EP5夜の公国ヴェスペラ第28話 白と黒
胸の奥で、何かが静かに開いた。
それは、感情ではなかった。
怒りでも、恐怖でもない。
勇気ですらない。
もっと冷たいもの。
もっと古いもの。
ノエルの指先から、震えが消えた。
黒曜石の床に触れていた手が、ゆっくりと開く。
血に濡れた掌の下で、薄い霜が広がった。
「……ノエル?」
レインの声が聞こえた。
遠い。
とても遠い。
ノエルは、答えなかった。
呼吸が整う。
吸って。
吐いて。
吸って。
吐いて。
一定の間隔。
一定の深さ。
まるで、生きていることを確認するためだけの呼吸。
肩の痛みが遠ざかる。
唇に残った血の味も、胸の奥の苦しさも、少しずつ白い膜の向こうへ沈んでいく。
代わりに、視界が澄んだ。
霧の粒が見えた。
舞い上がった黒曜石の欠片が見えた。
影が次の形へ変わる、その直前の揺らぎが見えた。
ノエルの瞳に、白い光が灯る。
最初は、ほんの小さな点だった。
雪の中に落ちた星のような光。
それが瞳孔の奥で広がり、虹彩を薄く染めていく。
青でも、銀でもない。
ただ、温度のない白。
フィアが息を呑んだ。
「……ノエル?」
ノエルの髪が、ふわりと浮いた。
風は吹いていない。
それでも、白い髪は水中に沈む糸のようにゆっくりと揺れた。
その一本一本の隙間から、淡い燐光がこぼれる。
頬。
首筋。
肩。
指先。
ノエルの全身から、細かな光の粒が浮かび上がった。
それは美しかった。
あまりにも静かで。
あまりにも冷たくて。
ラヴィニエが、一瞬だけ止まる。
「……これは」
セシルは剣を構えたまま、言葉を失っていた。
ノエルの表情から、すべてが抜け落ちていた。
痛みも。
怯えも。
迷いも。
さっきまでそこにあった、かすかな幼さすら。
ただ、空白だけが残っている。
白い、静かな空白。
ノエルは立ち上がった。
動きに無駄がなかった。
倒れかけた身体を支えるための揺れも、痛みをかばう仕草もない。
膝が伸びる。
背筋が起きる。
顔が上がる。
それだけ。
あまりにも正確で、あまりにも自然で、だからこそ不自然だった。
「ノエル!…ノエル!」
レインが叫ぶ。
ノエルは振り向かない。
瞳だけが、闘技場の中央へ向けられている。
ニルの影が、そこで蠢いていた。
黒い夜。
白い静寂。
二つの異質なものが、向かい合う。
(なに……?)
(このひと、今)
(本当に、同じ人?)
ノエルの唇が、わずかに動いた。
声は出なかった。
けれど、周囲の霧が止まった。
燭台の青火が、揺れる途中で固まる。
落ちかけていた黒曜石の欠片が、空中でほんの一拍だけ遅れる。
ニルの影の先端が、形を変える直前で白く縁取られる。
ノエルの瞳の光が、強くなる。
白い燐光が、雪のように舞った。
その光に触れた霧が、音もなく沈む。
レインは、無意識に一歩下がっていた。
寒い。
冷気、ではない。
皮膚が冷えるのではない、寒さ。
ラヴィニエが、静かに呟いた。
「……ノエルさん、では、ありますね…」
誰も返事をしなかった。
ラヴィニエは、続ける。
「けれど、今のあれは」
ノエルが右手を眼前に翳す。
白い燐光が、指先へ集まる。
その姿は、祈っているようにも見えた。
命令しているようにも見えた。
何かを測定しているようにも見えた。
ニルの影が、反射的に跳ね上がる。
十本の黒槍が、ノエルへ向かった。
ノエルは避けない。
表情も変えない。
ただ、白い瞳でそれを見た。
一歩、前へ出る。
その瞬間、影槍の先端が白く縁取られた。
完全に止まったわけではない。
だが、先端だけが遅れた。
柄の方が先へ行こうとして歪み、影の形が崩れる。
「――っ!?」
ニルの目が見開かれる。
ノエルは、その歪んだ槍の隙間を通った。
速くない。
むしろ、ゆっくりだった。
なのに、影の方が間に合わない。
黒い槍が、彼女の背後で遅れて床を穿つ。
一歩。
また一歩。
白い光をまとった少女が、夜の中心へ歩いていく。
レインは、かすれた声で呟いた。
「……あれは」
その先が、言葉にならなかった。
ノエルの形はしていた。
けれど、その瞳の奥には何も映していないように、思えた。
ノエルは、黒槍の隙間を歩いた。
黒い槍が床を穿つ。
鋭い影刃が、横からノエルを狙う。
足元の影が、獣の顎のように開く。
そのどれもが、ノエルに届く直前で、わずかに遅れた。
ほんの数拍。
