EP4 暮色四合 エピローグ 暮色四合
客人たちが去った後、城の空気は少しだけ温度を変えた。
それは、安堵ではない。
緊張が解けたわけでもない。
ただ、外へ向けて整えられていた“王の仮面”が、静かに外された。
場所は、謁見の広間ではなかった。
黒檀の長机が置かれた、窓の少ない会議室。
燭台の火は揺れず、壁に落ちた影だけが、まるで生き物のように長く伸びている。
上座には、アルヴァロス=ブラッドベイン。
その周囲に、四夜公家の当主たちと、それぞれの筆頭従者が控えていた。
テオドーラ=アルケインは、半ば眠るように椅子へ身を預けている。
ノア=ファルケンリートは、退屈そうに足をぶらつかせていた。
イヴェット=ロゼノワールは壁際に立ち、腕を組んだまま目を細めている。
その傍らでは、ウルティマが妙にきらきらした目で周囲を観察していた。
アルヴァロスは、しばらく何も言わなかった。
そして、静かに口を開く。
「……それで構いません」
先ほどまで客人たちに向けていた、王としての声ではなかった。
威厳を削ぎ落とした、もっと薄く、もっと静かな声。
ノアが肩をすくめる。
「陛下の外交用の喋り方、やっぱり慣れないですねー。なんかこう、背筋がむずむずします」
「黙っていれば、王に見える」
イヴェットが短く言った。
「イヴェット様! その言い方、陛下への敬意があるようでないようで絶妙です! 記録したいくらいです!」
「記録しなくていい。黙って」
「はい! 黙ります! 黙って観測します!」
ウルティマは一秒で黙らなかった。
アルヴァロスは咎めない。
ただ、淡く目を伏せている。
イヴェットが改めて問う。
「あの子たちを、この国に残すのですね」
「はい」
「理由は」
アルヴァロスは、すぐには答えなかった。
沈黙が落ちる。
そのとき、部屋の奥の影が、音もなく揺れた。
「まあ。そこは、わたくしも気になりますわね」
黒いレースをまとったような女が、闇の中から滑るように現れた。
オルフェリア=エルミラージュ。
笑っているようにも、蔑んでいるようにも見える目。
優雅で、柔らかく、けれど触れたものを必ず傷つけるような声音。
その少し後ろに、小柄な少女が控えていた。
伏せられた目。
控えめな足取り。
誰とも視線を合わせたくなさそうな、頼りない佇まい。
「……エルミラージュ家、オルフェリア。ならびに、ニル。参集いたしました」
少女――ニルは、小さく頭を下げた。
オルフェリアは衣の端をつまみ、優雅に微笑む。
「陛下、ご機嫌麗しゅう」
「……来ましたか、オルフェリア」
「ええ。面白そうな匂いがいたしましたので」
(……やだなぁ)
ニルは、心の中だけで呟いた。
(この感じ、絶対やだなぁ。姉さまが“面白そう”って言う時、だいたい誰かがひどい目に遭うんだよなぁ……)
もちろん、顔には出さない。
出したら、あとで余計にいじられる。
オルフェリアは、愉しげに目を細めた。
「客人がいらしたそうですわね」
イヴェットが短く答える。
「セリネを助けてくれた」
「ふぅん?」
オルフェリアの声が、ほんの少しだけ甘くなる。
「それはそれは。なんて都合のよい偶然でしょう」
空気が、わずかに冷えた。
ウルティマが両手を胸の前で握る。
「オルフェリア様のその目ぇ……! 疑念と嗜虐が七対三で混ざった完璧な眼差し……ぞくぞくしますぅ! そしてニルも相変わらず小動物みたいでかわいいぃ!」
「ウルティマ」
イヴェットの声が低くなる。
「少し黙ってなさい」
「あ、一番はもちろんイヴェット様です! 妬きました? 妬きましたよね? 今の間、かなり情緒が――」
「黙りなさい」
「はい!」
ニルは、目を伏せたまま一歩下がった。
(ウルティマちゃん、すごいなぁ……この空気でよく通常運転できるなぁ……)
羨ましいような、全然羨ましくないような。
少なくとも、自分には無理だった。
アルヴァロスが全員を見渡す。
「……彼らには、しばらく逗留を勧めました」
その一言で、オルフェリアの唇がわずかに上がった。
「あら」
柔らかな声だった。
「どこの馬の骨とも知れぬ外界の者に、この国での逗留をお許しになるなんて」
そこで、彼女は一拍置いた。
「……どういう風の吹き回しでしょうか?」
室内の温度が、明らかに変わった。
ノアは笑わなかった。
イヴェットも口を挟まない。
テオドーラのまぶたが、ほんの少しだけ開く。
(姉さまっ)
ニルの胃が、きゅっと縮んだ。
(陛下に喧嘩売らないでよぉ……! お願いだから、今日は穏便に帰ろうよぉ……!)
