EP5 夜の公国ヴェスペラ 第31話 報告
扉が閉じる音を聞いて、オルフェリアはゆっくりと息を吐いた。
公国古城の上層。
ニルは椅子に座らされていた。
正確には、座ったというより、座らされた。
本人はまだ立っていようとしていたが、シアンに肩を押され、カレラに「座りなさい」と低く言われ、最終的に逃げ場を失ったのだ。
「……私は、大丈夫です」
「あれほど力を維持したのです。外傷よりも、精神的な疲労が大きいでしょう」
カレラが淡々と言った。
ニルは黙った。
足元に落ちた影は、まだ形を取り戻していない。
黒い水たまりのように薄く広がり、時折、彼女の指先に合わせて小さく震えるだけだった。
「……すみません」
「謝罪は不要です」
カレラは言う。
「必要なのは休息です」
「……はい」
ニルは小さく頷いた。
少し離れた長椅子には、テオドーラがいた。
薄い黒布を膝にかけ、半ば横になるように座っている。
目はほとんど閉じていた。
眠っているようにしか見えない。
だが、誰も彼女を眠っているとは思っていなかった。
「……カレラ、終わったの?」
かすかな声。
カレラが即座に一礼する。
「はい、テオドーラ様。試技は終了いたしました」
「そう…ですか」
「ニルちゃん、えらい…頑張ったのね…」
と言って、ぎこちないVサインを作る。瞼は半分閉じている。
その横で、ウルティマが両手を握りしめて震えていた。
「いや、あの、言っていいですか。言っていいですかね。今、すっごく言いたいことが十七個くらいあるんですけど」
「黙って」
イヴェットが短く言った。
「はい」
ウルティマは即答して黙った。
だが、身体は黙っていなかった。
膝が小刻みに揺れている。
ノアはテーブルに腰かけ、足をぶらぶらさせていた。
「いやあ、すごかったね。ボク、途中から笑うの忘れてたよ」
「あなたが黙ったのなら、相当ね」
イヴェットが言う。
「ひどいなあ。ボクだって空気は読むよ」
「読んだ結果、黙ることを選んだのなら成長ですね」
カレラが言った。
「カレラまでひどい」
ノアは肩をすくめる。
そして、視線をニルへ向けた。
「でも、ニルは本当にすごかったよ。あんなに力の使い方がうまくなってたんだねー」
ニルの肩が跳ねた。
「……あれは」
「うん?」
「少し、やりすぎました…」
細い声だった。
「でも、あの子が近くて。怖くて。終わるって思って…」
ニルは自分の手を見る。
まだ震えている。
「だから、夢中で…」
部屋の空気が、少しだけ静かになる。
イヴェットが目を細めた。
「判断としては、正しい」
「……正しい、ですか」
「ええ」
イヴェットは頷く。
「戦闘において、未知なる危機に対応する方法として、少なくとも、あなたの判断は誤りではないわ」
ウルティマが、我慢しきれず小さく手を上げた。
「一言だけ、一言だけいいですか」
「…短く」
「白髪ちゃん、何なんですか!?」
結局、叫んだ。
「だって無理ですよ、あれ! 挙動が明らかにおかしいじゃないですか! 影の先端だけ止める? ニルちゃんの権能を止めたり遅らせたりしましたよね?あれ、普通の術式じゃないですよね!? 我々の眷属でもないんですよね!? 何ですかあの白い静寂系不思議少女!」
「長い」
イヴェットが言った。
「はい!」
ウルティマはまた黙った。
だが、全員が否定はしなかった。
ニルも、ゆっくりと頷く。
「……怖かったです」
それは、素直な言葉だった。
「レインさんたちが怖いわけではありません。あの人たちは、怖いけど、怖くないです」
ノアが首を傾げる。
「どっち?」
「分かりません」
ニルは眉を下げる。
「怖いくらい真っ直ぐで、でも、嫌な感じはしませんでした。傷ついても、誰も逃げませんでした。誰かを見捨てたりもしませんでした。私のことも、倒そうとはしていたけど、殺そうとはしていませんでした」
「うん」
ノアは笑った。
「ボクも、そこは好きだな」
カレラが静かに続ける。
「ただ、ノエルという少女については、要観察です」
「ええ」
オルフェリアが言った。
それまで黙っていた彼女は、窓辺に立っていた。
黒いレースの袖から覗く手首には、もう傷跡すらない。
指先だけが、乾いた血の色を覚えているように見えた。
「彼女は、ヴェスペラの理に…いえ、世界の理に近い、のかもしれませんわ」
イヴェットが言う。
「ええ」
「では、危険?」
その問いに、オルフェリアは少しだけ考えた。
