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EP5 夜の公国ヴェスペラ 第26話 ニル=エルミラージュ

転移の感覚は、やはり慣れなかった。

足元が抜ける。

視界が折れる。

内臓だけが一拍遅れて置き去りにされるような、気味の悪い浮遊感。

次の瞬間、レインたちは黒い石床の上に立っていた。

「……っ」

レインは軽く膝を曲げ、すぐに周囲を見た。

食堂ではない。

城の外でもない。

庭園でもない。

そこは、巨大な闘技場だった。

円形に削られた黒曜石の舞台。

周囲を囲む階段状の観覧席。

天井はなく、上には相変わらず星のない夜が広がっている。

だが、不思議なことに暗くはなかった。

闘技場の外周には、青白い炎を灯す燭台が並んでいた。

その光が、黒い石床に反射している。

まるで夜そのものを磨き上げたような場所だった。

「……おい」

レインは、低く言った。

「案内、って言ってなかったか?」

少し離れた場所に、ノアが立っていた。

いつものように笑っている。

だが、その笑みはいつもより少しだけ気まずそうだった。

「案内だよ。エルミラージュ式の」

「ふざけんな」

「ボクに怒らないでよ。ボク、転移しただけだし」

ノアは肩をすくめる。

「まあ、死なないように頑張って」

「おい待て」

言い終わる前に、ノアの姿がふっと霞んだ。

次の瞬間、彼女は観覧席の上にいた。

そこには、すでにオルフェリアが腰かけていた。

黒いレースの衣。

白い指先。

楽しそうに細められた目。

その隣にはイヴェット、少し後ろにウルティマ。

さらに離れて、カレラとシアンも控えている。

カレラは明らかに不機嫌そうだった。

シアンは冷たい目で闘技場を見下ろしている。

ウルティマだけが嬉々とした顔をしていた。

「まあ」

オルフェリアが、唇に指を添えて微笑む。

「ようこそ、皆様。エルミラージュの闘技場へ」

「趣味の悪い歓迎の仕方だな」

レインが吐き捨てる。

「あら。失礼のないよう、きちんと正式な場所をご用意いたしましたのに」

「正式に殴る気ってことだろ」

「殴るだなんて」

オルフェリアは、心外そうに首を傾げた。

「ただのご挨拶ですわ」

その声に合わせるように、闘技場の中央へ、小柄な少女が歩み出た。

ニルだった。

食堂で見た時と同じ、伏せられた目。

小さな体。

頼りなさそうな肩。黒い衣の袖を、指先で小さく握っている。

けれど、彼女の足元には、すでに影が集まっていた。

黒い石床に落ちるはずのない影が、粘つく液体のように広がっている。

「……ごめんなさい」

ニルは、最初にそう言った。

本当に申し訳なさそうな声だった。

「できれば、私もこういうのは嫌なんですけど」

(でも、姉さまが見ている。姉さまが見ている。絶対手は抜けない…)

