようで。
懐かしむようで。
けれど…
ノエルは、自分の掌をそっと握った。
冷たさだけが戻ってきたような気がした。
「席へ」
アルヴァロスが静かに言った。
声は大きくない。
だが、その一言で全員が動いた。
レインたちには、卓の手前側の席が用意されていた。
その少し横に、セリネが座っている。
彼女はまだ顔色が薄い。
けれど、確かに生きていた。
両手で膝を押さえ、緊張のあまり背筋を伸ばしすぎている。
レインと目が合うと、セリネは慌てて立ち上がろうとした。
「っ、あ、あの!」
椅子が小さく鳴る。
「セリネ」
イヴェットが短く言った。
「座って」
「は、はい!」
セリネは即座に座った。
そして、もう一度レインたちを見る。
「その……えっと、改めて」
声が震えている。
「助けて、いただいて……ありがとうございました」
レインは少しだけ目を逸らした。
「俺たちは運んだだけだ」
「でも、運んでくれました」
セリネは小さく言う。
「それがなかったら、私はここにいないと思います」
レインは何か言いかけて、やめた。
フィアが横から肘でつつく。
「そこは素直に受け取れば?」
「うるせえ」
「照れてる?」
「黙れ」
セリネはそれを見て、少しだけ笑った。
その笑みはまだ弱い。
けれど、処置室で目を覚ました時の混乱とは違う。
自分が生きていることを、少しずつ確かめている顔だった。
「それにしても……」
セリネは卓を見回し、声を小さくした。
「……やっぱり、どんどん増えてますね」
「俺たちもそう思ってる」
レインが低く答えた。
その時だった。
卓の反対側で、ウルティマが片手を上げかけた。
「イヴェット様、質問してもよろしいでしょうか。席次が、席次が明らかに概念ごと捻転しておりまして…私の認識が悲鳴を――」
「黙って」
イヴェットが言った。
「はい」
ウルティマは即座に手を下ろした。
だが、視線は忙しく動いている。
上座の少女。
その下に座るアルヴァロス。
平然としているイヴェット。
まったく驚いていないオルフェリア。
眠そうなのに、今日は妙に起きているテオドーラ。
いつもより軽口の少ないノア。
ウルティマの口元が震えた。
「……黙っています。黙っていますが、心の中の記録官が乱筆しています」
シアンもまた、困惑を隠しきれていなかった。
彼女はノアの背後に立ち、低い声で問う。
「ノア様」
「なに?」
「確認してよろしいですか」
「駄目」
「まだ何も聞いていません」
「聞かなくても分かるよ」
ノアは肩をすくめる。
「今日は、そういう日」
「説明になっていません」
「うーん、今は勘弁して」
シアンは不満そうに眉を寄せた。
だが、ノアがいつものように笑っているのに、その姿勢だけは崩していないことに気づいたのだろう。
それ以上は問わなかった。
カレラも、静かにテオドーラへ視線を向ける。
「テオドーラ様」
「……うん」
テオドーラは半分眠った目で、上座の少女を見ていた。
「今日は、起きてる方がいい日」
カレラは一瞬だけ沈黙した。
それから、深く一礼する。
「承知しました」
それだけだった。
ニルは最初から、ずっと黙っていた。
視線を伏せ、指先を膝の上で固く重ねている。
普段の人見知りとは違う。
緊張。
畏れ。
それから、知っている者だけが持つ沈黙。
オルフェリアはそんな妹を横目で見て、わずかに笑った。
「ニル。息をなさい」
「……してます」
「そう」
「たぶん」
「たぶんなのね」
オルフェリアは楽しそうに目を細めた。
レインはそのやり取りを見て、さらに眉を寄せる。
「……お前ら、これ、どういう状況だ?」
誰にともなく言ったつもりだった。
だが、答えたのは上座の少女だった。
「知っておる者は知っておる」
小さな声。
しかし、卓の端まで届いた。
銀白の少女は頬杖をつき、レインを見る。
「……なんだその説明」
「面倒じゃな。察せ」
少女は面倒そうに言った。
「さて、小僧ども」
レインのこめかみが動く。
「小僧ども?」
「小僧」
赤い瞳がレインへ向く。
次に、ノエル。
「白いの」
ラヴィニエ。
「…変な聖職者」
フィア。
「エウレカの末」
セシル。
「騎士崩れ」
沈黙。
セシルが、わずかに眉を動かした。
「訂正を求めます」
「嫌じゃ」
即答だった。
レインが思わず吹き出しかける。
セシルは表情を崩さない。
「私は王都聖騎士団所属です」
「知っておる」
「では、騎士崩れという表現は不適切です」
「知っておる」
「……知った上で?」
「呼んでおる」
フィアが口元を押さえた。
「セシル、負けてる」
「勝敗の問題ではありません」
ラヴィニエはにこやかに言う。
「私は、変な聖職者でよろしいのでしょうか」
「よくはない」
ユーフェミアは言った。
「じゃが、他に言いようがない」
「ありがとうございます」