珍しい沈黙だった。
「危険ではありますわ」
静かな声。
「けれど、今すぐ排除すべき類ではありません」
シアンが初めて口を開いた。
「ニルを追い詰めました。あそこで突き放さなければ、顛末は変わっていたかもしれません」
声は低く、鋭い。
ニルが慌てて顔を上げる。
「シアンさん、大丈夫です。私も、たくさん傷つけましたし」
「それとこれとは別です」
「別、なのですか」
「別です」
シアンは即答した。
ニルは困った顔になった。
ノアがくすくす笑う。
「シアンはニルに甘いねえ」
「事実を述べただけです」
「そういうことにしとこう」
シアンはノアを睨んだ。
オルフェリアは、そのやり取りを聞き流すように微笑む。
「ノエルさんは警戒対象です。ただし、あの方々全体としては、好ましい」
「随分はっきり言いますね」
カレラが言う。
「ええ」
オルフェリアは頷いた。
「少なくとも、拙い正義を飾るだけの方々ではありませんでした。痛みに耐え、恐怖に触れ、それでも隣の者を手放さない。セリネを助けてくれたのが、あの方々でよかった、と思えるくらいには」
ウルティマがぼそりと呟く。
「あんなことしかけといて……」
「聞こえていますわ」
「褒めてます」
「そう」
オルフェリアは軽く流す。
イヴェットが腕を組んだ。
「レインという少年」
「ええ」
「無茶」
「ええ」
「けれど、芯はある」
オルフェリアは楽しそうに笑う。
「お好き?」
「嫌いではない」
イヴェットの返答は短い。
ノアが片手を上げる。
「ボクも嫌いじゃないよ。怒る順番が早いけど、逃げる順番は遅い。そういう人間は見ていて飽きない」
カレラは静かに言った。
「セシル殿は、状況判断が早いです。あの場で最も危険を理解していたのは彼でしょう」
「ラヴィニエさんも面白い…ですよ…」
テオドーラが言う。
「神官なのに、殴る方が上手い」
「そこは、私も少し気になりました」
カレラが真顔で頷いた。
ウルティマが震えながら言う。
「フィアちゃんはいいですね。反応が素直。ツッコミの呼吸があります。あの子がいると、関係性が詰まりすぎずに空気が抜けます。重要人材です」
「何の評価ですか」
シアンが冷たく言った。
ニルは、それを見て少しだけ笑いそうになった。
けれど、笑う前に、オルフェリアの視線が自分へ向いたことに気づき、背筋を伸ばす。
「ニル」
「……はい」
「まだ消耗がありますか」
「大丈夫です」
「嘘」
即答だった。
ニルは目を泳がせる。
「……少しだけ」
「少しだけ?」
「……かなり」
「最初からそう言いなさい」
オルフェリアが近づく。
ニルは反射的に身構えた。
オルフェリアは何も言わず、ニルの前に膝を折った。
「姉さま?」
ニルの声が裏返る。
オルフェリアは、黒い手袋を外した。
白い指が、ニルの頬に触れる。
「熱がありますわ」
「え、あの、大丈夫です」
「大丈夫ではありません」
「でも、皆さんが見ています」
「見せておけばよろしいのです」
「え?」
オルフェリアは、にこりと微笑んだ。
「ニルが可愛いことなど、隠す必要がありませんもの」
部屋の空気が止まった。
ニルも止まった。
ノアが口笛を吹きかけ、イヴェットに視線で止められた。
ウルティマは両手で口を押さえ、明らかに震えている。
シアンだけが当然のように頷いていた。
「……姉さま」
ニルの顔が、みるみる赤くなる。
「今、それを言う場面では」
「今だから言うのです」
「な、なぜ」
「頑張ったからですわ」
オルフェリアは、当たり前のように言った。
「怖かったでしょう」
ニルの息が止まる。
「痛かったでしょう」
「……」
「それでも、逃げませんでした」
ニルの目が揺れる。
オルフェリアの声は、先ほどレインたちを追い詰めていた時とはまるで違っていた。
柔らかく、低く、ニルだけを包むような声。
「成長しましたわ。力の扱いも、判断も、ずっと良くなりました」
「でも、私は」
「ニル」
オルフェリアの指が、そっとニルの髪を撫でた。
「よくできました」
ニルは完全に固まった。
褒められている。
それは分かる。
分かるのに、脳が処理できない。
姉さまは怖い。
姉さまは優しい。
姉さまは酷い。
姉さまは甘い。
全部本当なので、どこに心を置けばいいのか分からない。
「……ありがとうございます」
やっと出た声は、蚊の鳴くようなものだった。
オルフェリアは満足そうに微笑む。
