表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
37/59

EP5 夜の公国ヴェスペラ 第31話 報告

扉が閉じる音を聞いて、オルフェリアはゆっくりと息を吐いた。

公国古城の上層。

ニルは椅子に座らされていた。

正確には、座ったというより、座らされた。

本人はまだ立っていようとしていたが、シアンに肩を押され、カレラに「座りなさい」と低く言われ、最終的に逃げ場を失ったのだ。

「……私は、大丈夫です」

「あれほど力を維持したのです。外傷よりも、精神的な疲労が大きいでしょう」

カレラが淡々と言った。

ニルは黙った。

足元に落ちた影は、まだ形を取り戻していない。

黒い水たまりのように薄く広がり、時折、彼女の指先に合わせて小さく震えるだけだった。

「……すみません」

「謝罪は不要です」

カレラは言う。

「必要なのは休息です」

「……はい」

ニルは小さく頷いた。

少し離れた長椅子には、テオドーラがいた。

薄い黒布を膝にかけ、半ば横になるように座っている。

目はほとんど閉じていた。

眠っているようにしか見えない。

だが、誰も彼女を眠っているとは思っていなかった。

「……カレラ、終わったの?」

かすかな声。

カレラが即座に一礼する。

「はい、テオドーラ様。試技は終了いたしました」

「そう…ですか」

「ニルちゃん、えらい…頑張ったのね…」

と言って、ぎこちないVサインを作る。瞼は半分閉じている。

その横で、ウルティマが両手を握りしめて震えていた。

「いや、あの、言っていいですか。言っていいですかね。今、すっごく言いたいことが十七個くらいあるんですけど」

「黙って」

イヴェットが短く言った。

「はい」

ウルティマは即答して黙った。

だが、身体は黙っていなかった。

膝が小刻みに揺れている。

ノアはテーブルに腰かけ、足をぶらぶらさせていた。

「いやあ、すごかったね。ボク、途中から笑うの忘れてたよ」

「あなたが黙ったのなら、相当ね」

イヴェットが言う。

「ひどいなあ。ボクだって空気は読むよ」

「読んだ結果、黙ることを選んだのなら成長ですね」

カレラが言った。

「カレラまでひどい」

ノアは肩をすくめる。

そして、視線をニルへ向けた。

「でも、ニルは本当にすごかったよ。あんなに力の使い方がうまくなってたんだねー」

ニルの肩が跳ねた。

「……あれは」

「うん?」

「少し、やりすぎました…」

細い声だった。

「でも、あの子が近くて。怖くて。終わるって思って…」

ニルは自分の手を見る。

まだ震えている。

「だから、夢中で…」

部屋の空気が、少しだけ静かになる。

イヴェットが目を細めた。

「判断としては、正しい」

「……正しい、ですか」

「ええ」

イヴェットは頷く。

「戦闘において、未知なる危機に対応する方法として、少なくとも、あなたの判断は誤りではないわ」

ウルティマが、我慢しきれず小さく手を上げた。

「一言だけ、一言だけいいですか」

「…短く」

「白髪ちゃん、何なんですか!?」

結局、叫んだ。

「だって無理ですよ、あれ! 挙動が明らかにおかしいじゃないですか! 影の先端だけ止める? ニルちゃんの権能を止めたり遅らせたりしましたよね?あれ、普通の術式じゃないですよね!? 我々の眷属でもないんですよね!? 何ですかあの白い静寂系不思議少女!」

「長い」

イヴェットが言った。

「はい!」

ウルティマはまた黙った。

だが、全員が否定はしなかった。

ニルも、ゆっくりと頷く。

「……怖かったです」

それは、素直な言葉だった。

「レインさんたちが怖いわけではありません。あの人たちは、怖いけど、怖くないです」

ノアが首を傾げる。

「どっち?」

「分かりません」

ニルは眉を下げる。

「怖いくらい真っ直ぐで、でも、嫌な感じはしませんでした。傷ついても、誰も逃げませんでした。誰かを見捨てたりもしませんでした。私のことも、倒そうとはしていたけど、殺そうとはしていませんでした」