オルフェリアは、そんなニルの内心など知らない。
いや、知っていてあえて無視している可能性が高い。
彼女は、楽しげに続ける。
「この地がどういう場所か。皆さま、お忘れではありませんわよね?」
「……異論があるようですね、オルフェリア」
アルヴァロスの声は静かだった。
怒りではない。
だが、軽くもない。
オルフェリアは恭しく頭を下げる。
「異論、というほど大仰なものではありませんわ。わたくし、ただ何事も自分の目で確かめないと気が済まない性質ですの」
「何を確かめるつもりですか」
テオドーラが、眠たげな声で問う。
「知れたことですわ、テオ」
オルフェリアは、ゆっくりと顔を上げた。
「あの者たちが、この夜の公国に踏み入れる資格を持つのかどうか」
ノアが眉を寄せる。
「資格って。いい子たちだったよー。ボク、あの子たち結構気に入っちゃったんだけど」
「ノアは相変わらず甘いですわね」
「甘いかなー」
「甘いですわ」
オルフェリアは微笑んだまま言う。
「もし、ですわよ。あの者たちが、今回の騒動そのものを意図的に仕組んでいたとしたら?」
「……それは、ありません」
テオドーラが言った。
半分眠ったような声のまま。
けれど、その言葉には迷いがなかった。
「セリネの件は……本当に、偶然でした」
カレラが一歩前に出る。
「テオドーラ様のお言葉に、このカレラも保証を重ねます。客人たちに悪意はありません」
「まあ」
オルフェリアは、少しだけ目を丸くした。
「いつもは異邦人に対して厳しいカレラまで。珍しいこともあるものですわね」
「オルフェリアは疑り深いよねー」
ノアが呟く。
「疑り深いのではありませんわ」
オルフェリアは、指先を唇へ添えた。
「慎重なのです。この国は、誰でも招いてよい場所ではありませんもの」
そして彼女は、アルヴァロスへ向き直った。
「陛下。御裁可を」
一瞬、沈黙が落ちる。
ニルは心の中で叫んでいた。
(やめてやめてやめて。御裁可を、じゃないよぉ。絶対ろくなことにならないやつだよぉ)
アルヴァロスは、目を伏せたまま言う。
「……構いません」
オルフェリアの笑みが、深くなる。
「陛下はお話がお早いから、好きですわ」
カレラが即座に口を開いた。
「客人に手荒な真似はおやめください、オルフェリア様」
「あら。手荒だなんて」
オルフェリアは、心外そうに首を傾げる。
「すこぉしだけですわ。ええ、本当に、少しだけ」
ノアがぼそりと言った。
「その“少し”の定義が違うんだよなあ」
シアンが冷ややかに口を挟む。
「私はオルフェリア様に同意します。外より持ち込まれた汚染は、早期に処理すべきですから」
「シアンまで……」
ノアが困ったように笑う。
「でもまあ、ちょっと見てみたい気もするけどね。変わった子もいたし」
「面倒ごとは、こっちに持ち込まないで」
イヴェットが短く言う。
「はいはい。心得ておりますわ」
オルフェリアは、楽しそうに目を細めた。
「壊さない程度に加減いたします。ねえ、ニル?」
ニルの肩が、びくりと跳ねた。
「……え?」
(え? 姉さま? 今、なんで私を見たの?)
