EP5 夜の公国ヴェスペラ 第27話 影向偏理
「……影向偏理、ひらきます」
ニルの声は、小さかった。
けれど、その言葉が落ちた瞬間、闘技場の夜が深くなる。
燭台の青火が、一斉に細く揺れた。
黒曜石の床に映る影が、持ち主よりも先に動いた。
夜と雷が、激突する。
青白い閃光が、黒い床を裂いた。
レインの身体が、霧の中を低く滑る。
正面からではない。
右へ跳ぶ。
左へ流れる。
床を蹴る。
そのたび、雷光だけが遅れて残った。
黒曜石の床に、いくつものレインの影が刻まれる。
「フィア! セシル! ラヴィ! ノエル!」
「分かった!」
「合わせます!」
「ええ」
フィアが両手を広げた。
瞳の奥で、光彩模様が淡く輝く。
「染めよ、麗水の吐息!」
白い霧が、闘技場へ流れ込む。
「満ちよ、光!」
セシルの白盾が、薄く展開された。光を返すための、鏡の壁。
「祈りよ、輝け」
ラヴィニエの祈りが、霧の粒に白い光を宿らせる。
「拡がって」
ノエルの声とともに、足元へ薄い氷膜が走った。
黒曜石の床が、鏡のように濡れる。
青白い燭火。
フィアの霧。
セシルの光壁。
ラヴィニエの祈り。
ノエルの氷。
レインの雷光。
それらが重なった瞬間、闘技場の輪郭が歪んだ。
レインが一人ではなくなる。
右にいる。
左にもいる。
床にも映っている。
霧の奥にもいる。
雷光の残像が、実像と虚像を混ぜた。
ニルが、小さく息を呑む。
(見えない)
(レインさんが、何人もいる)
(右? 左? 下? 後ろ?)
その足元で、影が蠢いた。
ニルの瞳は赤く灯っている。
背中に広がる影は、翼のようにも、黒い帳のようにも見えた。
《影向偏理》。
向かう力を逸らす理。
だが、レインたちはまだ誤解していた。
ニルが見て、判断し、逸らしているのだと。
「ノエル!」
セシルが叫ぶ。
「うん」
ノエルが両手を床へ向ける。
「凍って」
薄い氷膜が、さらに広がった。
黒曜石の床が白く濡れる。
鏡面となった床に、霧と雷と光が乱反射する。
ニルの足元まで、氷が届く。
ニルは、わずかに眉を寄せた。
「……また」
(あの氷、嫌)
霧の奥で、レインの影が動いた。
同時に、反対側の氷面にもレインが映る。
雷光が跳ねる。
どれが本物か分からない。
「今です!」
セシルが踏み込んだ。
光壁を正面へ展開する。
盾であり、鏡でもある白い面。
そこへ、ラヴィニエのモーニングスターが大きく唸った。
鎖の軌道が雷光を引っかけ、霧の中に白い弧を描く。
フィアは火を放つ。
「爆ぜろ!」
火弾が三方向へ散る。
狙いはニルではない。
右。
左。
背後。
足元。
全部が囮。
全部が反射。
全部が錯覚。
本命は、霧の下を這うように回り込んだレインだった。
レインは雷を絞っていた。
音を消し、光を殺し、呼吸を沈める。
足音は、ラヴィニエの鎖の音に紛れる。
身体は、セシルの光壁が返す虚像の中へ消える。
ニルの背後へ。
レインは剣を振り上げなかった。
峰を寝かせる。
首筋の横、意識を刈る位置へ、ただ置くように差し込む。
止める。
それだけだった。
「入った――!」
フィアが叫んだ。
レイン自身も、そう思った。
ニルは見ていない。
振り向いてもいない。
反応も、間に合っていない。
剣の峰は、確かに届くはずだった。
なのに。
レインの剣は、ニルの肩の横を通り過ぎた。
「――な」
目が見開かれる。
剣筋だけではない。
踏み込みの力も。
残った雷も。
肩から押し込む重心すら。
すべてが、ニルの輪郭から滑り落ちた。
当たるはずの力だけが、彼女を避けていく。
レインの身体が霧の中から弾き出された。
黒曜石の床を削り、片膝をついて止まる。
「見えてなかっただろ……!」
低く呻く。
ニルは、ゆっくりと振り向いた。
驚いているのは、レインたちの方だった。
けれど、ニル自身も少しだけ戸惑っているように見えた。
「……見えていなくても」
細い声。
「危ないものは、そらせます」
(そういうものだから)
観覧席で、オルフェリアがくすりと笑った。
「残念ですわね」
その声は、よく通った。
「ニルが見たものだけを逸らすと、お思いになりました?」
誰も答えなかった。
オルフェリアは頬杖をついたまま、楽しそうに続ける。
「この子の《影向偏理》は、認識の芸ではありません。定義された力のベクトルを、触れる前に逸らせますの。剣も、雷も、火も、衝撃も。たとえ、ニル自身が認識していなくても」
レインは歯を食いしばった。
「くっ……ふざけんな……」
ニルの影が、一段濃くなる。
「……ごめんなさい」
(姉さまの前で)
(無様は、晒せません)
次の瞬間、闘技場の床から影が噴き上がった。
黒い奔流。
影は空間のあちこちで丸く凝り、黒点のように震えた。
「……防御体制を!」
セシルの白盾が展開される。
ラヴィニエの祈りの光壁が、その前へ重なる。
フィアが風を叩きつけ、黒点を押し返そうとする。
ノエルが氷で足元を固めた。
だが、数が多すぎた。
上から。
横から。
床の下から。
背後から。
黒点が、闘技場全体に満たされていく。
ニルが、そっと手を下ろした。
「……咲いて」
黒点が、一斉に震える。
「黒花」
瞬間。