「うん」

ノアは笑った。

「ボクも、そこは好きだな」

カレラが静かに続ける。

「ただ、ノエルという少女については、要観察です」

「ええ」

オルフェリアが言った。

それまで黙っていた彼女は、窓辺に立っていた。

黒いレースの袖から覗く手首には、もう傷跡すらない。

指先だけが、乾いた血の色を覚えているように見えた。

「彼女は、ヴェスペラの理に…いえ、世界の理に近い、のかもしれませんわ」

イヴェットが言う。

「ええ」

「では、危険?」

その問いに、オルフェリアは少しだけ考えた。

珍しい沈黙だった。

「危険ではありますわ」

静かな声。

「けれど、今すぐ排除すべき類ではありません」

シアンが初めて口を開いた。

「ニルを追い詰めました。あそこで突き放さなければ、顛末は変わっていたかもしれません」

声は低く、鋭い。

ニルが慌てて顔を上げる。

「シアンさん、大丈夫です。私も、たくさん傷つけましたし」

「それとこれとは別です」

「別、なのですか」

「別です」

シアンは即答した。

ニルは困った顔になった。

ノアがくすくす笑う。

「シアンはニルに甘いねえ」

「事実を述べただけです」

「そういうことにしとこう」

シアンはノアを睨んだ。

オルフェリアは、そのやり取りを聞き流すように微笑む。

「ノエルさんは警戒対象です。ただし、あの方々全体としては、好ましい」

「随分はっきり言いますね」

カレラが言う。

「ええ」

オルフェリアは頷いた。

「少なくとも、拙い正義を飾るだけの方々ではありませんでした。痛みに耐え、恐怖に触れ、それでも隣の者を手放さない。セリネを助けてくれたのが、あの方々でよかった、と思えるくらいには」

