EP5 夜の公国ヴェスペラ 第25話 挨拶
朝食は、拍子抜けするほど穏やかだった。
黒い石造りの食堂。
赤紫の硝子灯。
磨き込まれた長卓。
窓は少ないのに、暗さはない。
夜の公国という名に反して、卓上には妙に華やかな料理が並んでいた。
香草を練り込んだ白いパン。
薄く切られた燻製肉。
赤い果実のソース。
黒陶の皿に盛られた焼き野菜。
銀の器に注がれた、濃い葡萄色の飲み物。
どれも見た目は美しい。
香りも悪くない。
少なくとも、皿の上から敵意は感じない。
レインは、しばらく黙って皿を見ていた。
「……普通にうまそうだな」
向かい側で、ノアが笑った。
「なに? 毒でも入ってそうって思ってた?」
フィアがパンをちぎりながら、半眼で言う。
「お前は警戒しねえのか」
「してるよ。警戒しながら食べてる」
「食うのかよ」
「だって、おいしいから」
フィアはそう言って、白いパンに赤い果実のソースを塗った。
ためらいなく口に運び、少しだけ目を細める。
「……うん。悔しいけど、おいしい」
「悔しがる必要あるか?」
「ある。なんか負けた気がする」
「飯に勝ち負け持ち込むな」
その横で、セシルは姿勢よく食事を進めていた。
背筋は伸びている。
皿の位置も、器の扱いも乱れがない。
ただ、視線だけは時折、料理の並びや給仕の動きを確認している。
「客人として遇されている以上、こちらも礼を失するべきではありません」
「そう言いながら、あたりをめちゃくちゃ警戒してるじゃねえか」
「私の定めた規約です」
「飯に規約をもちこむな」
ラヴィニエは、燻製肉を一切れ口に運び、静かに目を細めた。
「味が濃いですね。祈りより先に塩分が届きます」
「届かせるな」
「美味しい、という意味です」
「絶対違うだろ」
「では、美味しく罪深い味です」
「…料理に信仰を持ち込むな」
ノエルは無言でスープを飲んでいた。
顔は変わらない。
けれど、二口目を飲んだ。
さらに、三口目も飲んだ。
つまり、たぶん気に入っている。
「ノエル、うまいか?」
「…味わう、ゆえに私あり」
「…お前は、哲学か?
…まともな食レポが一件もねぇ…」
レインは小さく息を吐いた。
昨日から、まともに落ち着く暇がなかった。
セリネを運び、ヴェスペラに入り、イヴェットの《回帰》を目の当たりにし、血王アルヴァロスに謁見した。
すべてが濃すぎる。
ひとつひとつ整理する前に、次の異常が目の前へ置かれる。
それでも、こうして朝食を食べていると、一瞬だけ普通の旅の途中みたいに思えた。
知らない国に来た。
珍しい料理を食べている。
少し変わった連中に囲まれている。
ただ、それだけのことのように。
たぶん、それが間違いだった。
食卓には、ヴェスペラ側の面々もいた。
ノアとシアン。
カレラとテオドーラ。
イヴェットとウルティマ。
そして、少し離れた席に、黒いレースのような衣をまとった女と、その後ろに控える小柄な少女。
オルフェリア=エルミラージュ。
ニル=エルミラージュ。
昨夜、名前だけは聞いていた。
四夜公家の一角。
エルミラージュ家の当主と、その妹。
オルフェリアは、ただ座っているだけで目立った。
皿を取る手つき。
飲み物を口へ運ぶ角度。
笑みの浮かべ方。
一つ一つが、作法というより演技に近い。
隙がない。
美しい。
そして、どうにも嫌な感じがする。
レインは、あの女が苦手だった。
笑っている。
しかし、楽しそうなのか、馬鹿にしているのか分からない。
歓迎しているというより、綺麗な箱に入れた虫を、角度を変えながら眺めているような目だった。
「お口に合いまして?」
オルフェリアが微笑む。
レインは、少しだけ間を置いた。
「……ああ。うまい」
「それはようございましたわ」
オルフェリアは満足げに目を細める。
「外の方々は、もう少し粗い味に慣れていらっしゃるのかと思っておりましたけれど」
レインの眉が動いた。
「今の、喧嘩売ってるか?」
「あら。褒めたつもりですのに」
「どこがだ」
「異なる環境で育った方が、異なる味を楽しめる。素晴らしいことではありませんか」
「言い方がいちいち刺さるんだよ」
「刺さる?」
オルフェリアは、わざとらしく首を傾げた。
「まあ。外の方は繊細でいらっしゃるのね」
「…」
「レイン」
セシルが低く制止する。
ノアは横で笑いをこらえていた。
ウルティマは目を輝かせている。