けれど、その数拍が致命的だった。
ノエルは槍の横を通る。
刃の下をくぐる。
動きは、滑らかではない。
むしろ、ひどく単純だった。
黒い槍や刃が、遅れる。
ノエルの肌をかすめて、あたりを穿つ。
ノエルの体のあちこちを傷をつける。いずれも致命傷には至らない。
至ることができない。
ノエルはかまわず前へでる。
半歩、右へ。
肩を落とす。
手を伸ばす。
それだけ。
けれど、影の方が間に合わない。
「……っ」
ニルが息を呑んだ。
(近い)
(もう、近い)
(なんで)
ニルの右手が跳ね上がる。
影が床から立ち上がり、ノエルとの間に黒い壁を作る。
だが、壁が閉じる直前。
その縁が白く滲んだ。
影の動きが、鈍る。
ノエルの身体は、できかけの影壁の隙間へ入っていた。
ニルの赤い瞳が揺れる。
「逸れ―」
ノエルの右手が、伸びた。
細い指。
血のついた掌。
白い燐光をまとった、小さな手。
それが、ニルの胸元に触れた。
叩いた、というには軽すぎた。
ただ、置いたような一撃。
けれど次の瞬間、ニルの身体が後ろへ弾かれた。
「っ……!」
胸の奥で、空気が詰まる。
痛みより先に、驚きが来た。
(当たった)
(今)
(私に)
ニルの足が床を削る。
影が自動で動いた。
周囲の力が、夜の帳に沿って滑る。
ノエルの手を逸らそうと、流れがうねる。
だが、遅い。
ほんの少しだけ。だが、致命的に。
ノエルはもう、次の位置にいた。
ニルの左脇へ。
白い髪が、ふわりと揺れる。
「――!」
ニルが影をまとわせた腕で防ごうとする。
黒い袖の内側から、影が噴き出す。
肋を守るように広がる。
その影の輪郭が、また白く縁取られた。
数拍、遅れる。
ノエルの肘が、影の内側へ滑り込んだ。
鈍い音。
「か、はっ……!」
ニルの身体が折れる。
肺から、声にならない息が漏れた。
闘技場の空気が明らかに変わった。
レインは、剣を握ったまま動けなかった。
「……ノエル?」
その声は、ノエルに届かない。
フィアが唇を震わせる。
「当ててる……」
セシルは、目を逸らさなかった。
ラヴィニエは静かに祈りの鎖を握りしめていた。
ノエルは、白い瞳のままニルを見ている。
観覧席で、誰かが立ち上がる気配がした。
ノアの軽い声は、もうない。
ウルティマも黙っている。
イヴェットの目が、細くなる。
オルフェリアの笑みが、わずかに薄くなっていた。
ノエルは止まらない。
右手。
肘。
次は膝。
ニルの肩口へ、白い燐光をまとった膝が沈む。
ニルは歯を食いしばった。
「……っ」
影向偏理が、働いていないわけではない。
確かにノエルを避けようとしている。
だが、そのたびに白い何かが挟まる。
逃げる向きが、数拍だけ鈍る。
逸れるはずの力が、遅れる。
触れられるはずの手が、届いてしまう。
夜の帳の端を、白い手でこじ開ける―
(わかんない、わけわかんない―私の…影向偏理が)
ニルの背筋に、冷たいものが走った。
ノエルの瞳は、やはり何も映していないように見えた。
怒りもない。
迷いもない。
熱もない。
ただ、必要な場所へ、必要なだけ身体を動かしている。
ニルは、それに恐怖を感じる。
「ニル!」
観覧席から、シアンの声が飛ぶ。
ニルは反応しない。
できない。
ノエルが、さらに踏み込む。
足元に白い霜が散る。
黒曜石の床に、薄い円が広がる。
ニルの右足が、半拍だけ床に縫い止められた。
「――しまっ」
ノエルの掌が、ニルの喉元へ伸びる。
それは打撃ではない。
だが――触れられれば
――終わる。
なぜか、ニルはそう感じた。
(だめ)
ニルは初めて、明確に恐怖を抱いた。
黒い翼が背後から跳ね上がる。
自身を包むように、影が集まる。
ノエルの指先が、黒い翼の表面に触れた。
その瞬間、翼の一部が白く凍りついたように止まる。
完全ではない。
一瞬だけ。
だが、その一瞬で、ニルの守りに穴が開いた。
ノエルの左手が、その穴を通る。
「っ……あぁあ!」
ニルが叫んだ。固定された足を無理やり床材ごと切り出して、大きく後退した。
ニルは胸を押さえた。
呼吸が乱れている。
痛みはある。
だが、それ以上に、理解が追いつかなかった。
(私に…届いた)
ニルの指先が震える。
「…ニル!」
オルフェリアのがニルを呼ぶ、その声に、少し硬さが混じっている。
(―…姉さまっ、私は…ニル=エルミラージュは!)