「ならやめろ」

レインが即答する。

「……それは、できません」

「なんでだよ」

ニルは目を伏せたまま、小さく息を吸った。

セシルが静かに前へ出る。

「ニル殿。これは試合ですか。それとも、処刑ですか」

「……試合、です」

「ならば、こちらに敵意はありません」

セシルは剣を抜かなかった。

右手は柄に添えているが、まだ鞘の内にある。

「まずは対話を求めます」

観覧席から、オルフェリアがくすりと笑った。

「あら。お行儀がよろしいこと」

「当然です」

セシルは視線だけを上げる。

「我々は、少し煽られた程度で人を斬る集団ではありません」

「ええ、存じておりますわ」

オルフェリアは楽しげに頬杖をついた。

「ですから、どこまで追い込めば剣を抜くのか、楽しみですの」

その一言で、空気が冷えた。


その言葉が終わった瞬間。

闘技場の床から、黒い槍が生えた。

「――っ!」

レインは反射で横へ跳んだ。

一拍遅れて、さっきまで立っていた場所を影の槍が貫く。

石床が砕け、黒曜石の破片が宙へ散った。

一本ではない。

二本、三本、十本。

闘技場全体から、影の槍が牙のように突き出した。

「散開!」

セシルの声が飛ぶ。

レインは槍を躱しつつ、ただし、剣は抜かない。

身体の周囲に、ごく薄く雷が走った。

雷纏。

「レイン?」

フィアが驚いたように見る。

「殺る気はねえ」

レインは短く言った。

「まず止める」

ラヴィニエが小さく微笑む。

セシルが頷く。

「防御と制圧で合わせます。フィア殿、広域攻撃は抑えてください」

「分かってる。足止め中心で行く」

ノエルも静かに手を下げた。

「凍らせる。壊さないように」

闘技場の中央で、ニルの影が広がる。

銀の軌跡が走り、迫る影槍を横から叩き落とす。

だが、折れた槍はすぐに床へ溶け、別の角度から再び立ち上がった。

「来た!」

フィアが両手を振る。

「風よ、払え!」

風が床を走り、影の槍を横から弾き、砕く。

ラヴィはモーニングスターを手にしていた。

長い鎖の先で、棘付きの鉄球が重く揺れる。

「祈りなさい」

その身体のどこにそんな力があるのか、悠々と影を砕いていく。

「今!」

青白い雷が脚に巻きつき、筋肉を無理やり叩き起こす。

床を蹴った瞬間、レインの身体が一直線に跳んだ。

狙いはニル。当身を入れ、術式の発動姿勢を崩す。

そのまま手首を取って、雷で一瞬だけ痺れさせる。

それで止まる。

小柄な少女は動かない。

伏せた目のまま、ただ右手をわずかに上げた。

「……逸れて」

小さな声だった。

その瞬間、レインの踏み込みが曲がった。

「なっ――」

確かに、まっすぐ踏み込んだはずだった。

雷の速度で距離を詰め、当身をくらわす。その軌道に迷いはなかった。

確かに前へ出した力だけが、横へ逃げた。

拳はニルに届かず、彼女の肩の横を通過する。

まるで空間そのものに手首を引かれたように。

レインは即座に床を蹴り直した。

だが、次の瞬間、右腕にまとわせていた微弱な雷が、ばちりと弾けて床へ流れた。

「っ!?」

雷が外された。

防がれたのではない。

逸らされた。

電撃の流れそのものが、ニルから離れる方向へ向きを変えられた。

レインは着地しながら距離を取る。

「今の、何だ」

ニルは少し困ったように首をすくめた。

「……向きを、変えました」

フィアが眉を寄せる。

「魔力の誘導?」

「そう…とも見えますが…わかりません」

セシルが短く否定した。

「今のは、攻撃の性質ではなく、力そのものが曲げられたように感じました。踏み込みも、拳も、雷の流れも、別々に」

ラヴィニエの表情から、笑みが消えた。

「……なるほど。だとするとこれは…ずいぶんと人の領分をはずれていますね」

レインはニルを見る。

「…お前ら、いったいなんなんだ!」

ニルは、目を伏せる。

「……すみません」


観覧席から、オルフェリアの声が降る。

「ニル」

その声は、柔らかかった。

柔らかく、冷たい。

「ずいぶん優しい挨拶ですこと」

ニルの表情が固まる。

「……姉さま」

「手を抜くなら、わたくしが直々に試しますわ」

闘技場の温度が、さらに数段低くなった。

オルフェリアは、白い指を自分の左手首に添えた。

次の瞬間。

す、と赤い線が走った。

深い傷だった。

白い肌が裂け、血が吹き出す。

観覧席の黒い手すりに、赤が落ちた。

「オルフェリア様」

カレラが低く言う。

だが、オルフェリアは笑ったままだった。

「ご安心なさい。夜は、この程度では終わりませんもの」

裂けた手首の傷が、音もなく塞がっていく。

肉が寄り、皮膚が繋がり、血が引く。

異常だった。

治癒ではない。

回復ですらない。

“傷が癒える”という過程だけを無理やりすっ飛ばしたような、不自然な修復。

フィアが息を呑む。

「なに、今の……」

セシルも言葉を失っていた。

オルフェリアが満足げに微笑む。

「ええ。傷は塞がります。骨も繋がります。血も戻ります。少なくとも、この夜の中では」

そして、彼女はレインたちを見下ろした。

「ですから、遠慮は不要ですわ」

「……ふざけんな」

レインの声が低くなる。

「治るから本気で殺し合えって?」

「殺し合いではありません」

オルフェリアは優雅に首を傾げた。

「挨拶です」

「言葉を変えれば何でも許されると思ってんのか」

「許しなど求めておりませんわ」

オルフェリアの笑みが、薄くなる。

「この国に留まるなら、夜の理に触れなさい。触れられないなら、辞しなさい。触れて壊れるなら――」

一拍。

「その程度だった、ということですわ」

ニルは唇を噛んでいた。

(やっぱり、こうなる。すべて姉さまの掌の上…)