オルフェリアは、満面の笑みで言った。
「わたくしが直接手を出すと、すぐに壊れてしまいますもの。あなたが適任でしょう?」
「えっ、え? 姉さま?」
「あら。どうしたの、ニル。大きな声を出して」
「だ、だって、姉さま……」
「あなたを見込んでのことですよ?」
「……」
(出た)
ニルは、静かに絶望した。
(出たよ、“見込んで”って言えば何でも通ると思ってるやつ……!)
オルフェリアはにこやかに続ける。
「ニルも、たまにはお仕事なさい」
「……はい」
声は小さい。
とても小さい。
けれど、ニルのこめかみには、うっすらと血管が浮かんでいた。
(ばか。ばか姉さま。ほんとにばか。私がこういうの苦手なの、知ってるくせに。絶対知ってるくせに)
テオドーラが、半分眠ったまま呟いた。
「……ニルちゃん……ご指名ですね」
「テオドーラ様ぁ……」
助けを求めるように見ても、テオドーラはもう目を閉じかけている。
頼れる上官が、いない。
致命的だった。
アルヴァロスは、しばらく彼女たちのやり取りを聞いていた。
そして、静かに言う。
「……構いません」
全員の視線が、彼に集まる。
アルヴァロスは続けた。
「ただし、ほどほどに」
ノアが苦笑する。
「その“ほどほど”が一番難しいんだけどねー」
「ほどほど、心得ておりますわ」
「オルフェリアの“心得てる”も信用できないんだよなあ」
オルフェリアは、気にした様子もなく微笑んだ。
「では、明朝。お客人たちに、ほんの少しだけご挨拶を」
ニルが小さく口を開く。
「……姉様」
「何かしら、ニル」
「……私、嫌なんですけど」
「まあ」
オルフェリアは、うっとりとした顔をした。
「可愛いことを言うのね」
(言葉が通じない)
ニルは、深く理解した。
(毎度毎度、姉さまの気まぐれに付き合うのが嫌なんだってば……! かわいいとかじゃなくて、嫌なの。嫌。明確に嫌)
けれど、言葉にはできなかった。
この場でそれを言えば、オルフェリアはもっと喜ぶ。
それが分かっているから、ニルは黙るしかない。
照明の下、四家の影が長机に落ちる。
それぞれ形は違う。
けれど、どれも夜に属する影だった。
その中央で、アルヴァロスは静かに目を伏せている。
王でありながら、まるでこの場にいないように。
この国そのものの奥底に、意識の大半を沈めているかのように。
やがて、彼は言った。
「御心のままに」
その言葉に、四家はそれぞれの形で頭を垂れた。
テオドーラは眠るように。
ノアは軽く笑うように。
イヴェットは無言で。
オルフェリアは、舞台の幕が上がるのを待つ女優のように。
ニルだけが、ほんの少し遅れて頭を下げた。
(……なんでこんなことになるのよぉ)
目を伏せたまま、心の中で小さく叫ぶ。
(ばかばかばかばか。ばか姉さま)
広間に、夜が沈む。
そして、夜の公国の夜は、さらに深くなっていった。
どこでもない場所
そこには、床も天井もなかった。
ただ、記録だけが浮かんでいる。
光でも、文字でも、声でもない。
けれど、それは確かに“情報”だった。
「シルヴスが言ってたやつ、アルキアも記録したんやな」
フラクスが言った。
「アルキアは記録しています」
アルキアが返す。
「王都周辺における、通常とは異なる乱れ。発生時刻、干渉密度、影響範囲、いずれも既存記録と一致しません」
「複数、やったな」
「ええ。アルキアの記録では、複数種の大きな乱れが確認されています」
フラクスは指先で何もない空間を叩いた。
とん、とん、とん。
「複数か……」
シルヴスが横から顔を出す。
「ボクが言ったやつ」
「そや」