オルフェリアの声を聴き、その震えを、彼女は自分で握り潰した。
体制を立て直す。
「……ごめんなさい」
(姉さまの期待を!裏切ることはありません!)
声が、低く落ちる。
「…本当に、痛いと思います」
ニルの足元で、影が沈んだ。
逃げるためではない。
守るためでもない。
集めるために。
闘技場の影という影が、彼女の足元へ吸い寄せられていく。
黒い一点が生まれる。
夜が、息を止めた。
すべての影が、黒い一点へ畳まれていく。
ノエルは、それを見ていた。
白い燐光をまとったまま。
凍ったような瞳のまま。
無表情の少女が、一歩前へ出る。
その足元で、薄い霜が広がった。
黒い一点の縁が、白く滲む。
ニルの影が、ほんのわずかに鈍った。
「……っ」
ニルの眉が歪む。
(止めさせない!)
(これだけは)
(これを止められたら)
(私が、負ける)
ニルは両手を胸の前で握りしめた。
影がさらに集まる。
黒い一点の中で、闇がつぼみを形成していく。
一枚。
闇が沈む。
二枚。
三枚。
燭台の青火が、細く震える。
四枚。
黒曜石の床に、亀裂が走る。
五枚。
レインの頬を、冷たい汗が伝った。
六枚。
七枚目。
花弁が、閉じた。
ニルは、泣きそうな顔で告げる。
「……おわらせます」
それは、敵に向けた言葉だったのか。
自分に向けた言葉だったのか。
あるいは、姉に向けたものだったのか。
誰にも分からなかった。
「どうか、死なないで」
ノエルが、手を伸ばす。
白い燐光が、指先に集まる。
黒い一点の縁が、また白く滲んだ。
止めようとしている。
いや、止めている。
「ノエル!」
レインが叫んだ。
身体が先に動いていた。
考えるより早く、雷が脚に走る。
ノエルの前に飛び込もうとする。
だが、遠い。
ニルの赤い瞳が、静かに細まる。
「咲いて――《サロメの七花》」
黒い一点が、開いた。
花が咲くように。
ヴェールが剥がれるように。
閉じ込められていた闇が、一気に、外へほどけるように開こうとする。
――黒い花が、白く縁どられていく。
漏れ出た衝撃が、空気を潰し床を砕く。
セシルも動いていた。
「白盾、全開!」
光壁が幾重にも展開される。
だが、黒い衝撃はそれを紙のように歪ませる。
闘技場の中心から、黒い衝撃が――
――爆ぜなかった。
フィアが両手を突き出す。
「風よ、押し返せ!」
風が渦を巻く。
けれど、黒い衝撃が風ごと叩き潰す。
ラヴィニエがモーニングスターを床へ打ちつけた。
「祈りよ、此方を閉ざせ!」
白い祈りの膜がノエルへ伸びる。
ノエルだけが、黒い花の前に立っていた。
白い瞳が、開いたまま揺れない。
彼女は逃げなかった。
両手を前に出していた。白い燐光が、掌に集っている。
黒い夜と、白い静寂。
その瞬間、白と黒は完全に拮抗していた。
――音が消えた。
黒い衝撃の中に、白い亀裂が走った。
ノエルの唇が、わずかに動く。
声は聞こえない。
二つの理が、真正面から噛み合った。
闘技場全体が軋む。
ニルの表情が歪んだ。
(止めるの)
(それを)
(本当に)
(止めるの)
ノエルの肩から血が落ちる。
鼻からも、細い赤が流れた。
それでも彼女は手を下ろさない。
白い燐光が、掌から腕へ、肩へ、全身へ広がる。
白い髪が浮き上がり、霧のような光が舞う。
黒い花弁が、一枚、砕けた。
二枚目が、割れた。
三枚目が、白く凍る。
観覧席で、オルフェリアが初めて身を乗り出した。
