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EP5 夜の公国ヴェスペラ 第30話 呼んで


闘技場を出ると、空気の温度が変わった。

さっきまでの青白い燭火。

黒曜石の床。

叩きつけられた身体の痛み。

夜そのものに見下ろされているような圧迫感。

それらが、厚い扉の向こうへ置き去りにされる。

案内されたのは、城の一室だった。

客間、なのだろう。

壁には黒い布がかけられ、銀の燭台には淡い火が灯っている。

中央には長椅子と低い卓。

奥には寝台もあり、白い薄布が静かに垂れていた。

豪奢ではある。

だが、どこか冷たい。

「ノエルさんを、こちらへ」

ラヴィニエが言う。

レインは黙って頷き、ノエルを抱えるようにして寝台へ運んだ。

ノエルは軽かった。

驚くほど軽い。

さっきまで、黒い夜を真正面から押し返そうとしていた身体とは思えないほど。

「……ごめん」

レインが小さく呟く。

ノエルは、ぼんやりと彼を見た。

「どうして、謝るの」

「守れなかった」

「……違う」

ノエルは首を横に振ろうとして、痛みに顔をしかめた。

ラヴィニエがすぐに額へ手を添える。

「動かないでください。まだ傷が閉じきっていません」

「うん」

ノエルは素直に頷く。

けれど、その目はどこか遠くを見ていた。

自分の身体ではなく。

もっと奥にある、知らない何かを見ているようだった。

フィアが寝台の横に座り込む。

いつもの軽さはなかった。

「ノエル」

「うん」

「痛い?」

ノエルは少し考えた。

「今は、少し」

「今は?」

「さっきは、分からなかった」

フィアの指が、ぎゅっと膝の上で握られる。

ラヴィニエの祈りが、淡く部屋を満たしている。

白い光が、ノエルの肩から腕へ流れ、裂けた皮膚を少しずつ繋いでいく。

血は止まりつつあった。

呼吸も落ち着いている。

それでも、ノエルの震えは止まらない。

傷のせいではなかった。

「……勝手に、動いた」

ぽつり、とノエルが言った。

誰も口を挟まなかった。

「考えてなかった。怖いって思ったはずなのに、怖くなかった。痛いはずなのに、痛くなかった」

淡々とした声だった。

けれど、言葉の端がかすかに揺れている。

「ニルの影が、見えた。動く前が、見えた。どうすれば届くか、分かった。分かったから、動いた」

ノエルは自分の手を見る。

そこにはもう、白い燐光はない。

ただ、血の跡と、薄く残った霜の名残だけがあった。

「でも、私が考えたんじゃない」

小さな声。

「私が、私じゃないみたいだった」

部屋の中が静まり返った。

レインは拳を握った。

さっきオルフェリアを殴ろうとした拳。

当たらなかった拳。

その拳には、もう傷も痛みもほとんどない。

それが、余計に腹立たしかった。

「……戻ってきただろ」

レインが言った。

ノエルが顔を上げる。

「え?」

「お前、今ここにいるだろ」

「……いる」

「なら、それでいい」

乱暴な言い方だった。

けれど、レインにはそれ以外の言葉が見つからなかった。

「さっきのお前が何だったのか、俺には分からねえ。たぶん、セシルにもラヴィにも分からねえ」

セシルが小さく息を吐く。

「否定はできません」

「でも」

レインは続けた。

「お前は、お前だ」

ノエルは、瞬きをする。

「私」

「そうだよ」

レインは、少しだけ目を逸らした。

「勝手にいなくならなかった。戻ってきたなら、まずそれでいい」

フィアが、ふっと息を漏らした。

「レイン、言い方」

「うるせえ」

「でも、ちょっと分かる」

フィアはノエルの手を取った。

その手は冷たかった。

いつもより、ずっと。

フィアは一瞬だけ肩を震わせたが、離さなかった。

「怖かったよ」

ノエルがフィアを見る。

「私が?」

「うん」

フィアは正直に頷いた。

「すごく怖かった。きれいで、冷たくて、何を見てるのか分からなくて……ノエルなのに、ノエルじゃないみたいで」

ノエルの指が、かすかに強張る。

フィアはその手を、少し強く握った。

「でも」

声が柔らかくなる。

「ノエルがいなくなる方が、もっと怖い」

ノエルは、何も言わなかった。

フィアは続ける。

「だから、怖かったって言う。でも、嫌いになったわけじゃない。近づきたくないわけでもない」

「……うん」

「むしろ、ちゃんと怖がらせてよ」

「どういう意味?」

「知らないまま急に消えられる方が嫌って意味」

ノエルは、少しだけ困った顔をした。

「難しい」

「でしょ」

フィアは小さく笑った。

「だから、一緒に考えるの」

セシルが寝台の傍へ進み出た。

その表情はいつも通り静かだったが、目には疲労が濃く滲んでいる。

「ノエル殿」

「うん」

「あの状態の詳細は分かりません。ですが、一つだけ確かなことがあります」

ノエルはセシルを見る。

「何?」

「あなたは、我々を守ろうとしました」

セシルは断言した。

「意識が明瞭でなかったとしても、行動の向きは明確でした。ニル殿の攻撃を止めようとした。衝撃を受け止めようとした。少なくとも、我々に害を及ぼそうとはしていません」

ノエルは、目を伏せる。

「でも、次もそうとは限らない」

その一言に、全員が沈黙した。

ノエルは続ける。

「私が、私じゃなくなったら。次は、誰かを傷つけるかもしれない」

「その時は止めます」

セシルは即答した。

