EP5夜の公国ヴェスペラ 番外編 セリネの日記
番外編です。読み飛ばしていただいて問題ありません。ヴェスペラのキャラに対して、解像度はたいしてあがりません。キャラクターの性格まとめのようなパートです。備忘録のようなものです。それでも良いと思われる方は、愛でてくだされば幸いです。
私、セリネは思いました。
生きているというのは、ありがたいことです。
温かいスープを飲める。
柔らかい寝台で眠れる。
朝なのか夜なのか分からない窓の外を見て、「ああ、まだ生きている」と思える。
それだけで、本当に十分でした。
十分だったはずなのです。
けれど、ヴェスペラ公国という場所は、ただ生きているだけでは済ませてくれない場所なのです。
理由は簡単です。
命の恩人たちが、全員、濃い。
濃いのです。
血がどうこうではありません。
存在感がです。
私は、忘れないために記録をつけることにしました。
別に誰かに提出するわけではありません。
ただ、記憶が混乱しないように。
それから、万が一、後で誰かに「あの方々はどんな人でしたか」と聞かれたときに、私は落ち着いてこう答えるためです。
「皆様、とてもお優しい方々でした」
「ただし、理解できるとは思わないことです」
◇
一、テオドーラ=アルケイン様
最初に書くべきは、テオドーラ様です。
なぜなら、最も静かで、最も眠そうで、最もよく分からない方だからです。
初めてお会いした時、私は思いました。
この方は、起きているのだろうか。
立っている。
歩いている。
食卓にもいる。
声も発する。
ですが、どの瞬間も、眠っているように見えるのです。
「……大丈夫ですか?」
私は一度、勇気を出して聞きました。
テオドーラ様は、ゆっくりとこちらを見て、言いました。
「……大丈夫です」
そして、三秒後に少し傾きました。
全然大丈夫ではありませんでした。
すぐ後ろに控えていたカレラ様が、当然のように支えました。
「問題ありません。通常です」
通常。
ヴェスペラでは、通常という言葉が王都と違う定義があるのだな、と再確認しました。
テオドーラ様は、私のことを見る時も、半分眠っているような目をしています。
けれど、不思議と、見られていない感じはしません。
むしろ、こちらが隠しているものまで、眠りの底から覗かれているような気がします。
ある日、テオドーラ様は私に言いました。
「……よく眠れていますか」
私は少し驚いて、頷きました。
「はい。おかげさまで」
「……よかったです」
それだけ言って、テオドーラ様はまた目を閉じました。
優しい方だと思いました。
ただ、その直後に、
「……眠れない時は、少し深く眠れる場所があります」
と続けられました。
私は、礼儀として聞き返しました。
「どのような場所ですか?」
カレラ様が、即座に答えました。
「セリネ。行かない方がよろしいです」
私は、深く頷きました。
テオドーラ様は優しい方です。
ただし、案内される場所は、おそらく優しくありません。
◇
二、カレラ様
カレラ様は、テオドーラ様の筆頭従者です。
私の理解では、従者とは、主に仕える方です。
ですが、カレラ様を見て、仕えるということがとても大変なことだと知りました。。
テオドーラ様が傾けば支える。
テオドーラ様が眠れば運ぶ。
テオドーラ様が何か言いかければ、必要な部分だけを翻訳する。
テオドーラ様が危険そうな場所に近づけば、何も言わずに鍵を増やす。
すごい方です。
ある時、私は聞きました。
「カレラ様は、お休みになられるのですか?」
カレラ様は答えました。
「必要時に」
「必要時」
「はい」
「それは、どのくらいの頻度で……?」
「テオドーラ様の状態によります」
私は、それ以上聞くのをやめました。
カレラ様は、言葉が少ない方です。
でも、少ない言葉の中に必要な情報がすべて入っています。
たとえば、ある時。
「こちらの廊下は通らないでください」
と言われました。
私は素直に頷きました。
理由を聞くべきか迷っていると、カレラ様は続けました。
「戻れなくなる場合があります」
十分でした。
私は通りませんでした。
カレラ様は、とても信頼できる方です。
ただし、カレラ様が「問題ありません」と言った時は、何が問題ではないのかを確認した方がいいです。
ヴェスペラでは、命に関わらなければ問題ではない可能性があります。
◇
三、イヴェット=ロゼノワール様
私は、イヴェット様に命を救われました、みたいです。
みたい、というのは、正直、よく思い出せないのです。
でも、心から感謝しています。
本当に、本当に感謝しています。