「……っ」
イヴェットの声が低く落ちる。
「止めるの?」
「…いいえ」
オルフェリアの目が細まる。
黒い花弁は、砕けながらも開こうとする。
白い燐光は、それを遅らせながら剥がれていく。
一枚。
また一枚。
拮抗は、長く続かなかった。
ニルが、歯を食いしばる。
「……弾けて!」
黒い花弁が開いた。
圧縮されていた夜が、白い静寂を突き破る。
黒い衝撃が、ノエルを呑んだ。
「ノエル!」
レインの叫びが、今度こそ届いた。
けれど、遅かった。
ノエルの身体が吹き飛ばされる。
同時に、相殺しきれなかった衝撃が全方向へ広がった。
セシルの白盾が砕け、セシルの身体が床を滑っていく
フィアの身体が空中で回る。
ラヴィニエの祈りの膜が破れ、モーニングスターの鎖が跳ねる。
レインは雷を纏ったまま踏みとどまろうとして、壁に叩きつけられる。
黒曜石の床が割れる。
燭台の青火が、いくつも消える。
闘技場に、衝撃の余韻だけが残った。
ノエルは床を転がり、割れた氷膜の上で止まった。
白い髪が広がる。
肩から、身体のあちこちから、血が流れている。
全身を覆っていた燐光は、雪が溶けるように消えていく。
瞳の白い光も、薄れていった。
――
――――
――音が、消えた。
身体が吹き飛ばされた感覚はあった。
骨が軋む感覚も、血が喉へ上がる感覚も、どこか遠くにあった。
けれど、痛くなかった。
寒くもなかった。
怖くもなかった。
そこには、ただ白い場所があった。
床もない。
空もない。
壁もない。
どこまでも白く、どこまでも静かで、何も置かれていない場所。
ノエルは、そこに立っていた。
いや、立っているのかどうかも分からなかった。
足の裏に触れるものはない。
風もない。
自分の重さすら、曖昧だった。
――損傷確認。
声が聞こえた。
誰の声でもなかった。
男でも、女でも、子どもでもない。
冷たく、平坦で、意味だけが落ちてくる声。
――戦闘継続、困難。
――外部脅威、継続。
――優先処理、再構築。
ノエルは瞬きをした。
再構築。
その言葉だけが、白い場所に沈んだ。
胸の奥で、何かがほどけていく。
名前の形をしていたもの。
声の形をしていたもの。
痛いとか、怖いとか、寂しいとか。
そういう余分なものが、白い光の中へ静かに溶けていく。
それは、楽だった。
何も感じなければ、迷わなくていい。
何も覚えていなければ、苦しくない。
誰かを守れないことも。恐怖も。不安も。
全部、白くなればいい。
――――、不安定。
――識別、揺らぎ。
――名称、不要。
不要。
ノエルは、その言葉を聞いた。
名前はいらない。
感情はいらない。
記憶はいらない。
必要なのは、機能だけ。
見える。
測れる。
届かせる。
それだけでいい。
それだけなら、もう怖くない。
白い場所の奥で、ノエルはその心地よさに身を委ねようとした。
ノエルの輪郭が少しずつ薄れていく。
指先が消える。
髪がほどける。
胸の奥にあった小さな震えが、音もなく遠ざかる。
ノエルは、目を閉じ――
その時だった。
――ノエル!
声がした。
白い場所に、ひびが入った。
ノエルっ!
ノエルは顔を上げる。
誰の声か、すぐには分からなかった。
けれど、その声は知っていた。
乱暴で。
まっすぐで。
いつも少し怒っているみたいで。
でも、本当に怒っている時ほど、呼ぶ声が震える。
――ノエル!