ウルティマがぼそりと呟く。

「あんなことしかけといて……」

「聞こえていますわ」

「褒めてます」

「そう」

オルフェリアは軽く流す。

イヴェットが腕を組んだ。

「レインという少年」

「ええ」

「無茶」

「ええ」

「けれど、芯はある」

オルフェリアは楽しそうに笑う。

「お好き?」

「嫌いではない」

イヴェットの返答は短い。

ノアが片手を上げる。

「ボクも嫌いじゃないよ。怒る順番が早いけど、逃げる順番は遅い。そういう人間は見ていて飽きない」

カレラは静かに言った。

「セシル殿は、状況判断が早いです。あの場で最も危険を理解していたのは彼でしょう」

「ラヴィニエさんも面白い…ですよ…」

テオドーラが言う。

「神官なのに、殴る方が上手い」

「そこは、私も少し気になりました」

カレラが真顔で頷いた。

ウルティマが震えながら言う。

「フィアちゃんはいいですね。反応が素直。ツッコミの呼吸があります。あの子がいると、関係性が詰まりすぎずに空気が抜けます。重要人材です」

「何の評価ですか」

シアンが冷たく言った。

ニルは、それを見て少しだけ笑いそうになった。

けれど、笑う前に、オルフェリアの視線が自分へ向いたことに気づき、背筋を伸ばす。

「ニル」

「……はい」

「まだ消耗がありますか」

「大丈夫です」

「嘘」

即答だった。

ニルは目を泳がせる。

「……少しだけ」

「少しだけ?」

「……かなり」

「最初からそう言いなさい」

オルフェリアが近づく。

ニルは反射的に身構えた。

オルフェリアは何も言わず、ニルの前に膝を折った。

「姉さま?」

ニルの声が裏返る。

オルフェリアは、黒い手袋を外した。

白い指が、ニルの頬に触れる。

「熱がありますわ」

「え、あの、大丈夫です」

「大丈夫ではありません」

「でも、皆さんが見ています」

「見せておけばよろしいのです」

「え?」

オルフェリアは、にこりと微笑んだ。

「ニルが可愛いことなど、隠す必要がありませんもの」

部屋の空気が止まった。

ニルも止まった。

ノアが口笛を吹きかけ、イヴェットに視線で止められた。

ウルティマは両手で口を押さえ、明らかに震えている。

シアンだけが当然のように頷いていた。

「……姉さま」

ニルの顔が、みるみる赤くなる。

「今、それを言う場面では」

「今だから言うのです」

「な、なぜ」

「頑張ったからですわ」

オルフェリアは、当たり前のように言った。

「怖かったでしょう」

ニルの息が止まる。

「痛かったでしょう」

「……」

「それでも、逃げませんでした」

ニルの目が揺れる。

オルフェリアの声は、先ほどレインたちを追い詰めていた時とはまるで違っていた。

柔らかく、低く、ニルだけを包むような声。

「成長しましたわ。力の扱いも、判断も、ずっと良くなりました」

「でも、私は」

「ニル」

オルフェリアの指が、そっとニルの髪を撫でた。

「よくできました」

ニルは完全に固まった。

褒められている。

それは分かる。

分かるのに、脳が処理できない。

姉さまは怖い。

姉さまは優しい。

姉さまは酷い。

姉さまは甘い。

全部本当なので、どこに心を置けばいいのか分からない。

「……ありがとうございます」

やっと出た声は、蚊の鳴くようなものだった。

オルフェリアは満足そうに微笑む。

「ええ」

そして、何事もなかったかのように立ち上がった。

「では、ニルは休息を。シアン、付き添いなさい」

「承知しました」

シアンが即座に答える。

「カレラ、客間の準備は」

「すでに整えています。治療用の部屋も開けています」

「よろしい」

「食事はどうされますか」

「重いものは避けなさい。彼らは疲れています。温かいものを」

カレラが少し意外そうに目を上げる。

「本当に歓待するのですね」

「ええ」

オルフェリアは微笑む。

「挨拶は終わりましたもの」

ノアが肩をすくめた。

「いやあ、初対面で闘技場に落として、散々痛めつけて、最後は客間にご案内。ヴェスペラ式の歓迎会、ほんと評判悪そう」

「評判など気にしておりませんわ」

「だろうね」

イヴェットが静かに言う。

「彼らは、受け入れるに足る」

「ええ」

「ただし、あの少女は観察対象に」

「もちろんですわ」

オルフェリアの笑みが、ほんの少しだけ薄くなる。

「ですが、触れ方は誤らない方がよろしいでしょうね」

「なぜ」

「レインが殴りに来ます」

ノアが笑った。

「もう来たじゃん」

「次は雷付きでしょう」

「それは面倒だ」

イヴェットが小さく息を吐く。

オルフェリアは窓の外を見る。

そこには星のない夜が広がっていた。

ウルティマが、また小さく手を上げた。

「今度は本当に短く言います」

イヴェットが見る。

「一言で」

「推せます」

「却下」

「一言なのに!?」

ノアが笑い、カレラが小さくため息をつき、シアンがニルの椅子の背後へ立つ。

ニルはまだ頬を赤くしていた。

オルフェリアに撫でられた髪の感触が残っている。

褒められた言葉も残っている。

痛みと、疲労はいつの間にか消えていた。姉さまの力、だろう。

しかし、あの時の恐怖は残っている。

全部が混ざって、心の置き場が分からない。

「……姉さま」

小さく呼ぶ。

オルフェリアが振り向く。

「何かしら」

「私、あの人たち……嫌いじゃないです」

オルフェリアの目が柔らかくなる。

「ええ」

「ノエルさんは、少し怖いです」

「ええ」

「でも、レインさんたちは、離れませんでした」

ニルは俯く。

「そういうのは、少し」

言葉を探す。

「……羨ましい、と思いました」

部屋が静かになる。

オルフェリアは、何もからかわなかった。

ただ、静かに頷く。

「そうですわね」

それだけだった。

けれど、ニルには十分だった。

カレラが扉へ向かう。

「では、客人の支度を進めます。食事、湯、替えの衣、治療を準備します」

「お願いしますわ」

「ニル様の休息室も」

「ええ。柔らかい寝具を」

ニルが慌てる。

「普通でいいです」

「柔らかいものを」

オルフェリアが言った。

「……はい」

ニルは諦めた。

ノアが楽しそうに笑う。

「甘やかすねえ」

「妹ですもの」

オルフェリアは平然と答えた。

ニルはまた顔を赤くした。

イヴェットが立ち上がる。

「では、私は陛下へ報告を」

オルフェリアが頷いた。

「お願いいたしますわ」

「白い子の件も?」

「ええ。伏せる理由はありませんもの」

イヴェットは短く頷く。

「分かった。ノエルという少女については、警戒対象。ただし、現時点では敵対対象ではない。そう報告する」

「適切ですわ」

ウルティマが小さく呟く。

「白い子、記録対象……関係性、最重要……」

「ウルティマ」

「はい、黙ります」

それぞれが動き始める。

先ほどまで試す側だった者たちが、今度は客を迎える側として。

闘技場での熱は、少しずつ遠ざかっていく。

血と影の匂いの代わりに、湯と食事と清潔な布の支度が進んでいく。

それは不思議な切り替わりだった。

残酷で。

礼儀正しくて。

どこまでも夜の国らしい。

テオドーラは、長椅子の上で半分眠ったまま、ぽつりと呟いた。

「……夜に、白が残った」

カレラがそっと視線を向ける。

「テオドーラ様?」

「なんでもない」

そう言って、彼女は今度こそ眠ったように目を閉じた。

オルフェリアは、窓の外へ視線を向ける。

闘技場は、もうここからは見えない。

けれど、砕けた黒曜石の欠片に残っていた白い霜だけは、なぜか目の奥に焼きついていた。

「……夜に残る霜、ですか」

誰に言うでもなく、オルフェリアは呟く。

「さて」

彼女は微笑んだ。

「この霜が、吉兆であればよいのですけれど」

その声は、いつものように優雅だった。

けれど、ほんのわずかに。

警戒の色を帯びていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