レインはゆっくり息を吐いた。

剣には、まだ手をかけない。

だが、顔つきが変わる。

「セシル」

「分かっています」

セシルも剣の柄に手を添えた。

「無力化、から方針を修正します。本気で止める」

ラヴィニエがモーニングスターを手に取る。

「こちらも死なないために、正確に力を使いましょう」

フィアが両手に火と風を宿した。

「……つまり、遠慮なしでいくってこと?」

「概ねそうです」

セシルが答える。

ノエルの足元に、水が静かに広がる。

「難しい」

「でも、やるしかねえ」

レインがようやく剣に手をかけた。

まだ抜かない。

けれど、いつでも抜ける。

「姉さまのせいです……!」

ニルが小さく叫ぶ。

その声だけは、普通の妹の抗議みたいだった。

だが、術式はまったく普通ではない。影の槍が迫る。

「フィア!」

レインが叫ぶ。

「うん!」

フィアが両手を広げた。

「飛べ――火燕!」

赤い火の鳥が三羽、闘技場を滑るように飛ぶ。

影の槍を焼き払いながら、ニルへ向かう。

ニルは逃げない。

左手を軽く払う。

「流れて」

火燕の軌道が、突然変わった。

ニルを避けるように大きく弧を描き、そのまま観覧席の壁へ激突する。

爆炎が上がる。

「うそでしょ!?」

フィアの顔が引きつった。

「火まで逸らすの!?」

影が、ニルの足元で形を変える。

レインが雷を脚に纏い、横へ跳ぶ。

フィアは土壁を立てた。

影槍が壁を貫くが、その勢いが鈍る。

ラヴィニエのモーニングスターが唸り、槍の群れを横から砕く。

ノエルは床に手を触れた。

「止まって」

水が走る。

次の瞬間、影槍の根元が白く凍った。

いや、凍ったように見えた。

黒い槍の動きが、止まる。

その一瞬だけ、“伸びる”という動きそのものを忘れたかのように。

ニルの目が揺れる。

(……なに、今の)