また、聞こえた。
白い場所のどこかに、黒曜石の床が見えた。
砕けた燭台。
青い火。
伸ばされた手。
届かなかった手。
レイン。
そう思った瞬間、胸の奥に、小さな痛みが戻った。
痛い。
ノエルは、自分の胸に手を当てた。
痛い。
怖い。
苦しい。
それなのに、少しだけ安心した。
痛いなら、まだ残っている。
怖いなら、まだ自分はここにいる。
――名称、不要。
――感情反応、処理阻害。
――記憶断片、ノイズ。
違う。
ノエルは、初めてそう思った。
声にはならなかった。
けれど、白い場所の中で、たしかに思った。
違う。
ノイズじゃない。
王都の道。
冷たい石畳。
差し出されたパン。
祈りの光。
後ろに下がれと言った声。
髪に触れた小さな手。
呆れたように名前を呼ぶ声。
ノエル。
ノエルさん。
ノエル殿。
ノエル。
何度も、何度も呼ばれた。
呼ばれるたびに、空白の中に小さな印が残った。
自分では作れなかった輪郭を、誰かの声が少しずつ描いてくれた。
だから。
――名称、不要。
違う。
ノエルは、白い場所の中で首を振った。
「……いる」
小さな声が、落ちた。
白い場所が揺れる。
「私は、いる」
指先が戻る。
胸の痛みが戻る。
息苦しさが戻る。
肩の傷が、焼けるように疼く。
白い光の奥で、冷たい声が遠ざかっていく。
――処理、継続不能。
――再接続。
ノエルは、目を開く。
最初からあったわけではないのかもしれない。
誰かに与えられたものかもしれない。
何度も呼ばれるうちに、ようやく自分の形になったものかもしれない。
それでも。
「ノエル」
自分で、自分の名前を呼んだ。
その瞬間、白い場所にひびが走った。
遠くで、誰かが叫んでいる。
誰かが駆け寄ってくる。
誰かの祈りが、傷口に触れようとしている。
戻らなければ。
守るためではなく。
戦うためでもなく。
ただ、呼ばれたから。
呼んでくれる人たちのいる場所へ。
ノエルは、白い光の中へ手を伸ばした。
「……帰る」
白い場所が、砕けた。
――――
――――――――
――――
「……あ」
小さな声。
今度は、ノエルの声だった。
「――――私……」
レインが這うようにして近づいた。
「ノエル!」
ノエルは、ぼんやりと彼を見た。
「レ、イン……?」
声が震えている。
さっきまでの冷たさは、もうない。
「――――
私……何を……」
ラヴィニエがすぐに膝をつき、祈りを重ねる。
「動かないでください。傷が開きます」
ノエルは、自分の手を見た。
指が震えていた。
掌に、血と氷の欠片がついている。
「勝手に……動いた」
ぽつり、と呟く。
「――――私が、私じゃないみたいだった」
レインは答えられなかった。
ただ、拳を握る。
「……後で話す」
それだけ言って、ニルに向き直る。
闘技場の中央では、ニルもまた膝をついていた。
肩が大きく上下している。
息が荒い。
額には汗が滲み、赤い瞳の光も揺らいでいた。
足元の影が、形を保てずに溶けていく。
背中に広がっていた黒い翼も、ほどけるように床へ落ちた。
《影向偏理》が、維持できない。
ニルはそれを自覚していた。
(重い)
(もう、動かない)
(影が、戻らない)
指先が震える。
それでも、彼女はノエルを見ていた。
倒れた白い少女を。
自分の最大出力《サロメの七花》を、真正面から止めようとした異質な存在を。
「……あなた」
掠れた声。
「本当に、何なんですか……」
ノエルは答えない。
答えられるはずもなかった。
ニルは、もう一度立とうとした。
膝が震える。
影が集まらない。
それでも、立とうとした。
「……まだ」
その声は、ほとんど意地だった。
(姉さまが見てる)
(まだ、終われない)
(まだ)
だが、その瞬間。
観覧席から、柔らかな声が落ちた。
「――――双方、そこまで」
オルフェリアだった。
その声は大きくなかった。
けれど、闘技場の隅々まで届いた。
ニルは俯いたまま、荒い呼吸を繰り返していた。
ノエルは、ぼんやりと天井のない夜を見上げる。
星のない空。
黒い夜。
その中で、彼女の掌にはまだ、ほんの少しだけ白い霜が残っていた。
まるで、さっきまでそこにいた“誰か”の名残のように。




