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EP5 夜の公国ヴェスペラ 第29話 夜に残る霜

「双方、そこまで」


オルフェリアの声が、闘技場に落ちた。

その一言で、夜がほどける。

ニルの足元に絡みついていた影が、力を失ったように床へ沈んだ。

背中に広がっていた黒い翼も、輪郭を失い、黒曜石の上に滲むように消えていく。

ニルは膝をついたまま、荒く息をしていた。

「……は、ぁ……っ」

指先が震えている。

顔色も悪い。

それでも、彼女は倒れなかった。

倒れまいとしていた。

一方で、ノエルはラヴィニエの腕の中にいた。

白い燐光は、もう消えている。

瞳の光も薄れ、いつもの淡い色に戻りつつあった。

けれど、肩口から流れた血はまだ乾いていない。

唇の端にも赤が残っている。

「動かないでください」

ラヴィニエが静かに言う。

その声は柔らかかった。

だが、祈りの手は迷わない。

淡い白光がノエルの傷口へ重なり、裂けた皮膚をゆっくりと塞いでいく。

ノエルは、自分の手を見ていた。

「……私」

声が震えている。

「…何を、したの」

誰も、すぐには答えられなかった。

レインはそれを見ていた。

ノエルの血。

震える指。

何が起きたのか分からないという顔。

そして、観覧席で微笑むオルフェリア。

何かが、切れた。

「……てめえ」

低い声だった。

セシルが気づく。

「レイン」

だが、止めるには遅かった。

レインは剣を捨てるように床へ落とし、黒曜石を蹴った。

「どこが挨拶だ、言ってみろよ!」

観覧席へ続く段差を駆け上がる。

傷だらけの身体が悲鳴を上げた。

肋が軋み、脇腹の裂傷から血が滲む。

さっきニルに叩き落とされた衝撃が、まだ全身に残っている。

それでも止まらない。

「レイン!」

セシルが叫ぶ。

フィアも息を呑んだ。

「ちょ、待って――!」

レインは聞いていなかった。

観覧席の最前列。

黒いレースの衣を揺らしながら、オルフェリアは立っていた。

逃げない。

身構えない。

目を逸らさない。

ただ、微笑んでいる。

「まあ」

白い指先が、頬の横で小さく揺れた。

「お元気ですこと」

「ふざけんな!」

レインの拳が振り抜かれる。

狙いは頬。

怒りを叩きつけるには十分すぎる拳だった。

届く。

誰もがそう思った。

レイン自身も、そう感じていた。

拳は、確かにオルフェリアの顔面を捉えていた。

なのに。

当たらなかった。

「――っ?」

拳が空を切る。

オルフェリアは動いていない。

一歩も引いていない。

首を傾けてもいない。

瞬きすらしていない。

風が吹いたわけでもない。

足が滑ったわけでもない。

誰かが割って入ったわけでもない。

ただ、当たらなかった。

レインの拳は、オルフェリアの頬のすぐ横を通り過ぎていた。

殴り損ねた後の姿勢だけが、最初からそこに置かれていたかのように。

「……は?」

レインの息が止まる。

拳を振った感覚はある。

力を込めた感覚もある。

相手へ届く軌道も見えていた。

なのに、ない。

そこにだけ、結果がない。

「……何をした」

レインが歯を食いしばる。

「お前、今、動いてねえだろ」

オルフェリアは、静かに彼を見た。

「ええ」

それだけだった。

その返答が、一番気味が悪かった。

レインはもう一度拳を握ろうとした。

その時だった。

ずきり、と走るはずだった脇腹の痛みが消えていた。

「……?」

レインは視線を落とす。

破れた服の下。

さっきまで血が滲んでいた脇腹の傷が、塞がっていた。

完全ではない。

だが、深かった裂傷は薄い赤い線になっている。

肋の痛みも軽い。

口の中に溜まっていた血の味も、急に薄れていた。

「な……」

レインが一歩下がる。

「何だ、これ」

オルフェリアは、答えない。

ただ、微笑んでいる。

レインの背筋に、冷たいものが走った。

何かされたのはわかる、だが、何をされたのかがわからなかった。

ニルの時は、まだ分かった。

踏み込みが曲がった。

雷が流れた。

剣筋が逸れた。

力の向きが、おかしくなった。

だが、今のこれは違う。

曲がったのではない。

流れたのでもない。

防がれたのでもない。

ただ、拳は外れていた。

傷は塞がっていた。

過程だけが、どこにもない。

「……化け物かよ」

レインが呟く。

オルフェリアは、嬉しそうに目を細めた。

「ええ。この国では、褒め言葉ですわ」

「褒めてねえ」

「存じております」

セシルが階段を上がり、レインの肩に手を置いた。

「下がってください」

「セシル」

「今の我々では、相手になりません」

淡々とした声だった。

だが、握る手には力がこもっていた。

セシルもまた、理解していた。

いま、オルフェリアは本当に何もしていなかった。

敵意すら、見えなかった。

それなのに、結果だけが変わった。

フィアが観覧席を見上げ、顔を引きつらせる。

「なにそれ……ニルより、ずっと嫌なんだけど」