彼女は初めて、ノエルをまともに見た。

「……それ、氷ですか?」

「たぶん」

ノエルは首を傾げる。

「たぶんで、止めないでください……」

ニルの声には、困惑と警戒が混じっていた。

セシルがその隙を逃さない。

今度は剣を抜いた。

ただし、刃を返す。

斬るためではなく、打つため。

「真正面からの単発は無意味です!」

言いながら、セシルは前に出た。

剣を低く構え、光の障壁を足元へ展開する。

盾ではない。

踏み台。

光の板を斜めに作り、自らの進行方向を変えながらニルへ迫る。

「剣技で崩します!」

セシルの踏み込みは速かった。

レインの雷ほどではない。

だが、無駄がない。

一歩目で距離を詰め、二歩目で角度を変え、三歩目で斬撃を放つ。

ニルの右手が動く。

「逸れて」

剣筋が曲がる。

だが、セシルはそれを読んでいた。

逸らされた力に逆らわない。

むしろ、その流れに乗って身体を回転させる。

斬撃が空を切る。

しかし、その回転の先に二撃目があった。

「はあっ!」

刃がニルの肩口へ迫る。

初めて、ニルが目を上げた。

「……集まって」

闘技場の床に散っていた影が、一点へ集束した。

黒い球が生まれる。

小さい。拳ほどの黒球。

だが、そこへセシルの斬撃が触れた瞬間、剣が吸い込まれた。

「っ!」

剣の力が奪われる。

止められたのではない。

弾かれたのでもない。

斬撃という運動の向きが、黒球へ集められている。

セシルの腕が前方へ持っていかれた。

体勢が崩れる。

「セシル!」

レインが飛び込む。

雷纏を強め、拳ではなく鞘で黒球を叩く。

黒球に触れた瞬間、鞘ごと腕が横へ持っていかれた。

「ぐっ……!」

「触らないでください!」

ニルが小さく叫んだ。

次の瞬間、黒球が弾けた。

衝撃が広がる。

セシルとレインが同時に吹き飛ばされた。

だが、ラヴィニエの白い障壁が背後に展開する。

二人の身体を受け止め、衝撃を殺した。

「光の天秤。測る命に、底を与えよ」

レインは歯を食いしばる。

「助かった」

「礼は後で。今は前を!」

ニルの影が次の形を取る。

黒い刃が、空中に浮かんだ。

数は二十を超える。

フィアが顔を引きつらせる。

「ちょっと、多くない!?」

「姉さまが見てるので……!」

ニルは半泣きで言った。

影刃が一斉に放たれる。

セシルが白盾を展開する。

ラヴィニエが祈りの光壁を重ねる。

フィアが風で弾く。

ノエルが水を走らせ、刃の速度を鈍らせる。

それでも、数本が軌道を変えて防御の隙間を抜けてくる。

「また曲がった!」

フィアが叫ぶ。

レインが前へ出た。

雷纏。

今度は低出力ではない。

全身の筋肉が雷に打たれ、視界が青白く染まる。

「らあっ!」

刃の一本を剣で弾く。

もう一本を肩でかわす。

三本目は雷で軌道をずらす。

だが、四本目が不自然に曲がり、レインの脇腹へ迫った。

「――白盾!」

セシルの光壁が割り込む。

影刃が光壁に刺さる。

しかし、その刃先が壁の表面を滑り、横へ流れた。

セシルが歯を食いしばる。

観覧席で、オルフェリアが満足げに笑う。

「姉さま……」

ニルは泣きそうな声で呟く。

ラヴィニエが前へ出る。

「ならば、理解できる形まで砕きましょう」

モーニングスターが唸る。

重い鉄球が床を抉りながら、ニルへ迫る。

ニルは右手を上げる。

「逸れて」

鉄球の軌道が横へ流れる。

だが、ラヴィニエはむしろ踏み込む。力づくで引き戻す

鎖が白く輝く。

逸らされた鉄球が、空中で急停止した。

そして、ありえない角度で跳ね返る。

「っ……!」

ニルが初めて、大きく後ろへ退いた。

鉄球がすぐ横をかすめ、床に叩きつけられる。

黒曜石が爆ぜ、破片が散った。

(このひと、神官じゃないの?)

「……なら!」

再び影が沈む。

今度は、闘技場全体の床へ薄く広がった。

セシルがすぐに気づく。

「足元に来ます!」

「ノエル!」

「うん」

ノエルが両手を下げる。

水が床を走った。

黒い石の上に、透明な水脈が一瞬で広がる。

その水が影と重なり、白く凍る。

だが、凍ったのは表面だけだった。

影は氷の下で流れを変える。

右へ。

左へ。

上へ。

あらゆる方向から、力の向きがレインたちの足元をすくいにくる。

「うわっ!」

フィアが体勢を崩す。

セシルが彼女を支えた。

「これは、地形そのものを――」

レインは床を蹴ろうとして、足が空振りするような感覚に襲われた。

踏み込む力が床へ伝わらない。

足を前へ出したはずなのに、身体は斜め後ろへ流される。

「くそっ、気持ち悪ぃ!」

「レイン、無理に踏まないでください!」

セシルが叫ぶ。

「足場そのものが信用できません!」

「だったら――」

レインは床を蹴るのをやめた。

雷を脚ではなく、全身へ回す。

筋肉の収縮を雷で補正する。

踏み込みではなく、爆ぜるように移動する。

「床が駄目なら、飛ぶ!」

雷が爆ぜた。

レインの身体が低く跳ぶ。

ニルの視線が動く。

「……来ないで」

レインの進路が逸れる。

だが、そこにフィアが強風を起こす。

「レイン!」

風がレインの背を叩く。

「…ぐぅ!」

逸らされた軌道を、さらに別の力で押し戻す。

ニルの目が見開かれる。

(無理やり戻した!そんな雑なやり方、ある?)