「礼を言うな。おかしな奴じゃ…」
フィアは上座の少女を睨む。
「で、あたしは?エウレカ?」
「エウレカの末」
「なにそれ」
「今は知らぬともよい」
「この国、ほんとわけわかんない…」
ノアが笑う。
「ヴェスペラ式だよ」
そのやり取りの間も、アルヴァロスは静かに座っていた。
杯に触れない。
食事にも手をつけない。
ただ、上座の少女の指がわずかに動いた瞬間だけ、すっと杯を寄せた。
少女は見もせずに言う。
「いらぬ」
「はい」
アルヴァロスは、何の違和感もなく杯を戻した。
その所作が、あまりに自然だった。
臣下が王に使えるような所作。
全員が、それを見た。
そして、副官たちも見ていた。
ウルティマの口が、また開きかける。
イヴェットが見た。
ウルティマは自分で口を閉じた。
シアンは、ノアの背後でわずかに姿勢を正した。
カレラは、テオドーラが目を閉じていないことを確認し、自分も沈黙を選んだ。
誰も、答えを言わない。
だからこそ、分かった。
この少女は、アルヴァロスより上にいる。
少なくとも、この閉ざされた晩餐の席においては。
セリネだけが、少し遅れてその違和感に気づいたらしい。
彼女は上座の少女を見つめ、そして、首を傾げた。
「……あの」
ユーフェミアの赤い瞳が、セリネへ向く。
セリネは怯えたように肩を震わせた。
けれど、目を逸らさなかった。
「どこかで……お会いしましたか?」
部屋の空気が、わずかに止まった。
オルフェリアの笑みが薄くなる。
イヴェットがセリネを見る。
ノアの足が止まる。
アルヴァロスは、何も言わなかった。
ユーフェミアは、しばらくセリネを見ていた。
その目は冷たくない。
けれど、優しいとも違う。
遠い昔に落とした小石が、今ごろ水面に波紋を返したのを見ているような目だった。
「知らぬ」
短い声。
セリネは慌てて頭を下げる。
「す、すみません。変なことを言いました」
「変ではない」
ユーフェミアは言う。
「忘れたのなら、それでよい」
「……え?」
「覚えておらぬ方が、よいこともある」
セリネは困惑した顔をした。
それ以上は聞けなかった。
聞いてはいけない気がしたのだ。
レインは、そのやり取りを見ていた。
「……あんた」
「なんじゃ、小僧」
「何者だ」
真正面から聞いた。
セシルがわずかに息を吸う。
フィアが「聞くんだ」と小さく呟く。
ラヴィニエは黙っている。
ノエルも、ユーフェミアを見ていた。
ユーフェミアは少しだけ笑った。
笑ったように見えた。
「名はユーフェミア」
その名を聞いた瞬間、アルヴァロスをはじめ、四家当主たちは静かに頭を垂れた。
テオドーラも。
イヴェットも。
ノアも。
オルフェリアも。
ニルも、遅れて深く頭を下げる。
副官たちは一拍遅れた。
ウルティマは目を見開き、慌ててイヴェットに倣った。
シアンはノアの動きを見て、すぐに姿勢を正す。
カレラはテオドーラが頭を下げた瞬間、迷いなく従った。
その連鎖が、説明の代わりになった。
レインは黙る。
セシルの表情が硬くなる。
フィアの光彩が、帽子の奥でかすかに揺れた。
ラヴィニエは、祈るように手を重ねたが、祈りの言葉は唱えなかった。
アルヴァロスは静かに言う。
「この御方こそ、この国の夜の真の支配者、ユーフェミア様です」
レインは喉の奥で息を止める。
「……真の?」
ユーフェミアは面倒そうに手を振った。
「大仰に呼ぶでない。飯がまずくなる」
「では、何と」
セシルが慎重に問う。
「ユーフェミアでよい」
アルヴァロスがわずかに目を動かした。
ユーフェミアはそれを見ずに言う。
「よいと言った」
「はい」
アルヴァロスはそれ以上何も言わなかった。
レインは椅子に座ったまま、上座の少女を見る。
小さい。
子どもに見える。
面倒くさそうで、偉そうで、口が悪い。
だが、この場にいる化け物じみた連中全員が、彼女の一言で黙る。
「……本当に、分かんねえ国だな」
ユーフェミアは赤い瞳を細めた。
「この国は、わらわも時々分からぬ」
ノアが小さく笑った。
オルフェリアも楽しそうに口元を隠す。
イヴェットは呆れたように息を吐き、テオドーラは半分眠ったまま「……それは、そうですね」と呟いた。
その一言で、少しだけ空気が緩んだ。
ユーフェミアはようやく卓上の皿へ視線を落とす。
「食え」
命令だった。
「せっかく用意させた。冷める」
アルヴァロスが静かに頷く。
「皆様、どうぞ」
その言葉で、晩餐は始まった。
けれど、誰も完全には食事に集中できなかった。
上座に座る小さな少女。
その下に座る血族の王。
事情を知る四家当主。
事情を知らない副官たち。
命を拾ったセリネ。
そして、呼ばれたレインたち。
食卓の上には、温かな料理が並んでいる。
だが、その中央には、まだ誰も名前をつけられない沈黙が置かれていた。