音が潰れた。
圧縮された影が、花弁のように開く。
黒い衝撃が、全方位へ爆ぜた。
「――ぐっ!」
「きゃあっ!」
白盾が軋む。
祈りの光壁がひび割れる。
霧が吹き飛ぶ。
氷膜が剥がれる。
レインの身体が床を転がり、セシルが白盾ごと押し込まれる。
フィアは風の防壁を張る間もなく吹き飛ばされた。
ラヴィニエのモーニングスターが床を打ち、火花を散らす。
そして、ノエルの身体が壁際へ叩きつけられた。
「……かっ」
血が、唇からこぼれた。
「ノエル!」
レインが叫ぶ。
ノエルの膝が落ちる。
黒曜石の床に、片手をついた。
その指先から、薄い霜が広がった。
「まだ……」
声は小さかった。
ノエルは、床に手をついていた。
氷が広がっている。
けれど、さっきより遅かった。
手の感覚が薄い。
床の冷たさが、よく分からない。
レインの声が聞こえる。
遠い。
――――ノエルは、落ちていく。
白い場所だった。
壁もない。
床もない。
空もない。
ただ、どこまでも白く、音のない場所。
そこに、声があった。
――調律を開始。
――分岐個体、安定せず。
――記憶領域、空白。
――感情応答、未定義。
それは誰の声でもなかった。
男でも、女でもない。
けれど、その声は世界のずっと奥から響いていた。
白い指があった。
自分のものではない。
誰かのものでもない。
ただ、何かを選別するための指。
何かを整えるための指。
何かを、世界から切り離すための指。
怖いという感覚も、寒いという感覚もなかった。
ただ、白い場所に置かれていた。
――断片
石畳。
王都の路地。
雨上がりの匂い。
濡れた靴。
見知らぬ人々の足音。
誰も、彼女を見なかった。
いや、見てはいた。
けれど、誰も止まらなかった。
白い髪の少女が、ひとりで歩いている。
行き先はない。
目的もない。
自分がどこから来たのかも分からない。
ただ、歩いていた。
鐘の音。
馬車の車輪。
遠くの市場の声。
パンの匂い。
誰かの笑い声。
それらは全部、意味を持っていた。
なのに、ノエルには分からなかった。
お腹が空いているのか。
寒いのか。
寂しいのか。
それすら、よく分からなかった。
ただ、胸の奥に空白があった。
白い場所と同じ色をした、何もない空白。
「おい、お前。そんなところで何してんだ」
ぶっきらぼうな声。
振り向くと、レインがいた。
眉間に皺を寄せて、こちらを見ていた。
怒っているようにも、困っているようにも見えた。
「……分からない」
そう答えた気がする。
レインは、ますます嫌そうな顔をした。
「分からないって何だよ」
そう言いながら、レインは立ち去らなかった。
ラヴィニエが、白いパンを半分に割って差し出していた。
「祈りの前に、まず食べましょう」
「祈りより先でいいの?」
「ええ。空腹は信仰を揺らします」
「そうなの?」
「今、そう決めました」
ノエルはパンを受け取った。
温かかった。
白い場所には、温かいものはなかった。
セシルが、真面目な顔で言った。
「ノエル殿。危険を感じたら、まず下がってください」
「下がる」
「はい」
「どこまで?」
「安全な位置まで」
「安全な位置って、どこ?」
セシルは少しだけ黙った。
それから、困ったように言った。
「……私の後ろです」
その言葉は、なぜか覚えていた。
フィアが、ノエルの髪に小さなリボンを結んでいた。
「ほら、これで少しは女の子っぽくなった」
「私は女の子じゃないの?」
「いや、そういう意味じゃなくて」
「じゃあ、どういう意味?」
「えっと……かわいいって意味」
「かわいい」
「そう。かわいい」
ノエルは、リボンに触れた。
意味は、まだよく分からなかった。
でも、フィアが少し笑ったので、たぶん悪いことではないのだと思った。
夜の焚き火。
レインが文句を言っている。
フィアが言い返している。
ラヴィニエが妙な祈りを捧げている。
セシルが真面目にそれを止めようとしている。
ノエルは、それを見ていた。
騒がしい。
落ち着かない。
効率的ではない。
でも、白い場所より、ずっとよかった。
次の断片。
誰かが名前を呼ぶ。
「ノエル」
レインの声。
「ノエルさん」
ラヴィニエの声。
「ノエル殿」
セシルの声。
「ノエル」
フィアの声。
呼ばれるたびに、空白が少しだけ狭くなる。
何もなかった場所に、輪郭ができる。
名前。
ノエル。
それは、最初からあったものではない。
誰かに与えられたものでもない。
何度も呼ばれて、少しずつ自分のものになった音。
白い場所が、遠ざかる。
ノエルは、床に触れている自分の手を感じた。
血の熱。
氷の冷たさ。
胸の痛み。
誰かが自分を呼ぶ声。
全部、ここにあった。
(私がいなくてもいい)
違う。
(よくない)
胸の奥で、何かが静かに開いた。
それは、ノエルの意思ではなかった。
けれど、ノエルの中にあった。
世界の底で、ずっと動く時を待っていた何か。
それが、目を開ける。
呼吸が整う。
震えていた指が止まる。
痛みに歪んでいた表情が、すっと消える。
ノエルは、ゆっくりと顔を上げた。
その瞳には、さっきまでの怯えも、痛みもなかった。
ただ、白い静けさだけがあった。