ただ、最初に目を開けた時、すぐ近くにイヴェット様の顔があって、あまりにも無表情だったので、私は自分が生き返ったのか、死後の審査を受けているのか分かりませんでした。
「起きたのね」
それが、イヴェット様の第一声でした。
私はうまく声が出せず、ただ頷きました。
すると、イヴェット様は私の手首に触れ、脈を確かめ、瞳を見て、短く言いました。
「安定」
安定。
たぶん、喜んでよい言葉だったのだと思います。
でも、言い方があまりにも診療記録でした。
私は命を救われたはずなのに、なぜか自分が資料になった気持ちになりました。
イヴェット様は、冷たい方に見えます。
けれど、冷たいのとは少し違う気がします。
余計なことを言わない。
必要なことだけをする。
そして、必要なら迷わない。
そういう方です。
私が何度もお礼を言うと、イヴェット様は少しだけ目を細めました。
「生きたのは、あなた」
そう言われました。
「私は処置をしただけ」
私は、少し泣きそうになりました。
この方は、優しい言葉を選ばない。
でも、たぶん、優しくないわけではないのです。
ただし。
優しいかどうかと、怖くないかどうかは別です。
イヴェット様が「少し痛いわ」と言った処置は、普通に痛かったです。
◇
四、ウルティマ様
イヴェット様の副官が、ウルティマ様です。
最初に申し上げます。
声量がすごいです。
いえ、常に叫んでいるわけではありません。
ですが、感情が動いた瞬間、部屋の空気が揺れます。
私が目覚めた翌日、ウルティマ様は私の枕元で記録板を抱えていました。
「セリネ様! 体調はいかがですか! 痛みは!? 違和感は!? 夢は見ましたか!? イヴェット様の処置の記憶はありますか!? ありませんか!? ないならそれはそれで尊いですね!」
私は、どう答えればよいのか分かりませんでした。
すると、イヴェット様が一言。
「ウルティマ」
「はい。黙ります!」
本当に黙りました。
三秒ほど。
その後、小声で記録を始めました。
「沈黙中……しかし観察は継続……」
すごい方です。
ウルティマ様は、とにかくイヴェット様が好きです。
尊敬、敬愛、崇拝、観察、記録、悶絶。
おそらく、そのすべてです。
イヴェット様が「水」と言えば、
「今の短い指示! 無駄がない! 水という一語に含まれる処置判断と環境調整!」
と感動します。
イヴェット様が「黙って」と言えば、
「はい! 沈黙を賜りました!」
と喜びます。
私にはよく分かりません。
ただ、ウルティマ様は、騒がしいだけではありません。
処置の補助は正確で、記録は速く、必要なものは必ず先に準備されています。
やかましいのに、手元は静か。
不思議な方です。
怖くはありません。
少しだけ、疲れます。
◇
五、ノア=ファルケンリート様
ノア様は、最初に見た時、貴族という感じがあまりしませんでした。
もちろん、身なりは美しく、雰囲気もただ者ではありません。
ですが、他の当主の方々と比べると、とても軽やかです。
「やあ。生きててよかったね」
そう言われました。
私は、少し戸惑いながら答えました。
「ありがとうございます」
ノア様は笑いました。
「うん。お礼はイヴェットに言うといいよ。ぼくは特に何もしてないし」
軽い。
けれど、不思議と嫌ではありませんでした。
ノア様の言葉は軽いのに、相手を踏まないのです。
近いようで、踏み込まない。
妙に距離が正確。
たぶん、空間を扱う方だからでしょうか。
心の距離も、少しだけ上手い気がします。
ある時、廊下で迷っていた私に、ノア様が言いました。
「そっち行くと戻れなくなるよ」
「では、こちらですか?」
「そっちは落ちる」
「落ちる?」
「空間的に」
「空間的に?」
私は、どう反応すべきか分かりませんでした。
ノア様は笑って、私の前に手を出しました。
「こっち」
その一歩先に、さっきまでなかった廊下がありました。
私はもう、深く考えないことにしました。
ノア様は親しみやすい方です。
ただし、ノア様の「近道」は、普通の近道ではありません。
◇
六、シアン様
シアン様は、ノア様の副官です。
とても真面目な方です。
そして、ノア様のことをとても大切にされています。
大切に、という言葉では足りないかもしれません。
警戒しています。
見守っています。
管理しています。
守護しています。
ノア様が椅子に座る前に椅子を確認します。
ノア様が知らない人に近づく前に相手を確認します。
ノア様が何か面白そうなものを見つけると、先に危険性を確認します。
ノア様が「ちょっと行ってくる」と言うと、シアン様は必ず聞きます。
「どこへですか」
「ちょっと」
「ちょっとでは場所が特定できません」