レインは叫びながら接近する。

今度は剣を抜いた。

ただし、刃は寝かせている。

狙いは胴。

動きを止めるための一撃。

「セシル!」

「合わせます!」

セシルが白盾を斜めに展開する。

レインはそれを蹴って角度を変える。

ニルが右手を上げる。

「逸れて!」

レインの身体が横へ流れる。

だが、その先にはラヴィニエがいた。モーニングスターの柄を構えて。

レインを柄で受け止める。

力任せかつ、正確な誘導。

「行きなさい」

「おう!」

レインが柄を蹴り加速する。

さらにノエルの氷がニルの足場固める。

「らあああっ!」

雷が闘技場を裂く。

ニルの首へ、剣の峰が迫る。

届く。

そう思った瞬間。

ニルの瞳が赤く灯った。

「……偏向」

小さな声。

けれど、その瞬間、世界の感触が変わった。

レインの剣が止まった。

逸れたのではない。

弾かれたのでもない。

止まった。

いや、正確には違う。

振り下ろす力。

雷の加速。

腕の重さ。

呼吸の勢い。

そのすべてが、ばらばらの方向へ逃げた。

「――っ!?」

身体が動かない。

動こうとしているのに、動きが意味を持たない。

拳を握る力は外へ流れ、足を踏む力は上へ抜け、心臓の鼓動すら奇妙に跳ねる。

「レイン!」

セシルが叫ぶ。

ニルは震える手を上げた。

「……ごめんなさい」

レインの身体が、空中へ持ち上がる。

見えない手に首根っこを掴まれたように。

そして、闘技場の床へ向けて、一直線に叩き落とされた。

轟音。

黒曜石の床が陥没する。

「レイン!」

フィアの悲鳴が響く。

粉塵が舞う。

その中心で、レインは血を吐きながら、それでも剣を握っていた。

膝が震える。

視界が赤い。

だが、立つ。

起き上がらなければ、次で死ぬ。

「……今の」

セシルの声が低く震えていた。

ラヴィニエの目は、ニルを見ていた。


観覧席から、オルフェリアが拍手した。

小さく、優雅な拍手。

「ええ。よろしいですわ、ニル」

言葉を続ける。

「…少し、解説をして差し上げます。この子は、影を使いますが、それが力の本質ではありません。ニルの力の実際は“向き”を扱う。攻撃の向き。衝撃の向き。流れの向き。力そのものの方向性を操作するのです」

「そんなの、ありなの……?」

フィアの声は、明らかに揺れていた。

ニルは目を伏せる。

「……私にも、よく分かりません」


オルフェリアは笑う。

「ようやく、挨拶らしくなってまいりました」


レインは血を拭った。

「…ごほっ……おい、ニル」

「……はい」

「お前、本当に嫌々…やってんだよな」

「…はい」

「殺す気はないんだよな」

「はい」

黒い影が、彼女の足元で槍の形を取る。

その数は、先ほどより多い。

「…でも」

ニルの声が、ほんの少しだけ震えた。

「…死なない保証は、できません」

レインは笑った。

口の端から血が流れる。

「…上等だ」

セシルが隣に立つ。

額から血が伝っていたが、姿勢は崩れていない。

「レイン。無策に突っ込めば、次は本当に死にますよ」

「分かってる」

ラヴィニエがモーニングスターを肩に担ぐ。

「傷は後でまとめて治します。今は、死なない程度に耐えてください」

「回復役の言葉じゃねえな」

フィアの光彩模様が輝き始める。

「……あれ、どうするの。攻撃を曲げる、逸らす、集める、分解する。ずるくない?」

ノエルが静かに答えた。

「流れを、止めればいい」

「簡単に言うね」

ノエルは、ニルを見た。

「でも、少し分かった」

ニルも、ノエルを見返す。

その目に、明らかな警戒が宿る。

(あの子の氷、嫌。氷?じゃない?。たぶん、もっと別の…。流れが止まる。私の力が、止められる)

「……あなたの氷、嫌です」

「そう」

ノエルは頷いた。

「じゃあ、もっと使う」


五人が再び構える。

闘技場の空気が変わった。

ニルもそれを感じ取ったのか、表情を引き締めた。

「……来るんですね」

「ああ」

レインが笑う。

「挨拶なんだろ? なら、こっちからも返してやるよ」

ニルは、少しだけ困ったように眉を下げた。

「……そういうの、嫌いじゃないです」

(なんだろ…少し、楽しい…?私…高揚してる?)

そして、彼女は初めて、両目をはっきりと開いた。

赤い瞳。

気弱な少女の奥に、夜の色が灯る。


「では、ここからが本当のご挨拶です」

黒い石床が軋む。

燭台の青火が、一斉に揺れる。

空のない夜が、闘技場の上へ垂れ下がる。

ニルは、両手を下ろした。

そして、静かに告げる。

「――影向偏理、…開きます」

影が、形を失った。

力の向きそのものが、夜に染まる。

レインたちは、息を呑んだ。

世界の力の流れに、直接指をかける術。

ニル=エルミラージュ。

気弱で、臆病で、姉に振り回されてばかりの少女。

影が、彼女の背後で翼のように広がった。

「……本当に、死なないでくださいね」

レインは歯を食いしばる。

「そっちこそ、泣くなよ」

次の瞬間。

夜と雷が、激突した。


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