EP5 夜の公国ヴェスペラ 第32話 ユーフェミア
少し、時間は戻る。
夜の公国ヴェスペラ。
その城の最奥。
誰も、そこへ至る道を知らない。
階段を下りても辿り着けず、扉を開けても繋がらず、見とり図に描こうとすれば線が歪む。
城の内側にありながら、城の外側にある場所。
【虚ろの胎】と名づけられている空間。
通称、逆さ墓場。
そこには、空がなかった。
いや、空はあった。
ただし、それは足元にあった。
墓標が浮かんでいた。
黒い墓標。
白い墓標。
名前の削れた墓標。
最初から名前など刻まれていなかった墓標。
それらは上下を失った空間に、思い思いの角度で漂っていた。
床から生えているものもあれば、空から垂れているものもある。
横倒しのまま静止しているもの。
水中の藻のようにゆっくり揺れているもの。
砕けた断面から、赤黒い光を零しているもの。
そこに葬られているのは、死者だけではない。
名。
血。
記憶。
誓い。
呪い。
還ることのできなかったもの。
そうしたものが、墓標という形を借りて、この場所に留められていた。
古びた石棺が、天井のような場所から逆さに吊られている。
鎖はない。
支柱もない。
それでも石棺は落ちない。
蓋の隙間からは、砂のような光がこぼれていた。
落ちているのか、昇っているのか分からない。
光は途中でほどけ、細い糸になり、闇の中へ吸われて消える。
音も奇妙だった。
水滴の落ちる音が、先に響いてから、あとで水滴が落ちる。
遠くの石棺が軋むと、その振動だけが先に肌へ触れる。
呼吸をすれば、自分の吐息が少し遅れて耳元に戻ってきた。
ここでは、時間でさえ眠っている。
その中央に、寝台があった。
寝台、と呼ぶにはあまりにも静かだった。
棺、と呼ぶにはあまりにも白かった。
玉座、と呼ぶにはあまりにも小さかった。
黒い夜の上に浮かぶ、白い繭。
薄い帳が何重にも垂れている。
絹のようにも見える。
霧のようにも見える。
あるいは、剥がれ落ちた月光の膜にも見えた。
帳の内側で、少女が眠っていた。
銀白の髪。
小さな身体。
今の世にあるどの衣とも少し違う、古い時代の装い。
外見だけを見れば、十歳ほどの子どもにしか見えない。
だが、この場所で彼女を子どもと呼ぶ者はいない。
墓標は、彼女へ背を向けない。
石棺は、彼女の上に落ちない。
足元の夜は、彼女の眠りを乱さない。
この空間のすべてが、少女を閉じ込めているようで。
同時に、少女によって保たれているようでもあった。
ユーフェミア・ルチル・エーデルシュタイン。
その名を、夜の公国の民は知らない。
眷属たちは、血族の王をアルヴァロス=ブラッドベインだと認識している。
それは間違いではない。
表に立つ王は、彼だ。
統治し、命じ、裁き、夜の公国を形あるものとして保っているのも、彼だ。
けれど、そのさらに奥。
血の系譜の根に眠るものを知る者は、ごくわずかだった。
真祖は、眠っていた。
眠っているはずだった。
「……騒がしいのう」
薄く、赤い瞳が開いた。
その瞬間、逆さの墓標が一斉に震えた。
音はない。
ただ、空間の奥に沈んでいた夜が、ほんの少しだけ身じろぎする。
足元の空に、細い波紋が広がった。
吊られた石棺から零れていた光が、一瞬だけ止まる。
帳が揺れ、白い繭の内側に、少女の赤い瞳だけが浮かび上がる。
眠りから覚めた、というには静かすぎた。
まるで、この場所の方が先に目覚め、遅れて彼女の瞳が開いたようだった。
「久方ぶりの客人、か……」
誰もいない虚ろの胎に、ユーフェミアの声だけが落ちる。
その声は幼い。
けれど、幼さだけではない。
古い城壁の奥に残る血の匂い。
忘れられた誓約の残響。
夜がまだ名前を持たなかった頃の静けさ。
そういうものが、声の底に沈んでいた。
「ふむ。寄りにも寄って……これは、見極める必要があるようじゃの」
ユーフェミアは、ゆっくりと身を起こした。
帳がほどける。
足元の夜が、彼女の動きに合わせてわずかに揺れる。
遠くの墓標が、ひとつ、向きを変えた。
「……アル」
少女は、空間の奥へ声を投げる。
「聞こえておるか」
少し、時間が進む。
ユーフェミアにすれば、然したる差はない。
彼女は何かを見ていた。
「…知っておる。あれは、オルフェリアの趣味じゃ」