「いいですねぇ! 外界少年と夜貴族の文化摩擦! 粗野と優雅! 反発から始まる関係性! ただしイヴェット様が一番です!」
「最後の一文が意味不明…」
イヴェットが短く言った。
ニルは、オルフェリアの後ろで小さくなっていた。
食事にもほとんど手をつけていない。
両手を膝の上に重ね、視線は下げたまま。
いかにも気弱そうで、誰とも目を合わせたくなさそうだった。
フィアがちらりと見る。
「食べないの?」
「……あ、いえ」
ニルは慌てて首を振った。
「少し、朝は弱くて」
「ここ、朝なの?」
「……一応」
「一応なんだ」
ニルは困ったように目を伏せる。
「夜の公国では、鐘が鳴れば朝です」
「空じゃなくて鐘基準なんだね」
「はい。空に頼ると、ずっと夜ですので」
「それはそう」
フィアが納得したように頷く。
レインはニルを見た。
おどおどしている。
声も細い。
表情も弱い。
けれど、ただ弱いだけではなさそうだ。
ヴェスペラの人間は、誰も見た目通りではない。
それだけは、もう分かっていた。
食事が半ばを過ぎた頃、オルフェリアがふと口を開いた。
「それにしても」
声は柔らかかった。
「皆様、本当にお元気ですのね」
レインは嫌な予感を覚えた。
「何がだ」
「昨日は大変だったのでしょう? セリネを助け、黄昏の森を越え、この国へ入り、陛下にお目通りまでなさって」
オルフェリアは、ゆっくりと葡萄色の飲み物を揺らす。
「外の方にしては、よく耐えられましたわ」
「……外の方にしては、ね」
「ええ」
笑みが深くなる。
「この国の夜は、外の方には少々重いでしょうから」
セシルが静かに口を挟む。
「ご心配には及びません。我々とて様々な体験を乗り越えてきています。滞在中に無様をさらすことはありません」
「まあ。立派ですこと」
オルフェリアはセシルを見る。
「けれど、この国のしきたりは別物ですわ。礼儀正しいからといって、夜に呑まれないとは限りませんもの」
ラヴィニエが微笑んだ。
「夜に呑まれる、ですか」
「ええ。ここは夜の公国ですから」
「では、祈りを灯しておきましょう」
「祈り」
オルフェリアは楽しそうに復唱した。
「素敵ですわね。灯火は、闇の中でこそ美しく見えますもの」
その言い方に、棘を感じる。
この女は、褒めているようでいて煽っている。試している。値踏みしている。
そして、それを隠すつもりがまるでない。
「言いたいことがあるなら、はっきり言えよ」
レインが言うと、オルフェリアは嬉しそうに笑った。
「はっきり申し上げても?」
「回りくどいよりはな」
「では」
オルフェリアは、優雅に指先を重ねた。
「皆様が本当にこの国に留まるだけの器をお持ちなのか、わたくし少し気になっておりますの」
空気が、わずかに止まった。
ノアが「あー」と小さく声を漏らす。
カレラの眉がわずかに寄る。
イヴェットは面倒そうに目を細めた。
ニルだけが、さらに小さくなった。
「器?」
レインの声が低くなる。
「ええ」
オルフェリアは笑みを崩さない。
「セリネを助けてくださったことには感謝しておりますわ。これは本当。ですが」
「……」
「たまたま傷ついた子を拾った。たまたまこの国に招かれた。たまたま陛下がお許しになった」
ひとつずつ、丁寧に並べる。
「けれど、たまたま迷い込んだだけの方々が、この国の夜に触れ続ける価値がありまして?」
フィアの表情がわずかに硬くなる。
セシルは黙っていた。
ラヴィニエも、今は笑っていない。
ノエルだけが、じっとオルフェリアを見ている。
レインは口元だけで笑った。
「つまり、俺たちが場違いだって言いたいわけだ」
「いいえ」
オルフェリアは首を振る。
「場違いかどうかは、まだ分かりません」
そして、楽しげに続けた。
「ですから、確かめたいのですわ」
レインは、椅子の背にもたれた。
「ずいぶん上から来るな」
「あら。上座にいる者が上から物を言うのは、自然なことではなくて?」
「性格悪いな、あんた」
「よく言われます」
「否定しろよ」
「なぜ?」
レインは一瞬だけ言葉に詰まった。
ノアがついに吹き出した。
「レイン、やめときなって。オルフェリアはそういう人だから」
「そういう人で済ませるな」
シアンが冷たく言う。
「みなさまが不快に思われるのも理解はできます。しかし、オルフェリア様は、皆様を正しく測ろうとしているだけなのですよ」