ノエルが顔を上げる。

セシルは真っ直ぐに彼女を見ていた。

「あなたを傷つけるためではありません。あなたが戻ってくる場所を守るために、止めます」

「戻ってくる場所」

「はい」

セシルは頷く。

「以前、私があなたに言ったことを覚えていますか」

ノエルは少し考えた。

「危険を感じたら、下がる」

「そうです」

「安全な位置まで」

「はい」

「安全な位置は……セシルの後ろ」

セシルの表情が、少しだけ柔らかくなった。

「覚えていてくださったのですね」

「うん」

「ならば、今回も同じです」

セシルは静かに言った。

「戻る場所が分からなくなったら、私の後ろへ来てください。あるいは、レインさんの隣でも、フィアさんの手の届く場所でも、ラヴィニエさんの祈りの下でも構いません」

一拍置く。

「我々の誰かが、あなたの位置を覚えています」

ノエルの瞳が揺れた。

ラヴィニエが、治療の手を止めずに微笑む。

「ノエルさん」

「うん」

「人は、自分の中に知らない部屋を持っています」

ノエルは首を傾げる。

「部屋?」

「ええ。開けたことのない扉。置いた覚えのない箱。誰かの声が残っている暗い場所。祈りとは、そういう場所に灯りを持って入ることでもあります」

フィアが小声で呟く。

「また変なこと言い出した」

「大事なことです」

ラヴィニエはにこやかに返す。

そして、ノエルへ視線を戻した。

「知らない場所があることと、あなたがあなたでないことは、同じではありません」

ノエルは、静かにその言葉を聞いていた。

「私は、私?」

「少なくとも、私はそう思っています」

ラヴィニエは、少しだけ楽しそうに目を細める。

「もし違うものが混じっていたとしても、それが今日、ノエルさんを全部奪ったわけではありません」

「どうして分かるの」

「戻ってきたからです」

レインと同じことを、ラヴィニエはまったく違う温度で言った。

「戻ってきたなら、そこには帰る場所があります」

ノエルは黙った。

長い沈黙だった。

やがて、彼女は小さく息を吸う。

「……白い場所を、見た」

誰も動かなかった。

「何もない場所。声があった」

レインの表情が変わる。

フィアも手に力を込めた。

セシルは何か言いかけて、飲み込んだ。

ノエルは続ける。

「王都の道も見た。ひとりで歩いていた。何も分からなかった。お腹が空いているのかも、寒いのかも、分からなかった」

視線がレインへ向く。

「あの時、レインに出会った」

「……ああ」

レインは少しだけ顔をしかめる。

「たまたまだ」

「たまたまでも」

ノエルは言う。

「ラヴィが、パンをくれた。住む場所をくれた。セシルが、守ってくれた。後ろに下がれって言った。フィアが、髪にリボンをつけた」

フィアが少し照れたように目を逸らす。

「あれ、まだ覚えてたんだ」

「覚えてる」

ノエルは、自分の胸元に手を置いた。

「名前を呼ばれた。何度も。そうしたら、空白が少し小さくなった」

部屋の空気が、静かに変わった。

ノエルは、少しだけ迷ってから言う。

「だから、たぶん」

声が震える。

「私は、最初から私だったわけじゃない」

誰も、すぐには否定しなかった。

それは優しさではなく、誠実さだった。

ノエルは続ける。

「でも、今の私は、みんなが呼んでくれる」

レインが息を止める。

「だから…」

ノエルの指が、フィアの手を握り返した。

「…また、呼んで」

小さな声だった。

けれど、それは祈りにも似ていた。

「私が分からなくなったら、呼んで」

フィアの目が潤む。

「呼ぶよ」

即答だった。

「何回でも呼ぶ」

セシルも頷く。

「必ず」

ラヴィニエが微笑む。

「ええ。声が届くまで」

レインは少し黙っていた。

それから、乱暴に頭を掻く。

「……呼ぶに決まってんだろ」

ノエルが、レインを見る。

「本当?」

「嘘ついてどうすんだよ」

「でも、レインは面倒くさそうにする」

「する」

「するんだ」

「するけど、呼ぶ」

フィアが小さく笑った。

セシルも、わずかに肩の力を抜く。

ラヴィニエの祈りが、最後に淡く光った。

「傷は、ひとまず塞がりました」

ノエルの肩口から、白光が消える。

完全に治ったわけではない。

だが、血は止まり、呼吸も安定していた。

「しばらくは安静です」

「分かった」

ノエルは頷く。

それから、自分の掌を見る。

霜は、もう消えていた。

けれど、冷たさだけが、ほんの少し残っている。

ノエルはその手を握る。

フィアの手が、上から重なった。

セシルの白い外套が、寝台の横にかけられる。

ラヴィニエは祈りを閉じる。

レインは扉の方へ歩き、そこに背を預けた。

「寝ろ」

ぶっきらぼうに言う。

「見張ってる」

ノエルは瞬きをした。

「誰を?」

「全部だよ」

「全部」

少し間を置いて、レインは付け足す。

「お前が、またどっか行かねえようにも」

ノエルは、しばらくレインを見ていた。

それから、小さく頷いた。

「うん」

目を閉じる。

部屋の中に、静かな時間が戻る。

けれど、それは白い場所の静けさではなかった。

誰かの息遣いがある。

祈りの残り香がある。

握られた手の温度がある。

ノエルは、その温度を確かめながら、ゆっくりと眠りに落ちていった。


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