ため息とも、欠伸ともつかない息を吐く。
虚ろの胎の闇が、ゆっくりと揺れた。
闘技場の光景が、水面に映る。
黒曜石の舞台。
青白い燭火。
影を広げるニル。
そして、白い髪の少女。
ユーフェミアは寝台の上で頬杖をついた。
「ほう」
ニルの《影向偏理》が開く。
影が咲き、黒い衝撃が闘技場を満たす。
ユーフェミアは、それを眺めていた。
興味がないわけではない。
ただ、驚いてはいなかった。
「エルミラージュの娘は、育っておるな」
小さく呟く。
「怖がりのくせに、踏みとどまるか。血筋よな」
闇の水面で、黒花が開いた。
白盾が軋み、祈りが割れ、霧が吹き飛ぶ。
ノエルの身体が壁際へ叩きつけられる。
ユーフェミアの瞳が、わずかに細くなった。
「……」
ノエルが床に手をつく。
血が落ちる。
薄い霜が広がる。
その瞬間。
虚ろの胎の奥で、何かが鳴った。
音ではない。
声でもない。
もっと古い。
もっと冷たい。
世界がまだ、自分の傷口を知らなかった頃の音。
ユーフェミアは、ゆっくりと身体を起こした。
「……いまのは」
闘技場の水面に、白が広がる。
ノエルの瞳に、光が灯る。
全身から燐光がこぼれる。
ユーフェミアは、瞬きをしなかった。
「これは……いや、」
ぽつりと否定する。
「似ておる…」
ユーフェミアの赤い瞳に、かすかな光が宿った。
「小娘」
誰に向けた言葉でもない。
けれど、その呼び方だけが、どこか違っていた。
「混じっておるのか…?」
虚ろの胎の墓標が、わずかに震えた。
ユーフェミアは、そこではじめて、ほんの少しだけ眉を寄せた。
湖面の映像に、黒い衝撃が咲く。
黒と白が噛み合った。
その瞬間、虚ろの胎の水面が大きく波打った。
古い墓標が軋む。
逆さの石棺から、砂のような光がこぼれる。
空間の奥で、忘れたはずの記憶が薄く開く。
ユーフェミアは、赤い瞳を伏せた。
「……知っておる」
小さく言う。
「この感覚、わらわは知っておる」
懐かしい、とは言わなかった。
そして、最後の衝撃が白を呑んだ。
闘技場が揺れる。
レインが叫ぶ。
仲間たちが吹き飛ぶ。
ニルが膝をつく。
ノエルの光が消える。
そのすべてを、ユーフェミアは見ていた。
長い沈黙。
やがて、彼女は呟く。
「……ふむ」
その声には、わずかな熱があった。
「やはりか。面倒なものを、ひろってきたようじゃの」
「…アル。アルヴァロス、控えておるか?」
虚ろの胎の奥、何もなかった空間に、影が形を取る。
そこに現れた男は、静かに膝をついた。
アルヴァロス=ブラッドベイン。
夜の公国に立つ血王。
「ユーフェミア様」
「聞いておったか」
「はい」
「ならば、話は早い」
ユーフェミアは水面に映るノエルを見下ろした。
もう白い光は消えている。
今はただ、傷ついた少女が仲間に支えられているだけだ。
それでも、虚ろの胎にはまだ白い気配が残っていた。
「客を呼べ」
アルヴァロスの瞳がわずかに動く。
「闘技場の者たちを、でしょうか」
「そうじゃ」
ユーフェミアは、少しだけ不機嫌そうに言う。
「あの小僧どもよ。まとめて呼べ」
「御意に」
アルヴァロスは深く頭を垂れる。
ユーフェミアは、彼を見る。
「構うかどうかを決めるのは、わらわじゃ」
「はい。ユーフェミア様の御心のままに」
彼の返答は、いつも通りだった。
受け入れる。
従う。
整える。
ユーフェミアが何を望んでも、そのために最短の形を作る。
それがアルヴァロスとユーフェミアの関係性であった。
ユーフェミアは再び水面を見る。
そこには、ノエルの掌に残った白い霜が映っていた。
小さな霜。
夜の中に残った、白い異物。
「おぬしは」
ユーフェミアは、誰にも聞かせるつもりのない声で言った。
「何になろうとしておるのじゃろうな…」
答えはない。
虚ろの胎には、逆さの墓標が浮かぶだけ。
ユーフェミアは、ゆっくりと目を閉じる。
だが、眠りには戻らなかった。
「久方ぶりに、出ようかの」
そして、ほんの少しだけ。
本当に、ほんの少しだけ。
ユーフェミアの口元が動いた。
笑ったのか。
呆れたのか。
それとも、ずっと昔に置いてきた何かが疼いたのか。
誰にも分からなかった。
虚ろの胎の闇に、白い光の余韻だけが、いつまでも細く残っていた。