「ええ」
そして、何事もなかったかのように立ち上がった。
「では、ニルは休息を。シアン、付き添いなさい」
「承知しました」
シアンが即座に答える。
「カレラ、客間の準備は」
「すでに整えています。治療用の部屋も開けています」
「よろしい」
「食事はどうされますか」
「重いものは避けなさい。彼らは疲れています。温かいものを」
カレラが少し意外そうに目を上げる。
「本当に歓待するのですね」
「ええ」
オルフェリアは微笑む。
「挨拶は終わりましたもの」
ノアが肩をすくめた。
「いやあ、初対面で闘技場に落として、散々痛めつけて、最後は客間にご案内。ヴェスペラ式の歓迎会、ほんと評判悪そう」
「評判など気にしておりませんわ」
「だろうね」
イヴェットが静かに言う。
「彼らは、受け入れるに足る」
「ええ」
「ただし、あの少女は観察対象に」
「もちろんですわ」
オルフェリアの笑みが、ほんの少しだけ薄くなる。
「ですが、触れ方は誤らない方がよろしいでしょうね」
「なぜ」
「レインが殴りに来ます」
ノアが笑った。
「もう来たじゃん」
「次は雷付きでしょう」
「それは面倒だ」
イヴェットが小さく息を吐く。
オルフェリアは窓の外を見る。
そこには星のない夜が広がっていた。
ウルティマが、また小さく手を上げた。
「今度は本当に短く言います」
イヴェットが見る。
「一言で」
「推せます」
「却下」
「一言なのに!?」
ノアが笑い、カレラが小さくため息をつき、シアンがニルの椅子の背後へ立つ。
ニルはまだ頬を赤くしていた。
オルフェリアに撫でられた髪の感触が残っている。
褒められた言葉も残っている。
痛みと、疲労はいつの間にか消えていた。姉さまの力、だろう。
しかし、あの時の恐怖は残っている。
全部が混ざって、心の置き場が分からない。
「……姉さま」
小さく呼ぶ。
オルフェリアが振り向く。
「何かしら」
「私、あの人たち……嫌いじゃないです」
オルフェリアの目が柔らかくなる。
「ええ」
「ノエルさんは、少し怖いです」
「ええ」
「でも、レインさんたちは、離れませんでした」
ニルは俯く。
「そういうのは、少し」
言葉を探す。
「……羨ましい、と思いました」
部屋が静かになる。
オルフェリアは、何もからかわなかった。
ただ、静かに頷く。
「そうですわね」
それだけだった。
けれど、ニルには十分だった。
カレラが扉へ向かう。
「では、客人の支度を進めます。食事、湯、替えの衣、治療を準備します」
「お願いしますわ」
「ニル様の休息室も」
「ええ。柔らかい寝具を」
ニルが慌てる。
「普通でいいです」
「柔らかいものを」
オルフェリアが言った。
「……はい」
ニルは諦めた。
ノアが楽しそうに笑う。
「甘やかすねえ」
「妹ですもの」
オルフェリアは平然と答えた。
ニルはまた顔を赤くした。
イヴェットが立ち上がる。
「では、私は陛下へ報告を」
オルフェリアが頷いた。
「お願いいたしますわ」
「白い子の件も?」
「ええ。伏せる理由はありませんもの」
イヴェットは短く頷く。
「分かった。ノエルという少女については、警戒対象。ただし、現時点では敵対対象ではない。そう報告する」
「適切ですわ」
ウルティマが小さく呟く。
「白い子、記録対象……関係性、最重要……」
「ウルティマ」
「はい、黙ります」
それぞれが動き始める。
先ほどまで試す側だった者たちが、今度は客を迎える側として。
闘技場での熱は、少しずつ遠ざかっていく。
血と影の匂いの代わりに、湯と食事と清潔な布の支度が進んでいく。
それは不思議な切り替わりだった。
残酷で。
礼儀正しくて。
どこまでも夜の国らしい。
テオドーラは、長椅子の上で半分眠ったまま、ぽつりと呟いた。
「……夜に、白が残った」
カレラがそっと視線を向ける。
「テオドーラ様?」
「なんでもない」
そう言って、彼女は今度こそ眠ったように目を閉じた。
オルフェリアは、窓の外へ視線を向ける。
闘技場は、もうここからは見えない。
けれど、砕けた黒曜石の欠片に残っていた白い霜だけは、なぜか目の奥に焼きついていた。
「……夜に残る霜、ですか」
誰に言うでもなく、オルフェリアは呟く。
「さて」
彼女は微笑んだ。
「この霜が、吉兆であればよいのですけれど」
その声は、いつものように優雅だった。
けれど、ほんのわずかに。
警戒の色を帯びていた。