フラクスは、シルヴスへ視線を向けた。
「で、もう少し詳細出せるか?」
「んー」
シルヴスは首を傾げた。
「詳しくは分かんないや」
「使えんなあ」
「でも」
「でも?」
シルヴスは、笑った。
「……ヴェスペラかも」
フラクスの指が止まった。
「ヴェスペラか」
「うん。珍しいな、って思った」
「珍しい、で済ませる話ちゃうやろ。あいつら、めったに動かんで」
「そうだね」
シルヴスは、他人事のように頷く。
「だから珍しい」
「問題やな」
「問題かな?」
「問題や」
「そっか」
シルヴスは、あまり興味がなさそうだった。
アルキアが淡々と続ける。
「アルキアの記録では、ヴェスペラ由来と推定される乱れのほか、分類不能の干渉が同時期に発生しています」
「分類不能」
フラクスの声が低くなる。
「記録にない質、言うてたやつか」
「ええ。アルキアの記録にない質の干渉です」
「シルヴス、お前はどう見た」
「分からない」
シルヴスはあっさり言った。
「分からないけど、気になる。ボクが知ってるものじゃない」
「お前が知らんって、結構まずいんやけどな」
「そうなの?」
「そうや」
「ふうん」
シルヴスは笑った。
善悪の感触がない笑いだった。
「じゃあ、面白いね」
フラクスはため息をついた。
「お前なあ……」
「アルキアも、記録にない質として処理しています」
アルキアが言う。
「未分類。未照合。未確定。現時点では、既存因子との一致率を算出不能」
「記録にない何かが、ヴェスペラの動きと同じタイミングで生じとる」
フラクスは、ゆっくりと言った。
「偶然にしちゃ、出来すぎやな」
「アルキアは偶然性の評価を保留します」
「そらそうやろな」
フラクスは、また空間を叩く。
とん、とん、とん。
「ヴェスペラが絡んでるなら、アレが動く可能性は?」
アルキアが一拍置く。
「可能性としては、存在します」
「それは、コスパ悪いで……」
シルヴスが首を傾げる。
「コスパって何」
「面倒ってことや」
「そっか」
シルヴスは納得したように頷いた。
「面倒なのは嫌?」
「嫌に決まっとるやろ」
「ボクは、ちょっと見たいけど」
「怖いこと言うなや」
「だって、珍しいから」
シルヴスは、無邪気に笑っている。
「記録にないものが、また動くといいな」
「それだけか」
「うん」
「ほんま怖いわ、お前」
アルキアは、何も言わない。
ただ、記録していた。
フラクスは少し黙った後、短く言う。
「アルキア」
「はい。アルキアは応答します」
「次に動いたら、すぐ教えてくれ」
「承知しました。アルキアはフラクスに報告します」
「ヴェスペラの方もや。けど、優先は――」
「記録にない方」
アルキアが言った。
フラクスは、わずかに目を細める。
「ああ」
シルヴスが首を傾げた。
「フラクスも、気になるの?」
「……気になるっちゅうか」
フラクスは、珍しく言葉を選んだ。
「嫌な予感がするんや」
「嫌な予感」
「そや」
シルヴスは、それを聞いて、また笑った。
「フラクスが嫌な予感って言うの、珍しいね」
「……昔からな」
フラクスは、誰に向けるでもなく呟いた。
「悪い予感だけは、よう当たるんや」
アルキアは何も言わなかった。
記録するだけだった。
記録にないもの。
ヴェスペラの揺らぎ。
夜の公国。
分類不能の干渉。
そして、フラクスの嫌な予感。
それらはまだ、線にはなっていない。
だが、どこでもない場所の記録の奥で、何かが静かに結び直されていく。
世界はまだ、それを知らない。
彼らもまだ、それを名づけていない。
ただ、記録だけが残る。
そして、夜は当分明けそうにない…