「測られる側は不快なんだよ」
「では、不快であることに耐える練習にもなりますね」
「お前も大概だな」
オルフェリアは、くすりと笑った。
「ふふ。ですが、ご安心なさって。死にはしませんわ。多分」
カレラが低い声で言う。
「オルフェリア様」
「分かっておりますわ、カレラ。お客人に失礼があってはいけませんもの」
「その言葉が一番信用なりません」
「まあ。ひどい」
オルフェリアはまったく傷ついていない顔で言った。
そして、静かに立ち上がる。
「せっかくですもの。皆様に、少しお見せしたいものがありますの」
レインは眉をひそめた。
「見せたいもの?」
「ええ。夜の公国に来た客人に、ただ食事だけでお帰りいただくのは無粋でしょう?」
「無粋でいいんだが」
「あら、遠慮なさらないで」
「してねえ」
「では、なおさら結構ですわね」
「会話できねえのか」
「しておりますわ」
「成立してねえんだよ」
オルフェリアは聞いていない。
あるいは、聞いた上で無視している。
ニルが、静かに一歩前に出た。
「……ご案内、します」
声は小さい。
けれど、その言葉はあらかじめ決められていたようだった。
レインはニルを見る。
「お前が?」
「はい」
「嫌そうな顔してるぞ」
ニルはぴくりと肩を震わせた。
「……していません」
「目が助けを求めてる」
「求めていません」
「今、こっち見るなって顔しただろ」
「……」
ニルは小さく目を伏せた。
その横で、オルフェリアが満足げに微笑む。
「ニルは優秀ですわ。皆様のお相手にも、ちょうどよいでしょう」
「ちょうどよい?」
レインが聞き返す。
「ええ」
オルフェリアは、まるで菓子の焼き加減でも語るように言った。
「わたくしが直接ご挨拶すると、少々刺激が強すぎますもの」
空気が、また少し冷えた。
セシルが静かに立ち上がる。
「その言葉、どう受け取ればよろしいか」
「そのままですわ、セシル様」
オルフェリアは柔らかく微笑む。
「夜には夜の作法がございます。皆様がこの国に留まるなら、知っておいて損はありません」
ラヴィニエが静かに言った。
「つまり、歓迎ではなく試問ですか」
「まあ」
オルフェリアは嬉しそうに目を細めた。
「神官様は言葉を選ぶのがお上手ですわね」
「否定はなさらないのですね」
「嘘は嫌いですもの」
レインは立ち上がった。
「いいぜ」
「レイン」
セシルが制止するように名を呼ぶ。
だが、レインはオルフェリアを見たまま言った。
「そこまで言われて、黙って飯だけ食って帰れるかよ」
オルフェリアの笑みが、ほんの少しだけ深くなる。
「頼もしいこと」
「煽ったのはそっちだろ」
「まさか。わたくしはただ、皆様に夜の公国をご案内したいだけですわ」
「白々しいにもほどがある」
「白は嫌いではありませんわ。夜に映えますもの」
「話をずらすな」
ノエルが静かに椅子を引いた。
「行くの?」
「行くだろ」
「うん」
ノエルは頷いた。
「じゃあ、行く」
フィアも立ち上がる。
「……まあ、ここで引いたら、なんか負けた気がするし」
「飯にも会話にも負けたくねえのか、お前」
「大事」
ラヴィニエは小さく息を吐き、穏やかに微笑んだ。
「では、祈りの灯を持って参りましょう」
セシルも立ち上がる。
「不用意な挑発に乗るべきではありません」
「乗らないのか?」
レインが聞く。
セシルは一拍置いた。
「……同行します」
「乗ってるじゃねえか」
「私も、確かめたいのです。昨日の奇跡やこの国の正体を」
ノアも椅子から立ち上がった。
「じゃあ、途中まで送るよ。中継地点から飛ばした方が早いし」
その時のノアは、いつも通りだった。
軽い。
ふざけている。
どこか他人事。
だから、レインたちは深く疑わなかった。
少なくとも、その時は。
ニルは一行の前に立ち、静かに頭を下げる。
「……では、ご案内いたします」
その声は小さく、頼りない。
けれど、レインは気づかなかった。
ニルの指先が、わずかに震えていたことに。
オルフェリアが、楽しそうに目を細めていたことに。
そして、ノアが一瞬だけ、困ったように視線を逸らしたことに。
夜の公国における挨拶は、握手ではない。
花でもない。
言葉でもない。
それは、夜そのものに触れさせること。
外の者が、夜に呑まれるか。
それとも、夜の中でなお立っていられるか。
そのための扉が、今、静かに開きつつあった。