「近く」
「近くの定義を」
「シアン、細かい」
「ノア様が大雑把なのです」
このやり取りを、私は三回見ました。
たぶん日常です。
シアン様は、私にも丁寧に接してくださいます。
ただ、ノア様の近くに私が立つと、ほんの少しだけ視線が鋭くなります。
特に、レインさんやセシルさんに対しては厳しいです。
なんというか、ゴミを見る目を向けていますし、実際に汚物扱いします。
たぶん、警戒だと思います。
悪意は…うん、男性陣に対しては…ありますね。
過去に何かあったのでしょうか。
私は危険人物ではないと伝えたかったのですが、自信がありません。
ヴェスペラに戻ってから、自分が何に巻き込まれているのか、私自身よく分かっていないからです。
シアン様は、とても頼れる方です。
ただし、ノア様が関わると、判断基準が厳しくなります。
◇
七、オルフェリア=エルミラージュ様
オルフェリア様は、美しい方です。
まず、それを書いておくべきだと思います。
髪も、声も、指先の動きも、扇を開く仕草も、すべてが絵のようです。
けれど、美しさに気を取られていると、いつの間にか崖の縁に立たされているような気分になります。
比喩です。
たぶん。
オルフェリア様は、私を見ると微笑みました。
「まあ。思ったより元気そうで何よりですわ」
私は頭を下げました。
「おかげさまで」
「ふふ。よかったですわ。せっかく助かった命ですもの。これから色々なものを見なくては」
「はい」
「落涙崖など」
「はい?」
「眠り井戸など」
「はい?」
「骨灯りの地下道など」
その時、横からニル様が飛んできました。
「姉さま! セリネさんを観光地の実験台にしないでください!」
私はその瞬間、ニル様は命の恩人側に分類しようと思いました。
オルフェリア様は、悪い方ではないと思います。
ただ、面白いものが好きです。
そして、他人が少し困るところを見るのも、たぶん好きです。
私が困ると、楽しそうに微笑みます。
でも、本当に嫌がっている時には、たぶん止めてくれます。
たぶん。
そこに確信を持てないところが、オルフェリア様の恐ろしいところです。
美しい方です。
とても美しい方です。
そして、美しいバラのような方なのです。
◇
八、ニル様
ニル様は、オルフェリア様の妹君です。
そして、私にとっては、ヴェスペラで一番安心できる方かもしれません。
もちろん、ニル様も普通ではありません。
エルミラージュ家の方ですし、恐ろしい力もお持ちなのだと思います。
でも、少なくとも、困っている人を見てちゃんと困ってくださる。
これは、とても大事なことです。
ヴェスペラでは、困っている私を見て、
「面白いですわ」
「記録します!」
など、様々な反応が返ってきます。
その中で、ニル様だけは、
「あ、あの、大丈夫ですか?」
と聞いてくださいます。
それだけで、私は少し泣きそうになります。
ニル様は、資料をたくさん持ち歩いています。
説明も丁寧です。
ただ、オルフェリア様が隣にいると、常に精神力を削られているように見えます。
「姉さま、それは危険です」
「姉さま、その表現は誤解を招きます」
「姉さま、今のは案内ではなく脅しです」
「姉さま、セリネさんは一般的な感性の方です」
最後の言葉には、私は深く頷きました。
私は一般的な感性です。
少なくとも、そうでありたいです。
ニル様は、優しい方です。
ただし、心の中でたぶん、ものすごくたくさん叫んでいます。
私はそれを、表情から少しだけ読み取れるようになりました。
◇
総括
私は、この国で目覚めた時、自分がどこにいるのか分かりませんでした。
今も、正直、よく分かっていません。
けれど、ひとつだけ分かりました。
私が今まで過ごしていたヴェスペラはほんの上っ面だったということです。
ヴェスペラの当主の方々は、怖い。
変わっている。
説明が難しい。
たまに会話が成立しない。
それでも。
私は、この方々に命を繋いでもらった。
だから、記録の最後には、こう書いておきます。
皆様、とてもお優しい方々でした。
ただし、優しさの形が、だいぶ特殊でした。
私は筆を置きました。
その時、扉が開きました。
ウルティマ様が顔を出しました。
「セリネ様! 体調観察のお時間です! あと、先ほどの記録をちらっと見ました! イヴェット様の項、もっと情緒的な加筆が可能かと!」
「見たんですか!?」
「ちらっとです!」
その後ろから、イヴェット様の声がしました。
「ウルティマ」
ウルティマ様は笑顔で去っていきました。
私は、記録帳をそっと閉じました。
追記。
ヴェスペラでは、日記でも油断できない。