「失礼ですわね」

オルフェリアは心外そうに言う。

「ニルは、とてもよく頑張りましたわ」

その言葉に、闘技場の中央で膝をついていたニルが、びくりと肩を震わせた。

「……姉さま」

声が小さい。

怒られると思っている声だった。

オルフェリアは、ゆっくりとニルへ視線を向ける。

その目つきが、ほんの少しだけ柔らかくなった。

「成長しましたわね、ニル」

「……え」

ニルが顔を上げる。

オルフェリアは微笑んでいた。

いつもの、相手を追い詰めるための笑みではなかった。

もっと静かで。

もっと近くて。

ニルだけに向けられたもの。

「力の扱いが、ずっと上手くなりました」

「……姉さま」

「以前のあなたなら、≪影向偏理≫をああまで、発現できなかったでしょう。まして、見事な制御と持続でしたわ」

ニルの唇が震える。

「でも、私……」

「ええ」

オルフェリアは頷く。

「ニルは、逃げませんでした」

ニルは言葉を失った。

責められると思っていた。

叱られると思っていた。

未熟だと笑われると思っていた。

なのに、違った。

違いすぎて、どう反応すればいいのか分からなかった。

「……怒って、ないんですか」

「怒る理由がありませんもの」

「でも」

「ニル」

オルフェリアの声が、ほんの少しだけ甘くなる。

「よく頑張りました」

その一言で、ニルの表情が完全に迷子になった。

泣きそうで。

嬉しそうで。

困っていて。

けれど、どこか安心している。

「……はい」

小さな声だった。

オルフェリアは、何事もなかったように、レインたちへ向き直る。

「さて」

彼女は、黒い手すりに軽く指を置く。

そこには、さっき自分で裂いた手首の血がまだ残っていた。

けれど、オルフェリア自身の手首には、もう傷はない。

薄い赤い線すら、ほとんど消えていた。

「ご理解いただけたかしら」

「何をだよ」

レインが低く返す。

オルフェリアは微笑む。

「我々の存在を。力の何たるかを。そして、力なき正義がどれほど脆いものかを」

「……」

「そして」

彼女の視線が、ノエルへ向かう。

ラヴィニエに支えられながら、ノエルはぼんやりとこちらを見ていた。

まだ、自分の身体の内側を確かめるような顔をしている。

「守る、ということを」

レインの拳が、もう一度震える。

振っても当たらない。

それが分かったからではない。

悔しいが、オルフェリアの言うことは一理ある。

レインは息を吐き、拳を下ろした。

「……趣味が悪すぎる」

「よく言われますわ」

「直す気は?」

「ありません」

即答だった。

フィアが小さく呻く。

「清々しいくらい最悪……」

オルフェリアは楽しそうに笑った。

「ですが、皆様のことは少し分かりました」

「そりゃどうも」

レインの声は刺々しい。

オルフェリアは気にしない。

「少なくとも、仲間を見捨てる方々ではない。恐怖で逃げる方々でもない。勝てない相手に対して、誰を差し出すか考える方々でもない。とても誠実で優しい方々だということが。」

一拍置く。

「その点は、好ましく思いますわ」

意外な言葉だった。

レインは眉を寄せる。

「……褒めてんのか?」

「ええ」

「全然そう聞こえねえ」

「わたくし、不器用ですの」

「嘘つけ」

オルフェリアは、楽しそうに肩を揺らした。

その横で、イヴェットが静かに口を開く。

「オルフェリア」

「分かっておりますわ」

オルフェリアは、視線を一度だけニルへ落とす。

ニルはまだ立てない。

影も戻っていない。

肩で息をしながら、それでも姉の言葉を待っている。

その姿を見て、オルフェリアの笑みがわずかに変わった。

刺すような笑みではなかった。

ほんの少しだけ、甘い。

「まずは、治療と休息ですわね」

レインは黙った。

フィアも、セシルも、ラヴィニエも、少しだけ警戒を緩める。

オルフェリアは、ゆっくりと階段を降り始めた。

黒いレースが、青火の中で揺れる。

「ご安心なさい」

彼女は、いつもの調子で言った。

「挨拶は終わりました」

そして、レインたちを見渡す。

「ここから先は、本当にお客様として扱いますわ」

レインは睨んだまま返す。

「信用できるか」

「ええ。信用なさらなくて結構です」

オルフェリアは微笑む。

「ただ、今は休みなさい。あなたがたも、ニルも」

最後の一言だけ、少しだけ声が違った。

ニルが、また肩を震わせる。

「……姉さま」

オルフェリアは答えない。

ただ、ほんのわずかに目を細めた。

その表情を見て、ニルはますます困ったような顔をした。

レインはそれを見て、短く息を吐いた。

「……本当に、わけ分かんねえ国だな」

オルフェリアは、楽しげに振り返る。

「わたくしからも、改めて皆様へ」

「ようこそ、ヴェスペラへ」

青白い燭火が揺れた。

砕けた黒曜石の欠片の上で、薄い霜だけが、まだ白く光っていた。


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